哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ顔を洗うのか(7)

2018-11-10 | yy65私はなぜ顔を洗うのか


明るくなると目が覚める。朝になった、と思います。身体が朝を感じたように動くから、朝になったと思う。そういう身体の動きをここでは無意識の反射ということにしましょう。
無意識の反射というものが私たちの認識の根底にあることを忘れがちです。というより、まったく自覚していないから無意識というわけです。
目に向かって黒いものが飛んでくれば目をつぶり顔をそむける。防御反射といいます。人間ばかりでなく、サルでもイヌでもキジでも、石を投げつけられれば飛び退いて逃げる。その反射が予測を作り、現実認識を作っています。
私たちは、動物のこういう反射行動を見ると、石があたって痛い思いをすることが予測できるから逃げる、と理解します。実際は逆ではないでしょうか?身体が逃げるから石が飛んできた事が分かる。それが痛そうだと分かる。そこから石の衝撃が予測できる、という順でしょう。
言葉を持つ人間の場合、さらに次の瞬間に「あたると痛そうだからすぐ逃げよう」と言葉で思う。実はもうすでに身体は退避行動を実行してしまっている。
言葉の前に予測、予測の前に反射、というべき機械的応答です。

反射運動は自動運転車が自動ブレーキをかけるメカニズムと同じです。むしろ動物のほうが自動車より簡単な応答システムでしょう。観測データを揃えて予測計算などしていません。視野に突然出てきた黒い影が急に拡大する映像が入ると、反射として身体が飛び退く。最も単純な予測機能です。
単純な反射がいくつも連携してネットワークとして働くと、複雑な動きに見えます。高等動物が備えているその反射ネットワークのことを(拙稿の見解では)私たちは感情であるとか、欲望であるとか、本能であるとか、言っているわけです。
どの状況でどのような反射が起こるか、それは遺伝と経験で身体に刻み込まれ、行動パターン、行動様式を形成しています。同じような状況では同じような応答がいつも起こる。安定した統一的な行動に見えます。
「石が当たると痛いだろうから、それは嫌だと思って逃げることにして、とっさに逃げた」自分の場合、こう思ったことを記憶しています。他人が飛んでくる石から逃げるのを見ても同じことを考えたはずだ、と思います。
逆に、自分がしたことも他人の目で見るとこう見えるだろう、と思います。
ここまで思った場合、このことはしっかりと記憶できます。








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