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聖ピオ十世会 2019年10月聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass SSPX JAPAN

2019年10月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日はロザリオの聖母の祝日ですね!

10月の初金と初土曜日に大阪でミサをすることができ、また10月6日と7日には東京で聖伝のミサを捧げることができて幸福です。

大阪では、多くの新しい方々との出会いがあり、嬉しく思いました。土曜日には先月亡くなったローザさんの追悼ミサが行われました。

東京では主日に85名が、月曜日にはミサの時間が六時半と早かったにもかかわらず10名が参列されました!

ご報告を頂いたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

また、10月13日(主日)、14日(体育の日)には大阪でミサがあります。
10月14日については、休日なので、午前10時にミサを行います。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私たちの大切な小野田神父様こんにちは。
10月の初金、初土の御ミサの報告をお送り致します。

10月4日(初金)の至聖なるイエズスの聖心のミサには14人、
10月5日(初土)のミサには26人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

両日共に、ミサの後に御聖体降福式がありました。
特に、11月に来日される教皇様の為にこのご聖体降福式をお捧げいたしました。教皇様の来日が日本のカトリックに益あるものとなります様にイエズス様の憐れみを希います。

初金曜日のお説教では、イエズス様の聖心が私達にお望みになる事は何かを黙想致しました。
全能、永遠の天主イエズス様が惨めな私達にお望みになっておられることは、イエズス様が、どれ程私達を愛しているか、それを理解してその愛に、愛をもって全てを尽くして愛をお返しする事です。
最大の掟、「全てを尽くして汝の天主を愛せよ」これだけをイエズス様は求めておられるにも関わらず、私達はどれほど冷淡で居続けるのでしょうか?
全ての愛と栄光と賛美を受けるに相応しいイエズス様の聖心は、私達を必要とされないにも関わらず、まるで乞食のように謙遜に、愛と憐みと善から私達が主を愛する事を望んで下さっているのです。 幼きイエズスの聖テレジアが言った「私達は人生の終わりに愛によって裁かれる」という事がよく理解できました。
ロザリオの聖母マリア様のお助けをもって、沢山の愛をマリア様と一緒に、マリア様を通してお捧げしようと遷善(せんぜん)の決心をたてました。

土曜日は、追悼ミサで、その中でロザリオについてのお説教をいただきました。
故ローザさんが毎日、毎日欠かさず唱えていらっしゃったロザリオの力と、現代におけるロザリオの祈りの必要性を黙想しました。
ローザさんが跪いてひと言ひと言、ゆっくりと美しくロザリオを唱えていらっしゃのを思い出しながら、ローザさんの永遠の安息と、日々の意向のためにロザリオを心を込めて唱えることができるよう、 お恵みを希いました。

土曜日の公教要理では、プロテスタント(マルチン・ルター)の第一原理と、カトリックの違いを勉強しました。
Justification をプロテスタントでは「義認」、カトリックでは「義化」と訳すように、ここに明らかな違いがありました。

「義認」とは、人間は罪から解放されることなく、罪の汚れは持ち続けるが、ただ天主が人を名前だけは「義」とされる、つまり内的ではなく、外的に「義ラベル」を張り替える」という意味です。実際は重病人だけれども、お医者さんはただ「健康体ですよ」と言って下さっている、と考えると簡単でした。
それに対して、カトリックの「義化」は、イエズス・キリストの贖いと聖血の功徳によって私達の罪は赦され、本当に真っ白に癒される、「義」とされるとします。
現在の結果としての弱さは残るものの、天主の聖寵、お恵みによって内的に赦し、清められるという意味です。

このルターの第一原理は4つの結果を生むこととなります。
①人は信仰のみ(Sola Fide)でいいので、仲介者は不要、基本的に全ての信仰者は司祭である。
②人は罪に汚れきっていて腐りきっていいるので、善行をしても意味がないし、善行などできない。ただ信じた印として善行をおこなう。(悲観主義)
③道徳律は不可能である。人は掟を守る事などできない
④教会は見えないもので、義人のあつまり。不明瞭。

これの四つの結果に対してカトリックは、
①叙階という秘跡を用いて司祭をつくり、位階制を昔からもっている。
②天主からのお恵みによって、惨めながらも善行をすることは出来、それは功徳となって天主の心に叶うものとなれる。
③掟を守らねば、(大罪を犯すと)義人ではなくなり、地獄にいかなければならない
④使徒信教にあるように、「一」「聖」「公」「使徒継承」のはっきりとした四つの印をもっている。

また、聖書以外に権威はない「聖書のみ」が権威を持つと、プロテスタントは主張するが、その聖書には「聖書のみ」とは書かれていない。
カトリックでは、啓示の2つの源泉「聖書と聖伝」がある。

以上のようなお話でした。
たった一つの考えの間違いから多くの過ちに繋がっていく恐ろしさを感じました。
何が正しくて、何が間違っているのかを、全ての人が理解し、永遠が決まってしまう審判のときではなく、生きているうちに理解する事が 出来るお恵みをマリア様を通して多くの人に与えられますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪の御ミサの後、プロテスタントとカトリックの違いについて教えていただきありがとうございました。
私自身がプロテスタントからの改宗者なので、以前の教会で理解できなかった点がルターの教えから来ているものだと、よく理解できました。
「義認」について、罪人であることを隠す(なかったことにする)という表現もとても合致し、それだからプロテスタントの方々は「罪」に対しての意識が薄いのだなと思いました。プロテスタントの教えでは個人的に悔い改めることはできても、償いをすることができません。自分の犯した罪を自覚すると同時に償いの気持ちが芽生えるのは自然なことだと思うのですが、それを不要としてしまっては、人間は罪を重ねるだけになってしまいます。
プロテスタント教会はそれでも、「信仰のみで」の教えなので、現世では「善人は現世でも恵まれながら、天国へ行ける」「悪人は現世では恵まれないが、天国では恵まれる」と教えています。しかし、その教えでは現世の秩序は乱れたままです。果たして、そのような世の中を天主様はお望みでしょうか…?と、問いたい気持ちになると同時に、まだ聖伝の教会に出会うことのできていないすべての人々のために祈らねばと思いました。

今こうしてマリア様にも出会い、告解の秘跡を受けていることが、どんなに素晴らしいお恵みか!まだまだ信仰も祈りも犠牲も足りないしもめですが、仲介者であるマリア様の御取次によって、より多くの人々が信仰に導かれるよう願います。

(補足)
ひとつ思い出したのですが、プロテスタント信者にとって「教会は信仰を強める場所」という教えだったと記憶しています。「万民祭司」の教理からくる発想でしょうか?「教会での礼拝を通し、聖霊の導きによって信仰を強めることができる」というものでした。今思うと、信仰宣言をしたすべての人々がペトロの継承者⁈⁈⁈と思うと驚きですね。
次回の公教要理も楽しみにしています!
デオ・グラチアス!

【お返事】
コメントをありがとうございます。
今回のお話しでは、なるべくルターの考えが何か、ということを出来るだけ正確に捉えようとしてみました。
その根本思想が「義認」です。

ルターによると、人間は罪人のままのこり、いかなる善も行うことが出来ないほど腐り病んでいます。ルターによると、救いは、全く純粋に天主の業であり、人間は何もすることがない、とされます。
信者はどのような意味においても救いの業に参与しないし、協力もしない、とされます。何故なら、人間は善をすることができないほど腐敗しきっているからです。
ルターによれば、人間は善を行って、功徳を積むこともないし、罪を償うこともできない、とされます。善行は、救われたものであることの印にすぎない、と。
ルターによると、秘蹟の執行(洗礼と晩餐)や説教、礼拝、などは、善行の一部ですが、信者の確信・信仰を促進させるという目的しかありません。
これらの行為が信者らを聖化するのではないし、功徳があるのでもないのです。
ルターによると、天主は、全く恣意的に望むがままに自分の義を人間に帰すだけです。
ですから、ルターに従うと、プロテスタント信者にとって、教会での礼拝を通し、聖霊の導きによって、信仰を強めてもらうように願うとされます。
ルターによると、すべては天主次第なのだけれども、自分が救われているという印として、礼拝などを行うとされています。

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 41人(内、子供8人)
女: 44人(内、子供5人)
計: 85人(内、子供13人)

【報告】

小野田神父様

今日は とてもしみじみしたお説教でした。
ちょうど一年前の十五玄義図の発見時の朝日新聞の関連記事をおくらせていただきます。

16世紀のキリシタン信仰画が澤田美喜記念館で見つかりました。



ご聖体の連祷と黙想の図(十五玄義図)

今回調査を行ったところ、絵が日本風でこれまで発見されている他の十五玄義図とは趣が違っており、年代測定(放射性炭素年代調査)をしたところ、1556年から1633年に作られた紙であると確定されました。



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2 コメント

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洗礼だけでは制度不良 (年金生活者)
2019-10-08 17:28:03
プロテスタントのことはよく知りませんが、洗礼以外の秘跡はないそうですね。受洗すれば、その時は魂はきれいになりますが、この世で暮らしていく間に魂は少しずつ汚れていきます。カトリックは告解の秘跡でその汚れを落とすことができますが、プロテスタントにはそれがありません。汚れたら汚れっ放しです。
どんな機械でも定期的にメンテナンスして長く持たせるという仕組みがありますが、プロテスタントにはその仕組みがありません。これはプロテスタントの制度不良あるいは構造的な欠陥と言ってもいいのではないでしょうか。
始めまして!コメとをありがとうございます! (Fr Thomas Onoda)
2019-10-16 20:31:00
アヴェ・マリア・インマクラータ!

年金生活者さま、
こんにちは!
コメントをありがとうございます! 大変嬉しく思います。
ご指摘の通りだと思います。
これからもよろしくお願いします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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