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聖体降福式は聖体のうちにおける主の御へりくだりの償いである

2020年05月25日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
 
聖体の顕示に関する黙想
 
聖体降福式は聖体のうちにおける主の御へりくだりの償いである
 
 礼拝 聖体の秘跡のうちに隠れて祭壇上においでになるイエズス・キリストを礼拝しよう。
 
 聖会は多くの殉教者、教皇、博士、聖人たちの口を借りて次の事実をあなたに告げる。ここにおいでなるのは、あなたの天主、童貞母より生まれ、カルワリオ山上で世の人々の罪のために生贄(いけにえ)となり、死んでよみがえられ、天に昇って天父の右に坐し、宇宙を統治されるキリストである、と。
 
 まことにそうであり、あなたもまたこれを確信する。聖体中での主の実在を証(あか)すためには、あなたもまた自分の鮮血を注いでもよいと考えているであろう。
 
 だが、ご復活後の主にとっては、屈辱の時期は過ぎ去った。どんな苦痛も恥辱も、もう主に加えることはできない。そして主は天国で、光栄と誉れとを永遠に所有されるのである。
 
 それなら主は、なぜ人に知られず、謙遜そのものともいえるこの秘跡のうちに満足しておとどまりになるのであろうか。
 
 ああ、それは私たちに対する愛以外に理由がない。主は私たちを愛するあまり、天国での誉れと特権と光栄とのいっさいを自分から捨てて、全能によって秘跡の形で再びこの世にくだり、世の終わりまで私たちといっしょにとどまることを望まれたからである。
 
 主のこの御ふるまいをなんといったらよいのだろうか。聖パウロはご托身について、み言葉は自分を無として奴隷の姿をおとりになったと言いあらわした。いまや、最も美しい人の子、光栄のうちにおけるキリストは、すべての被造物を支配される王笏(おうしゃく)と天使の大軍が恐れおののきつつ礼拝する御稜威とをホスチアの中にひそめ、太陽よりも光り輝く光栄を秘跡のおおいで包み、御父のみ旨への完全な服従によって、いっさいの人類を裁く権利をかち得られたご自身を、人間の意志にすべてゆだねられるのである。主のこのありさまは、ご自分から選ばれた虚無そのものというよりほかに言いあらわす方法がない。
 
 しかし、実は虚無以上の虚無である。なぜなら、もともと虚無なものが虚無になったのは、当然であるが、主の場合には、それが無限の愛によって自由にお選びになった屈辱と犠牲との累積であるからである。
 
 だから、聖体の中においでになる主を礼拝するとともに、償いの義務のあることを忘れてはならない。私たちは、この地上で許されるかぎり天国にならい、私たちのため聖櫃の中にご自身を埋没して放棄されたご光栄を、主にお返ししなければならない。
 
 聖ヨハネは、黄金の玉座にすわられる主をほのおと電光とが囲み、勝利を占められた子羊のみ前に無数の大群衆が讃美歌を歌い、また立ちのぼる祈りの香煙の中で、聖者たちがひれ伏して主におのれの冠をささげるのを見た。
 
 聖体降福式は、ヨハネによってしるされた天国における礼拝の貧弱な模倣である。だから、高くしつらえられた玉座の周囲には、多くの花とろうそくとがあり、その中心には天地を支配される聖体が安置してある。会衆のまなこは、みな主に注がれ、人々の心は、みな主に集まり、これによって諸天使諸聖人はいうまでもなく、御母マリアに対する尊敬も、しばらく光を消してしまうのである。
 
 それでは司祭と信者とを問わず、みんな聖体の玉座のみ前にひれ伏して『勝利を占めたまえる子羊に光栄あれ』との天上の賛美歌に声を合わせよう。『屠られたまう御者に、能力と名誉と賛美と感謝と祝福と世々にあれかし。アーメン。』
 
 感謝 ああ、だが、あまりにも慈愛深いキリストよ、なぜ御身は、このような貧しい償いをもって満足なさるのであろうか。なぜ、主は、勝利者の光栄をもって私たちの眼前にあらわれたまわないのであろうか。もちろん、それは主にお仕えする幸福を私たちに得させてくださるためであって、ただそれだけの理由でも、主はこの隠れた卑しい存在をお選びになったであろうと思われる。しかし、主はなお別に多くの理由ももっておられるのである。
 
 すなわち、主が天国の光栄を捨て、貧弱なパンの一片の外観の中に隠れておいでになるのは、
(一)私たちの救いの源である主のご死去の事実をできるだけはっきり私たちに示されるため、
(二)私たちに貴重な信仰の徳を養わせるため、
(三)主の大いなる光栄を直接に仰ぐには、あまりにもかよわい私たちの目をいたわってくださるため、
(四)世間のごうまんと貪欲とを絶え間ない謙遜と屈辱とによって償いたもうためである。
 
 これらの理由によって、かりに私たちの肉眼には御血を流しておなくなりになる主の御姿を仰ぎ見ることができなくても、聖体はまことに十字架に釘づけられた救い主ご自身にちがいないことがわかる。
 
 このような思いは、あなたの心に最も熱烈な感謝の念をひき起こさないであろうか。
 
 償い もし主が突然聖体のおおいをとって、光り輝く御姿を祭壇上におあらわしになり、怠惰、冷淡、不熱心で、不義の執着に迷う私たちを叱責されるなら、そのすさまじいご威光に、私たちは色を失い、恐れふるえて息が絶えるであろう。それを思えば、今日、無限の御あわれみによって私たちの罪と冷淡とをお見過ごしになる主をあなどる私たちのこの不熱心な状態を継続していてよいであろうか。主をあなどる私たちをどんな刑罰が待ち受けていることであろうか。
 
 祈願 聖体の中で、最上の威勢と光栄とを有しておられる全能の天主が実際においでになって私たちの礼拝と尊敬とを待っておられるから、聖体に対しては愛とともに敬畏を忘れてはならない。ああ、イエズスよ、御身の無限な御慈愛とともに無限なる御稜威の在(ましま)すことを私たちに深くさとらしめたまえ。
 
 実行 聖堂は天国である。目には見えないが、天主の光栄はその中に満ちている。だから聖堂に入ったら、謹慎と謙遜の心をもって、まず聖体を礼拝しよう。







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