人気blogランキングは? 全くもってうんざりである。いやこれは COVID-19 にまつわる昨今の諸々のことではない。
 私の母と私の叔母が相次いで逝った…現在の諸々の立場を踏まえて、私は、その日から葬儀一切を担う「喪主」となった。けだし、これは相続代表人として当然の「義務」とされるところだ。
 すぐさま駆けつけて来た葬儀屋さんは、手慣れた段取りで、バラエティ豊かな葬儀一式をパッドに示しながら、まさに「阿弥陀籤」を引かせるようにシステマティックに組み合わせ、「値切る」とか「お勉強しときまひょう」なんてことの憚られるシークェンスを上手く演出して、「お宅様の葬儀としては、これくらいは…」などと、まことしやかな値段を有無を言わせず極上の笑顔で提示してみせる。 
 「そうねェ、これくらいの祭壇にしとかなきゃ、母が可哀想よネ」
 「このお棺は、桜色で形もいいし、叔母もきっと喜ぶと思うわ」なんて、親類縁者は、亡き人を代弁し己を納得させるように目配せ頷きを交わし合っている。
 金を出す当の「喪主」は、「いや、それは、ちょっと懐具合が」なんてことを口には出せず、異議を唱えたくても(そんなこたァもってのほか)、葬儀屋さんは、それを見透かしたように、営業マニュアルに組みこんであるはずの「こちらのお棺は、なんとか○十万ジャストでご用意させてもらいましょう」なんてことを上手い具合に折り込んでくる。
 こうして、「喪主」はほとんど黙したまま、まるで「亡霊」に操られるように事と次第はきまっていく。
(C) JULIYA 弔問に来る人来る人、異口同音に「さぞお寂しいでしょう」と言った後は、なんだか言葉にならないようにムニャムニャと、深いお辞儀をしながら言うのである。
 それにしても「喪主」とは名ばかりの名誉職みたいなもので、ひたすら眉根に悲しみをため、肩を落とした猫背スタイルで、祭壇を見据えるように座っていれば、とにもかくにも万事安泰、スルスルとスケジュールは運ばれていく。
 確かに、お葬式にまつわる儀式や決めごとは、宗教や慣わし、文化の長い歴史に育まれた習熟や人々の切磋琢磨の中で錬磨されてきたひとつの「儀式」であろう。だから私も、儀式とはそういうものだと、波風立たぬよう刃向かいはしない。
 このわが国における一大イベントで、儲ける者は沢山いて、「○○丸儲け」とはよく言ったもの…そこで生み出される経済効果は確かに大きく、日本の経済構造をどこかで支えるものとして無視はできない、この高齢化社会に於いてはなおさらのこと…。
 まッそれはそれとして分からぬではないが、こうした死にまつわる「建前」と「本音」ほど、複雑不可解、論理の介入を許さない二律背反はないのではないかという思いは、わだかまるのである。
 葬儀にまつわる諸々は、喪主の「義務」とされていることをメインに、ことごとく「弔い」を平穏無事にやりすごすために演出されるまさに「茶番劇」であろう。名優も大根役者も揃ったオールキャスト。監督もいれば、舞台監督(ぶたかん)も、プロデューサーはもちろん、小道具大道具、衣装係にetc.…が全て繰り出してくる。
 また、さらに極端に言えば、それは、日常を取り戻し、平穏無事な明日を迎えるために、寄り集う者たちに課せられた「踏み絵」である。言ってみれば、元々、不条理にして摩訶不思議な異次元とも言えそうなそんな世界なのである。
 葬儀を行い、七日ごとの法要を、「こちら側」の人々が、「あちら側」に逝った人の「死」を受け入れていく過程としてとりおこなうのだという、ちょっと強引な説き伏せ、納得をさせられて、やっと四十九日の忌明けを迎え、しかるべき納骨をすませたとて、まだまだ、儀式は続く。
 いやむしろこれからがクライマックス、山場なのだ。
 たとえば、「遺産相続」にしても、これはもめるのが相場。「法」と「情」を秤にかけりゃ、そう簡単にシャンシャンシャンと手打ちおさまることではない。
 相続人の確定も、当然必要で、亡き人のそばで、いかに大変な世話をこなしてきたかなどをあげつらったところで、「法」の前では、ほとんど無力である。
 考えてみれば、そんな「情」を考慮して相続分割するなんてことは、主観的ではなはだ難しいから、「法」できっぱりとっていうのも、それはそれで良策なのだろう。
 まァ、「相続放棄」なんてこともできなくはないが、遺産相続を故人の最も身近にいて主導する人も、我田引水のごとく徒に勘ぐられ、「骨肉の争い」なんてのもいやで、公平無私を貫くのが、後々にあれこれと言われるよりもスッキリとして気持ちが良いなんてこともある。つまり、「気前よく、強欲でなく、よく出来たお人である」なんて、身内だけでなく地域からも社会的に評価もされ、諸々の信用度も高くなり、自己満足度もかなり上がるというもの。
 しかして、摩訶不思議な、身近な「死」にまつわるあれこれを、ギクシャク感は大目にみてもらい、なんとかやり過ごしたところで、「喪主」としての義務をやりおおせた達成感なんてのは、これっぽっちもありゃしない。まァ、言ってみれば、吹き荒れる嵐去って「茫然自失」の体たらく…できれば、我が人生のひとこまなんてことからは焼却いや忘却したい。
 しかししかしだ、ことほどさように、正直言って、私はとても釈然としない。
 いかに「大往生」とはいえ、私の母と私の叔母は、もうふれることのできない「あちら側」の住人になってしまったのだ。
 かのハイネは、「大きな悲劇の後でいつも人は最後に鼻をかんで終わりにする」と言った。
 私は、鼻をつまんで、くしゃみ一つ、寂しさと怖じ気と、寒気の身震いが、せいぜいのところ。
 まれにみるこのノンフィクションは、ところどころをフィクションに犯されながら、なおも続いていく…。
(つづく)
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