哲学の科学

science of philosophy

不老不死は可能か(4)

2018-07-28 | yy64不老不死は可能か



まあ、そのような未来技術の時代になっても、人は不老不死を願望するのでしょうか?

その空想の未来時代には、一度死んでしまってもパソコンの復元のように、バックアップしておいたデジタルデータから死ぬ直前の記憶を持つ人体を、いつでも、何度でも、復元できる、となるかもしれません。そうなると、死という概念は意味がないことになります。死がなければ生もない。不老不死という言葉も意味がありません。
現実の私たちには、これは空想の不可思議な世界の話にすぎません。しかし、もしかしたら、この現実世界も、その空想世界と異質ではないのかもしれない、と考えることもできます。つまり、私たちが信じている生とか、死とか、自分の身体とか自分の人生とかいうもののほうがもしかしたら空想なのかもしれない、と言えなくもない(拙稿29章「生きるという生き方」)。
それを空想している今のこの私というものも、堅固な存在というほどのものではなく、単なるソフトウェアであるものをハードウェアだと勘違いしているだけなのかもしれません(拙稿30章「私を知る私」)。
現実には、マッピングしたデジタルバックアップデータから人の記憶を再生できる技術は、今は、ありません。しかし現在は技術的に不可能だとしても、いつかは実現可能となるような原理的な事実があれば、現在の現実も実は、潜在的にはそういう世界の上にできあがっている、といえるでしょう。

現在はその技術が未熟で実現できないけれども、私達人間は、結局はデジタルデータに置換されたり逆にデータから再置換されたり、あるいは改造されたりできてしまうものであるという事実は否定できないでしょう。すでに生物の根幹であるDNAはマッピングが可能な純粋なデジタルデータとして表現されています。
生物という物質現象は、その実体は、ハードウェアとしての物質そのものなのではなくて部品の組み合わせ方を書いた設計書である、つまりデジタルデータとソフトウェアである、といえます。私の身体と私が思い込んでいる物質は、実は物質が実体なのではなくて、その上に書き込まれている設計書、つまり単なる文字の羅列であるデジタルデータにすぎない。つまり、紙に印刷された一冊の本のようなものでしょう。

それと同じように脳内の記憶やそれが支える人格や自我といわれるものもまた、コピー可能なデジタルデータとして表現されてしまう可能性から将来の私たちは逃れられません。







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