「高校の国語 文学と論理 境を越えて」
(2020年7月31日 朝日新聞社説)


朝日新聞という新聞社は、嘘はつくしデマはバラまくし捏造はするし、倫理観や社会的責任感は皆無だし、国を売り飛ばすような売国的な立場を貫くし、本当にどうしようもない新聞社だが、それでも出版界から葬り去るわけにはいかないのは、たまにこのような世の中の本質を問うような鋭い問題提起をすることがあるからだ。今回、全国紙5社のなかで、高校国語の新学習指導要領について触れた社説は朝日新聞だけだ。

22年度実施の新学習指導要領再編によって高校の国語は、論理的・実用的な文章を扱う「論理国語」と、文学的な文章を扱う「文学国語」という選択科目に分けられることになった。これに対して多くの作家や研究者が「文学軽視につながる」と異を唱えている、というのが問題提起の内容だ。その背景には、全体の授業時間の制約や受験への配慮などから「論理国語」が優先され、「文学国語」を採用する高校は少なくなるとみる予想がある。

日本の国語教育は、長らく「文学的素養」と「論理的思考能力」の区分を曖昧にし続ける方針をとって来た。その最たるものが読書感想文だろう。僕は中学時代、夏休みの読書感想文に、作品として作りが甘い箇所や表現が稚拙な箇所、話の流れが強引すぎて不自然すぎる箇所などを列挙した「批評」を提出したら、国語の先生にこっぴどく叱られた。どうやら日本の中等教育では、読書感想文というのは「人生の素晴しい面を新しく知って感動した」という内容でなければならないらしい。それ以降、僕は夏休みの読書感想文には、電話帳や地図帳や料理本など、物語性が皆無なものしか書かなくなった。

高校までの国語では、「文章を書く」という指導がほとんど読書感想文だけに限られる。しかも書かせっぱなしでフィードバックは無い。論理的思考能力に基づく文章を書く訓練をほとんど行わないので、大学に入ってから学生が困惑する。レポートや論文を「読書感想文をめちゃくちゃ長くしたもの」と思っている。現在の大学では、そういう学生に文章の書き方を一から教える不毛な授業が必修科目になっている。

現在の国語教育でも一応、読むほうでは「論理国語」に相当する論説文を扱っている。しかし書くほうとしては壊滅的な状態と言ってよい。今回の新学習指導要領再編は、「『文学国語』を弾く」というよりは、「『論理国語』を確保する」という側面のほうが大きかろう。はっきり言うと、文学なんて書けなくてもいいのだ。しかし論理的文章は、読めて書けなければならない。その質的・量的な区分けを明確にしようとする再編だろう。僕は個人的にこの再編は必要だと思う。

小説家というのは別に論理的な文章を書く必要はない。自分の内的世界を過不足ない形で表現すればいいだけだ。事実、小説家というのは世の中の事象について評論させると頓珍漢なことばかり言う人が多い。善悪の判断でさえ信頼できない人もいる。一般的に小説家というのは「文筆に関する職業」というだけの理由で「知的な人達」、と思われているようだが、本来的に小説と論理的思考能力は関係ない。小説を書くために必要な感覚的整合性と、緻密に理論を紡ぐ論理的思考能力は、もともと種類が違うものだ。小説家が査読に耐え得る学術論文を書けるわけではないし、研究者の誰もが売れる小説を書けるわけでもない。

ところが日本の国語教育ではその両方が混在しているので、子供はその境目が曖昧なまま文章生活を送る。「本を読む」という行いを「勉強する」という行いと同一視して忌避する子供が多いのは、その証左だろう。小説家の多くが今回の新学習指導要領再編に反対しているのは、何のことはない、いま小説が売れないからだ。学校教育で「文学」を国語教育の軸に据えていれば、まだ夏休みの読書感想文等で強制的にでも読ませることができる。しかしもし「論理国語」「文学国語」と明確に区分し、しかも大学入試では前者のほうが重視される、とされてしまえば、子供の文学離れが加速する。おそらくその程度の危機感ではないか。

はっきり言って、「文学国語」は無駄だ。無駄だからこそ、学校でしっかり教えなければならないものだと思う。文学国語に限らず、高校で習うほとんどの教科というのは、実生活では何の役にも立たない無駄なものばかりなのだ。無駄だから、学校を卒業した後に自分から身につけようとする機会がほとんどない。学校で習った内容だけが、一生を通してその人の知的財産に留まってしまう、という人は多いのではなかろうか。学校教育というのは、そういう無駄な知識を、いかにたくさん吸収する機会を提供できるかにその根源的な価値がある。そういう無駄なことをたっぷり教えることのできる時間、人材、教材、環境のゆとりを整えていることが、文明国としての指標だと思う。
小説だって、何の教養も無い人が素手で読めるものではない。段階を追って、徐々に読み方を身に付けなければならないものだ。それを発育段階に従ってしっかり教えることができるのは、学校教育以外には有り得ない。

ほとんどの人は、「読む」という行為を十把一絡げに考えていると思う。論理的に他者の論評を読むことと、楽しみのために小説を読むという行為には、違う能力が求められていることを知らない。どちらが大事か、という話ではない。生きていく上では両方無駄なことだ。無駄だからこそ、それをしっかり教える唯一の機会である学校教育を充実させねばなるまい。



朝顔、枯れちゃった・・・。



「高校の国語 文学と論理 境を越えて」
(2020年7月31日 朝日新聞社説)
高校で学ぶ国語は、22年度実施の新学習指導要領に基づいて再編され、論理的・実用的な文章を扱う「論理国語」と、文学的な文章を扱う「文学国語」という選択科目が登場する。これに対し、多くの作家や研究者が「文学軽視につながる」と異を唱えてきた。全体の授業時間の制約や受験への配慮などから「論理国語」が優先され、「文学国語」を採用する高校は少なくなるとみるからだ。
 日本学術会議の分科会も先月末、懸念とそれを踏まえた改善策を提言した。「『論理』と『文学』を截然(せつぜん)と分けられるものだろうか」との指摘に、共感する人は多いのではないか。例えば大岡昇平の「レイテ戦記」は膨大な史実と考察に基づく作品だが、全集では「小説」に分類されている。物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦の文章には、学術・文学両様の味がある。いみじくも寅彦は「科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか」と書き残している。
 論理国語の目的は、論述の力や批判的な読解力を育むことだとされる。将来進学や就職をすると、様々な文書や図表を読み込み、内容を消化したうえで、論拠を示して主張や反論を行うことが求められる。多くの仕事が人工知能や機械に置き換えられる時代を前に、人間ならではの考え抜く力を培いたい――。今回の再編に込められた問題意識そのものは理解できる。しかしだからといって、学ぶ対象を「『文学的な文章』を除いた文章」に限る理由はない。先の目的にかなう教材だと思えば、ジャンルにこだわらずに、どんどん活用すれば良い。
 実際に学校現場はこれまで、物語の構造を分析し論理的な思考力を養う授業を重ねてきた。教員経験のある研究者は、物語の読解指導をするうちに、苦手だった説明文なども読めるようになる子がいると話す。取りあげる文章の種類に最初からたがをはめてしまうと、教材の多様さが失われ、そうした相互作用は働きにくくなるだろう。国語の教科書検定は今年度と来年度に行われる。学術会議の提言は、文部科学省と教科書会社の双方に柔軟な対応を求めた。自由な発想を大切にし、教材の範囲を窮屈に考えないようにしてほしい。とりわけ文科省には、編集現場の萎縮を招くようなしゃくし定規な検定をしないことが求められる。
 そもそも論理国語がめざすような思考力や表現力は、国語だけで養われるものではない。理科や地理歴史・公民などとの関わりも深い。高校教育全体の中でそうした力を養う方策について、議論を深めてはどうか。