トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

イスラーム史のなかの奴隷 その②

2019-02-14 21:11:33 | 読書/中東史

その①の続き
 逆境に置かれた奴隷は逃亡し、捕えられて罰せられ、またしばしば仕事をサボタージュする。主人は奴隷を怠け者と見なすが、これはアメリカの集団奴隷農場で見られた奴隷の姿と何ら変わることはない。一方、アメリカの農場においても、主人の側近として用いられた家内奴隷たちは主人から愛され、諸事を任される重要な立場にいた。
 そういった家内奴隷が、農場の労働奴隷から「主人の回し者」「裏切者」と差別されることも一般的であったという。これを以って著者は、イスラーム社会の奴隷たちとあまり変わりない奴隷の姿は、近代アメリカにも探し出すことが出来る、と述べている。

 奴隷の境遇が主人により大きく左右される点では、オスマン帝国と近代アメリカも違いはない。それでもイスラーム社会での奴隷制度が、あまり苛酷ではない側面があった事実は否定できない。欧州では女奴隷を解放、正式に妻にすることなど考えられなかった。欧州諸国で奴隷上がりの母を持つ国王など皆無だろう。同じ一神教世界でも、キリスト教圏とイスラム圏での奴隷の地位はやはり異なる。
 奴隷制度は古代から世界中で存在していたが、イスラーム圏の奴隷制のルーツは古代地中海・メソポタミア社会に求められるようだ。特に7世紀から15世紀に至る時代においては、ローマ帝国の南方継承国家としてのイスラーム社会こそが、地中海的奴隷制度を継承した中心的な社会だった、と著者は云う。

 この間、イスラーム支配下のスペインやイスラーム文化の強い影響下にあった南欧と地中海の島々を除き、経済的停滞状況にあった欧州では奴隷制を施行するだけの社会的活力を失っていたのだ。
 これに対し、13世紀以降経済的・文化的活況を迎えたイタリア、特にフィレンツェには極めて多数のチェルケス系、テュルク系奴隷が家内奴隷として使用されており、この史実は本書で初めて知った。塩野七生氏の作品には、この種の奴隷は登場してなかったから。このチェルケス人たちは、マムルーク朝にチェルケス人奴隷を供給したイタリア商人が、自国にも供給した人々だった。

 イスラーム社会では奴隷は、シャリーア(イスラム法)により明確に定義された身分だった。法的には「奴隷」と「自由人」に分離され、両者が混同されることはない。建前上はそうでも、事実上は売買されてしまう自由人や売買を禁止される奴隷がいた。
「奴隷」という存在が非常にはっきりしているイスラーム社会でも、社会の実態においては「奴隷」に極めて近い自由人や、「自由人」に極めて近い奴隷が存在していた。そしてマムルークのように身分上は君主の奴隷軍人であっても、自由人よりも大きな権力と財力を持つ「奴隷」たちが存在したのも、イスラーム社会の特徴だった。

 イスラーム社会に限らないが、奴隷は家財道具、馬などの家畜と全く区別なく扱われている。事実、奴隷は「喋る家畜」であり、主人の所有物なのだ。シャリーアにおいて財産は、声を発しないモノ、つまり器物と声を発する家畜に分類され、さらに声を発するモノのうち、言葉を発するモノが奴隷なのだ。
 一方、奴隷は全ての人間性を失っていた訳ではない。所有されるモノであっても、彼らには人間として生存する権利が存在しており、主人は彼らの衣食住に責任を持ち、人間としての最低限の生活を保障しなくてはならなかった。
  また、過度の懲罰も禁じられていた。人間としての尊厳を左右するほどの懲罰を与える主人は、その奴隷を所有する権利がはく奪され、具体的には裁判官が主人に対し、その奴隷を売却するよう強制することが出来た。

 その意味で、シャリーアにおける奴隷には一応生命の安全が保障されていた。一般にイスラーム社会の奴隷制が比較的穏やかと言われる所以である。
 尤もマムルーク朝奴隷制の研究者ショーン・E・マーモン(プリンストン大准教授)によれば、このような法的規制は必ずしも実態を伴っていなかったそうだ。実際には主人が奴隷に対して過重な懲罰を下し、特に死に至らしめたとしても、それを法的な裁きの場で断罪するケースはさほど多くなく、法的には主人の自由裁量をかなりの範囲で容認する風潮があったというのである。
その③に続く

◆関連記事:「固定給を貰っていたトルコの性奴隷たち

よろしかったら、クリックお願いします
  にほんブログ村 歴史ブログへ



最新の画像もっと見る