額の生え際の産毛に指が当たるだけでポロポロと抜け落ちるようになり
しばらくは黙っていたのですが何日経っても症状が止まりませんでした。
当時の考えられる原因は…
母との関係(精神的ストレス)でした。
母は勉強の時はより厳しく教えてくれそれはありがたいのですが
理性で厳しく怒るのではなく感情をぶつけてくるのです。
それだけではなく
ずーっと机に向かって勉強しているだけでは能率が下がるので
外に出てバドミントンをさせてもらえることもあるのですが
大体は暑いから、外に出ると危ないから…などの理由から
家の中の階段を数時間おきに十数回往復させられるのです。
高校生にもなって住宅地の周りを昼間ひとりで散歩するのが危ないなんて…
その考え方の方が危ない気がします
実験マウスの苦労がわかるというか…私は母の実験マウスなんだーと
思いながら家の中の階段を昇降していました。
それ以外にも、昔の話しに花が咲いた時
母はそれまで誰にも自分のことは理解されてない(少なくとも父方の家族)と思っているようで
実際そういう部分も多かったようですが。
それを娘が聞いてくれることが嬉しくて仕方なかったようでどんどんいろんな話しをしてくれるのですが
おじさんが早く帰ってこれない日はお酒を飲みながら話し
そのうちに父(元夫)や父方の家族(元義家族)への恨み節になるワケです
父方家族は女性がお酒を飲むというのははしたないという考えの家で育った私は
おまけにお酒を飲みながら恨み節を語る=グチるというのはもっともはしたない姿に見え
それが自分の血のつながった母親の姿と思うだけでもストレスでした。
高校生でまだまだ純なころでしたしね(笑)
一家の昔話に関しては最初のうちは私も真実を知りたいと
自分からも質問することがあったのですが
事実を知るよりも途中からは母の感情論?になりそれが苦痛でした。
けれど、母とは一緒に暮らした時間よりも離れて暮らした時間の方が圧倒的に長いので
遺伝上では親子でも、私の中では母という名の他人だったので
子どものころから母に自分の本心を打ち明けるのがとても苦手でした。
それでもストレスの頂点に達するのを感じたので
清水の舞台から飛び降りるような…窮鼠猫を咬む…そんな勢いで
:お母さん、私の方からも昔のことを聞かせてって言ったのもあるけど
高校生の私にはまだ早すぎるような話しもあるし、
第一、お母さんにとってお父さんは別れた夫でもう会うこともないかもしれないけど
私はあと何日かしたら、そのお母さんの憎たらしいお父さんやその家族のいる家に帰って
その家族と一緒にまた生活せなあかんねん。
もうこれ以上お父さんや家族の悪口は聞きたくない!!
精いっぱいの思いをぶつけました。
母の顔色は一変し
:何言うてんのよーっっ!!
あんたが聞きたいっていうから思い出したくもない昔の話しを
話してやったんやないのー!!
○▼※△☆▲※◎★●・・・・・・・・・・・・・
せっかく娘が過去の真実を知ってくれる気になったと思ったのに
裏切られた気持ちで一杯になったのでしょう、母は私に猛烈な怒りをぶつけ始めました。
そこへおじさんから最寄駅まで車で迎えに来てほしいと連絡があり
最初は私も泣いているので母だけが迎えに行くことになったのですが
母は自分がおじさんを迎えに行っている間に私が脱走を図るのではないかと思ったようで
一旦はひとりで出掛けたものの引き返して来て、アンタも一緒に行き!と
半ば無理やり連れていかれました。
何も知らないおじさんは笑顔でただいま~と車の中に乗りこんできたのですが
真っ暗で表情がわからないとは言えシュンとしている私と
怒りのあまり無口になっている母に何かを感じ取ったようで逆に明るく接してくれました。
それでも母は開口一番
:ちょっとパパ聞いてー!!
この子ったら自分から昔の話しを聞かせてほしいって言っておきながら
自分の都合が悪くなったら、もうそれ以上話すな!私はその家族の家に帰らなアカンとか
言いだすんよーっ、どう思うー?!
母はおじさんに私を裁いてくれというように言うのです。
:もぉー疲れて帰ってんのに
そんな帰る早々にわーわー言いなやー
そう言ったきり無言になったのですが
それでも母は何だかんだ言っておじさんにジャッジを求めます。
おじさんも聞こえないふりをして無言を貫いてくれました。
仕事で疲れて帰って来るなり妻の訳のわからない怒りに辟易しているようにも見えたし
親子のことは親子で解決しなさいというふうにも見えました。
仕事で疲れて帰って来たおじさんと、短時間のうちに泣きはらした顔の私に
お金渡すからスーパーでお肉(おじさんの夕食用)買っとぉいで!
といい母は車の中で待っているという…そんな出来事もありました。
そんなこんなで精神的に疲れきっていて自宅に帰れる日が待ち遠しくなりました。
そんなある日の朝
朝食時の話題に困っていたことから
(当時の私は誰かとの会話で無言になる瞬間がすごく恐かったように記憶しています)
軽いノリで生え際の産毛が抜けると話したら
それを聞いた母は鼻で笑うように
:そーんなん、髪が抜けたくらいで死にはせんわーっっ!!
ホンマ神経質な子で困るわー
って辟易しているという表情をして見せました。
全身の毛を失ってから十年以上経つ今だからこそ
髪が抜けたくらいで死にはしないって自分自身で無理なく思えるし
言葉にすることもできますが当初の私にとってはすごく嫌な一言でした。
また、「母親=子どもを守るもの」という考えが強かったので
叱咤激励にせよ何にせよ、母親が娘に対してそんなことを発するのは許せないという
気持ちもあったのだと思います。
逆におじさん(母の再婚相手)はずいぶんと心配してくれ
:大丈夫かー病院行った方がええんちゃう?
(横に座っている母を見ながら)
お前がなっちちゃんに余計なストレス与えてるんと違うかー?!
と、ちょっと大げさに睨みつけ私を笑わせてくれました。
その後も脱毛は止まらず、生え際だけでなく後頭部にもいくつか小さな脱毛ができ始めていました。
夏休み後期にあった部活の活動日に
所属部の顧問でもあった養護の先生に相談してみました。
:それってお母さんのことがストレスになってるんやわー。
うちの母親も強烈やったからわかるわー。
あんまりひどいようやったら学校に連絡しておいでー
クラブ仲間=当時の親友も
:ウチらでうまいこと相談に乗れるかわからんけど
何かあったら話し聞くでー。
お母さんが出掛けてる間にでも電話かけておいでよ~
と言ってくれ気を和ませてくれました。