FrenchBloom.Net フランスをキーにグローバリゼーションとオルタナティブを考える

黒沢清、あるいは変貌し続ける男―2020年ヴェネツィア映画祭で銀獅子賞を受賞―

text by / category : 映画

2020年ヴァネツィア映画祭に出品されていた黒沢清の新作『スパイの妻』が銀獅子賞(監督賞)を受賞したとの知らせが入った。黒沢清の国際映画祭での受賞は2015年カンヌ映画祭「ある視点」部門で『岸辺の旅』が監督賞を受賞して以来であり、また、ヴェネツィア映画祭で日本人が銀獅子賞を受賞するのも2003年の北野武(『座頭市』)以来とのこと。 この度の受賞は彼にとっても日本にとっても久々の快挙ということになる。黒沢自身はそれ以前にカンヌでは『回路』(国際批評家連盟賞、2001年)、『トウキョウソナタ』(「ある視点」部門審査委員賞、2008年)で受賞してきたが、ヴェネツィアでの受賞はこれまでなかった。この大舞台でこの栄えある賞を受賞したことは、彼の国際的評価を揺るぎないものにするであろう。

ヴェネツィア映画祭の銀獅子賞と言えば、過去には映画の「黄金時代」とも言える1953年に溝口健二『雨月物語』が受賞し、翌1954年に溝口『山椒大夫』、黒澤明『七人の侍』、フェリーニ『道』、エリア・カザン『波止場』の四作が、さらに1955年にアントニオーニ『女ともだち』、1957年にヴィスコンティ『白夜』が受賞したという誉れ高い賞である。その後の受賞作には、オルミ『偽りの晩餐』(1987年)、アンゲロプロス『霧の中の風景』(1988年)、フィリップ・ガレル『ギターはもう聴こえない』(1991年)などがあり、これら世界的巨匠の作品が受賞して来たこの賞の歴史を振り返ってみれば、シネフィルである黒沢清が自身の受賞を「夢にも思っていなかった」とまで言うのも頷けるであろう。

さて、黒沢清監督の来歴については5年前のFBNの記事「黒沢清、あるいは撮り続ける意思―2015年カンヌ映画祭「ある視点」部門で監督賞―」で詳しく書いたので、そちらを参照していただきたい。ここでは近年の黒澤作品の変貌ぶりについて語ってみたい。

2015年、『岸辺の旅』で初めて「愛」というテーマに本格的に取り組んだ黒沢清は、これまでの黒沢ファンを大いに驚かすことになる。師である蓮実重彦に「黒沢さんにラブシーンが撮れるとは思いませんでした」とまで言わしめたこの映画は、死んだ夫(浅野忠信)と残された妻(深津絵里)とのこの世での「つかの間の邂逅」を描いた作品であったが、根底には堂々たる「恋愛映画」を撮ろうという意志があるように感じられた。その後の『ダゲレオタイプの女』(2016年)も基本的なコンセプトは前作と同様である。男女は入れ替わり、ここにあるのは死んだ女への想いを断ち切れぬ男の姿を描いた物語であるが、このテオフィル・ゴーチエの怪談を想起させる「恋愛奇譚」こそ、この時期の黒沢映画の基本的な構えであった。

もちろん、この時代にも『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)のように、かつての『CURE』(1997年)がそうであったように、観客を恐怖のどん底に突き落とすかのような雰囲気の作品も作られている。次々と「隣人」の家の中に消えていく人々。その家は一体どうなっているのか?「隣人」は果たして何者なのか?この「隣人」を演じた香川照之の文字通りの「怪演」によって、『クリーピー』は近年の黒沢作品の中で、1990年代半ばから2000年代半ばに制作された「黒沢色」の強い(つまりは恐怖色の強い)作品群と最も親和性の高い作品となっている。しかし、これは貴重な例外と言えるだろう。

むしろ、この時期の黒沢の立ち位置は、長澤まさみと松田龍平を主演に据えた『散歩する侵略者』(2017年)の側にある。タイトルから想像できるように、この作品は一見、宇宙からの侵略者によって引き起こされるカタストロフィーを描いた単純なホラー映画のように感じられる。その根底にあるのは、1950年代から60年代にアメリカで量産されたB級SF映画(『遊星からの物体X』(C・ナイビイ、1951年)、『ボディスナッチャー/恐怖の街』(ドン・シーゲル、1956年)など)の精神であることは間違いないし、我々も間違いなくそういう構えでこの作品と対峙することになる。しかし、ラストになると、全く別の方向へと映画が切り替わっていることに観客は気が付かざるを得ない。この作品のテーマは「恐怖」ではなく、むしろそれとは反対の「安寧」の方にあるのだと。

それが『旅の終わり世界のはじまり』(2019年)になると、「安寧」はむしろ映画の根幹部分を占めるかのようになる。確かにそこには、「異国の地でテレビ撮影をする不安」、「続発するトラブル」、そして、「留守中の日本で起こった災厄」、「残して来た恋人の安否」など、主人公(前田敦子)を襲う恐怖の要素は間違いなく存在している。だが、やがてそうしたものは全て「安寧」の方へと回収されて行き、最後に至っては、雄大な大自然を背景に堂々と「愛の賛歌」を歌唱する前田の姿へと結実することになる。ここにある世界は1990年代から2000年代に黒沢清が描いてきた世界の対極のように思われ、観客は大いに戸惑うことになるかもしれない。だが、そこには模索を繰り返しながら、新たな境地へと突き進んで行こうとする映画作家の不屈の意志があると見るべきであろう。いずれにせよ、40年近く映画を撮り続けながら、未だに新たな可能性を探ろうとする黒沢清の若さには驚かされる。

このように明らかに変貌したかのように思える黒沢清が放った新作『スパイの妻』は、一体どういう作品なのだろうか。残念ながら10月16日の公開日までそれは分からないが、太平洋戦争勃発前の神戸を舞台にしたこの作品が、この「恐怖」と「安寧」の絶妙なコントラストの中、全く別の景色を垣間見させる作品になっていることを我々は期待せざるを得ない。変貌し続ける黒沢清を、これからも我々はどこまでも追いかけ続けなければならないであろう。

Top Photo by Annie Spratt on Unsplash



posted date: 2020/Sep/15 / category: 映画

普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中

back to pagetop