人気blogランキングは? 灰白色のくすんだあっけらかんとした洗面台と便器、触れると怖気だつようなザラついた音のする二帖もない畳の、やけに天井だけは高く閉ざされた空間、窓と呼べるものはなく、限られた時にしか開くことのない分厚い扉…それらの一つ一つが、ここが意味のある「場」であることを思い知るにふさわしい佇まい、耳に響き続ける電子の飛び交うような音は、いっかな絶えることはないけれど、それでも、底なし沼の藻に埋もれた奇妙な静けさを醸し出している…。
 私は今、牢獄の中に、まんじりともしないで正座している。
 なぜ囚われ、私はここにいるのか…ごく当たり前のなりゆきのように、疑うこともなく腑に落ちて問いただすことすらしやしない。
 私が、この場で持っているもの…つまり「私」であることの「証」といえば、生きて鼓動する身体…いやもっと正しくは、知覚し認識できる「ありさま」だけで、見聞き触れ、食し嗅ぐ感覚を頼りにする以外、手立てなどありはしないのだ。
 それでも、唯一残された希望があるとしたら、それは、どこからともなく閃いてくる Inspiration を待っていられること…だから、私は、ひたすら Imagine し、祈り続けている。 
 人々の生活する社会こそが現実と言うなら、当然のことながら現実はここにはない。
 なるほど、そんな風に考えると、私は、すでに「あちら側」の住人になってしまっているのかしら…。
 「ざまァみろ!それは、おぼろげにも、おまえが意図していたことではなかったか」…そんな言葉が、微細なニューロンをすばやい速度で飛び交い意味を成し、私の心を弄んだりはする。
 その上、そんな悪態に返す言葉が喉に苦しく詰まったように、いつもの弁舌爽やかにはうまく出てこない。これはとても歯がゆくも苦しいことだ。
 半睡半醒ならまだしも、天の見過ごした恩恵のように心安まる瞬間もないままに、私の「覚醒した不眠」は、相変わらず、こうしてしつこいほどにも続いている。
 いや、もしかして、知覚できることを、しかと見定めることができさえすれば、もともと時の経過などなく、「不眠」すらも、ほとんど瞬く間のことなのかもしれない。
 しかし私は、「生から死」への長い旅路に匹敵しやすまいかと思えるほどの時の流れを、その瞬間に感じてもいる。
 このような獄中の囚われ人となっても、何が起ころうと、どこに放り込まれようと、いかなる恐怖に襲われようと、それとも、揺蕩いながらも、離れがたき愉楽の中にどっぷりと浸かっていようとも、もしかして、臨機応変に対処することを、長い時間の果てに習得してしまったのかしら…。時には、それを楽しんでいたり…。
 そうだ、「覚醒した不眠」をうまく手なずけてしまった。
 例えば、重くネバネバとした感触の「臭い」に覆われるような空間に、逃げることもままならぬまま、腕と脚をがんじがらめの分厚い拘束帯に縛られたように…自由に動けはしないとしても、五覚はしっかりとしている。いやむしろ、一層研ぎ澄まされたような五感、そして Inspiration がある。
 この「臭い」は、私に温かい懐かしさを思い浮かばせる…そこで、恐らく他の感覚よりも優れていると自認している嗅ぎとる力を全開し、繊毛をフルに揺るがせ蠕動させてみる。
 そうしながら、空間の白紙に筆記する。
 一言一句、感じ取ったことを、ピッタリと適切な言葉に置き換え、私自身に反芻するように投げかけ、返ってきた反響のような言葉を、さらに繋げながら、それでも、しっくりと感じ取ることができなければ、もう一度、同じことを繰り返してみる。
IMAGE-1 このような場にあってみれば、もはや、私には Imagine から生み出される「言葉」しかないのだ。…するといつも決まって、CHIKOの声が、温かい兆しを告げながら、輸血されるような具合に流れ込んできて、私の言葉の抜け落ちたところを埋め尽くし始める。
 さらに、それを紡ぎ繋いでいくと、やがて甦った体液が生気を取り戻し、私の「存在」を、完璧に悟らせてくれる。しかも、それらの連携が、私の「覚醒した不眠」を、思わずこぼれる微笑みのように満たしてくれたりもする。
 「ほらKIMI…あなたの身体の働きの中で、私が唯一信用していいと思うのは、きっと、あなたの、このお鼻…私の小さなお鼻に比べたら、匂いに敏感な部分の表面積は、きっと3倍かもっと、あるはずよ」
 CHIKOが、私の鼻梁にゆっくりと唇を這わせながら、湿った声で呟いている。
 「あなたは、言ったのよ。ボクにはね、おじいちゃんの父親ってのが、Cherbourg 生まれの宣教師で、フランス人の血が入っているんだ。まッ、この鼻は、その遺伝子のせいってわけなんだってね。あなたの言うことなら何でも信じていたの私…ボクは、女を匂いで記憶しているんだ…なんて憎らしいことを言って、ゴールデンリトリバーさながらに鼻を鳴らし、ちょっと得意げな口調で自慢したのじゃなかったかしら。じゃ、私は、どんな匂いで、KIMIの記憶にファイルされてるのかしら。その立派なお鼻で嗅ぎ分けた匂いを知りたいものだわ…なんて、ちょっぴり猟奇的かしら私…」
 確かに私は、女たちの匂いを、花の香りや、パフュームに結びつけて即座に思い起こすことがなぜか本能的にできてしまう。
 けれど、CHIKOが言ったことを無条件に笑い飛ばせる、そんな日々があったとは…。
 きっと、それが可能だったのは、私のCHIKOへの一途な愛が確かであり、CHIKOの私への愛が揺るぎないものだったからこそのこと…。
 ストレートに愛や憎しみや、あるいは恨みや嫌悪に彩られたものであるならば、すんなりと受け入れるか、黙ってしまえばよいだけなのだけれど…。
 正直、私は、母によって暴かれた「事実」を知って後のCHIKOの「神聖降臨」に、かつて経験したことのない震え上がるほどの恐怖を覚えていたのだ。
 それは、私が「今ここにある」根源的な意味のような「拠り所」を揺るがす生理的に擡げてくる震えのようなものだろうか…。
 その頃からか、私に向けられたCHIKOの言葉は、常に辛辣な意味を含むようになった。
 私が何気なく呟いたことにすら、柔らかく日常的なトーンではあるけれど、鋭く研ぎ澄まされた「棘」を内包した言葉を、きっと返してくる。
 CHIKOは、私にまつわることは、およそどんな些細なことでも微に入り細に入り記憶している。
 しかも私の言葉は、なぜか時として、小さな欠片になって飛散し、そんな記憶の狭間に食い込んで、思ってもみなかった展開を見せたりするのだ。
 だから、私は、CHIKOが本当に言いたいことの真意を捉えようと、何とかその心の在処を懸命に探らねばならない宿命を背負ったように、いつだってその「言葉」から逃れられない。
 いっそ、「定かな顔を持たない女」とCHIKOをともに生活させれば、そんなあからさまな、日常の routine が、あまりにも赤裸々であればあるほど、CHIKOの「神聖降臨」は起こりようがないのではないかなどと、窮余の策をひねり出すように思ったりもした。
 そうすれば、一回りほど年の離れた二人は、私を媒介にして、姉と妹のように互いの役割を見出しうまく波風立てることもなく乗りこえていくようにさえ思われたのだ。
 愛のベクトルが複雑であればあるほど、とても一人で処理できなくなり、やがて自然に互いの納まる場に、しっくりと納まってしまうような気がした。が、それは恐らく、私の身勝手、卑怯の極みに違いない言い分というものであろう。

 六本木の晩餐は、HIROが掌で眠そうに目頭を薄桃色に染め始めた頃、急いで、東日ビルの駐車場に戻り、郊外の我が家へと「ドンガメ」を駆りたてた。
 CHIKOは、私の隣に、深く背を埋もれさせたように座り、パリからの時差と疲れを宥めるように、流れゆく久しぶりの東京を瞳に映しながら会話を途切れさせた。
 HIROは、家族的な時間に満足したのか、後ろのシートベルトにすっかり身をまかせ、深い安寧の眠りに入ってしまった。
 「ドンガメ」は、狭い空間のしかるべき定位置に座った三人の絆を、何とか揺るぎないものにしようとしているのか、私の意を得た駿馬のようにアクセルを踏み込みどこまでも走り抜けていきそうに思われた…。
【PHOTO:JULIYA KODAMA】
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