哲学の科学

science of philosophy

不老不死は可能か(12)

2018-09-22 | yy64不老不死は可能か


昔は、死の恐怖に対して宗教が特効薬でした。魂の不滅。天国に行ければ不老不死です。それはたしかに根拠がない。預言者あるいは聖書経典を信じるしかありません。しかしそれ以外に死の恐怖への特効薬はなかった。
今でも特効薬はありません。しかも現代は宗教も当てにできない。昔の人よりも長寿になった現代人は、祖父母の時代よりも、主観的には不老不死から遠ざかっています。
しかし将来にわたって宗教が薄まっていくとすれば(拙稿39章「神仏を信じない人々」)、特効薬が消えると同時に、死の恐怖という劇症も治まっていく希望があります。
宗教は特効薬を売りつけるのに効果的な死の恐怖を強調する立場にあることは、聖書経典ばかりでなく、聖者高僧の著作、時代の詩歌、演劇を見れば明らかです。それはいわば死の教育、死のカルチャーとなって現代に至る社会常識の底辺を形成しています。
そのカルチャーもいずれは消えていく。死も生も宗教も時代に共有された錯覚でしかないからです(拙稿15章「私はなぜ死ぬのか」)。これからの人間社会は、それが存続するとすれば、それは過去のカルチャーが支えきれるものではないでしょう。
とすれば常識も変わる。人生観も変わる。死の観念も変わり恐怖感情も薄れていくでしょう。小学生の頃あれほど怖かった幽霊を怖がる大人が多くないように(拙稿42章「幽霊はなぜ怖いのか」)。

不老不死への渇望は現代人の中にもひそかに根強く息づいている。むしろ共同体の存在感が薄れ個人の自我だけが肥大した現代人にとっては、現代科学への期待を背景として、異常に強くなっているかもしれません。現代のカルチャーあるいは宗教のようなものかもしれません。
しかしずっと後の時代の人々には、もう、それは結局よく分からなくなります。ある時代の存在感の、その体感というものは、その時代の人にしか分からないでしょう。■





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