人気blogランキングは? 母が逝き、追うようにして叔母が逝った。
 伊丹十三監督の『お葬式』(1984)ではないけれど、身近に死の現実と実態が置かれると、なぜか人は、「非日常」の時間的・空間的「場」の中で、普段見せたことのないような顔、姿を垣間見せてくれるものである。
 そう言った意味で、お葬式は、ほぼ悲しみに彩られた、純然たる「ハレ」で、私たちを思ってもみなかった「真実の瞬間」に遭遇させ、生の在り難さや、時に心地よい高揚感すらもたらしたりもするからおかしなものだ。イヤ、これはとても不謹慎か…。
 とにもかくにも、それが「家族葬」や「密葬」などといった風な、どこかで繋がった限られた者たちだけの集りともなると、黒と白に単一化された無彩色の視界に閉じ込められた「回り舞台」が創出され、まさに「劇中劇」よろしく、奈落から大見得を切って登場する人物が必ずいて、この者たちは明らかに個人的な喜怒哀楽も露わに、幾重にも錯綜したドラマを互いに演じ始め、なんとも奇妙な興奮状態に陥ってしまうのだ。
 例えば、亡き人との関係を、ことさら深く、誰よりも悲しんでいるパフォーマンスを大仰に演じてみせたり、その非日常に勢いを借りて、普段はとても口に出来ないような言辞を弄してそこで起こる極めて人間的なリアクションと波及効果を楽しんでみたり、ドラマチックな場に乗じて、性も露わな行動に駆り立てられたりもする。
 けだし「お葬式」そのものは、穏やかで清逸な儀式であるというのがノーマルであり、こういった場を描くとなると、それはそれは厳かな言葉となるのだろうが、私には、そうと見えないし、とてもそのような言葉にもならないのだ。
 つまり、私の「心」は、極めて本能的に感応し、涎垂らしたオオカミ一族が巻き起こすカオスのようにさえ見えるわけで、さてはこれ、私自身がアブノーマル、ほとんど「変人」に違いないからかしら…。
 ところで、韓国のお葬式には「泣き女」がいて、「泣き屋」はちゃんとした職業であるとか…。まァ、さすがに、日本で「泣き屋」を、私は見たことはないけれど、「お葬式」という設定があれば、その空間に入った途端、必ず涙に咽ぶ女は、そこかしこにいて、私も身近に目にしたことはある。これなぞ、私にしてみれば「パブロフの犬」なのかと思ってしまうから、私は余程のひねくれ者だ。
 韓国で思い出したけれど、中村敦夫さんをメインキャスターに「情報ノンフィクション番組」(MBS)を書いていた時に、生駒山(庶民信仰のメッカ、まさに魑魅魍魎の渦巻いている場と言っていい)を、1ヶ月ほど泊まり込んで取材したことがある。
 毘沙門信仰の朝護孫子寺や石切神社は、つとに知られているところだけれど、朝鮮寺の多い(取材した当時凡そ65寺もあった)ことでもまた有名だ。
 まァ、そんな前説はともかく、朝鮮寺を訪ね歩いて、両側を木々に囲まれた、道なき道のような所にさしかかると、私の背後、上の方から嗄れた声がした。
 「ネェあんた、あんた…こっち上がって来なはれ、ちょっと私の話を聞きんさい…」
 ウムなんだ?と思った私は、ゆっくりと声の方を振り向くと、もぐもぐと口を動かしながら、人の良さそうなおばあさんが、小屋(朝鮮寺の風情はない)からつきた出た舞台のようなところに、デンと座ったまま(膝を立てた韓国式の女性の座り方だ)、掌を二度三度ヒラヒラと揺らして招いている。
 ゾッとはしたけれど、そこはそれ「取材」…いいネタになればめっけものだとばかりに、私は、小さな坂道を小屋に向かっておばあさんのところまで上っていった。
 「あんたはんナ、えらい女難の相が出とるんじャ…あんたの背中に雌の白蛇が三匹まとわりついてるのがみ見えたんじゃ…怖がらんでもえェ、その蛇たちは、まァ、艶やかに踊るようにクネクネとして、あんたを守っとるからな…三人の姫様の化身なんじゃからな…」
 いくら守っていてくれていると言ったって、白蛇のお姫様じゃ…。
 私は、今もなお、ふとした瞬間、その時と空間をまるごと背負い込んでいるような感覚に襲われることがある。
(C) JULIYA LA  果たして、その三匹の白蛇は、私のご先祖様か、あるいは私の関わった女たちなのだろうか…守ってくれているとなると…と指を折ってみるのだけれど、その女たちをしかと断定することなど出来やしない。 
 いやはや、「お葬式」から、とんでもない方向に話は展開してしまったけれど、母が、「介護認定4」と判定される少し前、日課のように眠る前のマッサージをしている私に向かって言った言葉が、今、とても気になる。
 「あの頃は、戦後で、時代が時代じゃけェ、堕ろさなきゃいけんこともよくあってなァ…あんたは、その子らの幾つもの命も背負っとるというわけじゃけえナ…」
 つまり、この私は、生の一瞬において、もしかして水子になったかもしれない生死の狭間にいたわけでもあるのだけれど…。よしんばそうであったとしても…母を恨む気持ちはさらさらない。酷な皮肉だと思うだけで、私はこうして生きているのだから…。
 この世に産まれ出た時から「背負って」いたのは、もしかして、私にこの世の命を託してくれたかもしれな3人の姫様たちなのかもしれない…と思うのは、とんでもない推論なのか。
 決して三匹の白蛇は、艶っぽい由縁などではなく、私の宿命のようなものなのだろうか…。
 もちろん、そんなことに証拠があるわけではないのだから。
 しかし、母をこの世に失って、朝鮮のおばあちゃんだけでなく、生駒山での取材体験は、なぜか、私の今に奇妙に結びついてしまう、いくつかの事実が浮かび上がってきているのだ…。
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