2020年02月27日
長い時間をかけて、準備したことが中止になる無念さ
不要不急の文化交流活動が生活を彩り、楽しいものにするのだが
に
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不要不急の、不特定多数の人が集まるイベントは当面自粛せざるを得ない、ということでしょうか。
不要不急ではないこととは、人々の生存、安全にかかわること
食料、飲料の確保、医療行為、電力、水道、通信などのインフラ確保などでしょうか?
音楽のコンサート、スポーツ観戦などは、アーティスト、アスリートにとっては真剣勝負でも、観客にとっては不要不急、となります
講演会、公開研究会、あるいは立食パーティー、飲み会なども、人々の生存、安全には、不要不急で、感染のリスクを避けるために、中止、延期になっています。
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と書きました。
新型コロナウィルスの影響で、やむなくライブ中止に至ったノンラビの思い
というツイートがありました。
1年以上前から会場を予約し、いよいよライブという時期に、やむを得ず中止に至ったアーティストの憤懣やるかたない、無念さが伝わってきます。
観客にとっては、不要不急であっても、当事者にとっては真剣勝負で、長い期間をかけて準備してきたものです。
ただ、「政府の要請で」ではなく、「現在の社会状況を鑑みて」ではないでしょうか?
むしろ、「現在の社会状況を鑑みつつ」も、「政府の要請」を認識しつつも、予定通り、コンサートを行い、もし、コンサートを起点に大量の感染者がでてしまったのなら、そちらのほうのダメージも大きいものになります。
上記ツイートでは、不特定多数が集まるコンサートは中止要請でなのに、電車、バスなど、同じく不特定多数運人が利用するものには、時差通勤通学の要請はあるものの、中止要請はない、とされています。
ただ、「不要不急」という観点では、コンサートよりも公共交通機関の方が、重要度は高い、と言えます。
あるいは、新型コロナウィルスの感染が今後も拡大するのであれば、電車、バスなど公共交通機関の利用制限もない、とは言えません。
長い時間をかけて、着々と準備してきたものが、いよいよという時に、新型コロナウィルスの影響で中止になる無念さは、どう表現すればよいのでしょう?
思いつく事例では、
1980年モスクワオリンピックの日本選手団の出場ボイコット
東大闘争50年、1968年再考グローバル関係学からのアプローチ
に書いた、1969年の東大入試の中止
などでしょうか。
東大の入試中止は、
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東大闘争により、その年の東大入試は中止となります。
大学入学率が10%を超える程度だった当時、大学生はエリート、東大生は超エリートでした。
その東大入試が中止、ということで、その時の受験生は、やむなく浪人を余儀なくされるか、京大、東工大、一橋大を受験することになりました。
その余波で、京大、東工大、一橋大の合格ラインが上がり、本来ならば、合格できる受験生が不合格となりました。
ただ、京大、東工大、一橋大に入学した学生も、結局、1年後には東大を受けなおす人も多く、大きなひずみを残しました。
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などの影響がありました。
人は変わるけれど、組織は、なかなか変わらない「慣性の法則」
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「慣性の法則」が働き、簡単には変わりません。
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と書きました。
今回のクルーズ船旅行でもあったかもしれませんが、長い間、準備して楽しみにしていた旅行が、直前でリスクが出てきたとしても、現時点のような大きなものではなく、小さなものと感じたならば、そう簡単にやめられるものではありません。
もちろん、結果としては、その後のリスクのほうがはるかに大きい、こともあることが今回の事例なのですが。
結論も対策もありません。今考えていることを書きました。
に
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不要不急の、不特定多数の人が集まるイベントは当面自粛せざるを得ない、ということでしょうか。
不要不急ではないこととは、人々の生存、安全にかかわること
食料、飲料の確保、医療行為、電力、水道、通信などのインフラ確保などでしょうか?
音楽のコンサート、スポーツ観戦などは、アーティスト、アスリートにとっては真剣勝負でも、観客にとっては不要不急、となります
講演会、公開研究会、あるいは立食パーティー、飲み会なども、人々の生存、安全には、不要不急で、感染のリスクを避けるために、中止、延期になっています。
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と書きました。
新型コロナウィルスの影響で、やむなくライブ中止に至ったノンラビの思い
というツイートがありました。
1年以上前から会場を予約し、いよいよライブという時期に、やむを得ず中止に至ったアーティストの憤懣やるかたない、無念さが伝わってきます。
観客にとっては、不要不急であっても、当事者にとっては真剣勝負で、長い期間をかけて準備してきたものです。
ただ、「政府の要請で」ではなく、「現在の社会状況を鑑みて」ではないでしょうか?
むしろ、「現在の社会状況を鑑みつつ」も、「政府の要請」を認識しつつも、予定通り、コンサートを行い、もし、コンサートを起点に大量の感染者がでてしまったのなら、そちらのほうのダメージも大きいものになります。
上記ツイートでは、不特定多数が集まるコンサートは中止要請でなのに、電車、バスなど、同じく不特定多数運人が利用するものには、時差通勤通学の要請はあるものの、中止要請はない、とされています。
ただ、「不要不急」という観点では、コンサートよりも公共交通機関の方が、重要度は高い、と言えます。
あるいは、新型コロナウィルスの感染が今後も拡大するのであれば、電車、バスなど公共交通機関の利用制限もない、とは言えません。
長い時間をかけて、着々と準備してきたものが、いよいよという時に、新型コロナウィルスの影響で中止になる無念さは、どう表現すればよいのでしょう?
思いつく事例では、
1980年モスクワオリンピックの日本選手団の出場ボイコット
東大闘争50年、1968年再考グローバル関係学からのアプローチ
に書いた、1969年の東大入試の中止
などでしょうか。
東大の入試中止は、
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東大闘争により、その年の東大入試は中止となります。
大学入学率が10%を超える程度だった当時、大学生はエリート、東大生は超エリートでした。
その東大入試が中止、ということで、その時の受験生は、やむなく浪人を余儀なくされるか、京大、東工大、一橋大を受験することになりました。
その余波で、京大、東工大、一橋大の合格ラインが上がり、本来ならば、合格できる受験生が不合格となりました。
ただ、京大、東工大、一橋大に入学した学生も、結局、1年後には東大を受けなおす人も多く、大きなひずみを残しました。
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などの影響がありました。
人は変わるけれど、組織は、なかなか変わらない「慣性の法則」
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「慣性の法則」が働き、簡単には変わりません。
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と書きました。
今回のクルーズ船旅行でもあったかもしれませんが、長い間、準備して楽しみにしていた旅行が、直前でリスクが出てきたとしても、現時点のような大きなものではなく、小さなものと感じたならば、そう簡単にやめられるものではありません。
もちろん、結果としては、その後のリスクのほうがはるかに大きい、こともあることが今回の事例なのですが。
結論も対策もありません。今考えていることを書きました。
stake2id at 16:04│Comments(0)│