半世紀前頃に訪れた地にあった窯元で記念に求めたものである。
安来市伯太町母里には江戸期、松江藩の支藩であった母里藩の陣屋があった所で、陣屋跡や街並み、母里焼の窯元など探訪し求めたものである。ノコギリの刃のようにギザギザの町並みがあったのを現在でも覚えている。現在、求めた母里焼窯元は廃窯となっているようである。
半世紀前頃に訪れた地にあった窯元で記念に求めたものである。
安来市伯太町母里には江戸期、松江藩の支藩であった母里藩の陣屋があった所で、陣屋跡や街並み、母里焼の窯元など探訪し求めたものである。ノコギリの刃のようにギザギザの町並みがあったのを現在でも覚えている。現在、求めた母里焼窯元は廃窯となっているようである。
以前に紹介した河野原溜め池のほかに、迫の谷下流のジャングル化した中に小さな溜め池がまだ残されていた。宝暦2年(1752)の上平良村の地誌に「河ノ原留池 水持4畝拾弐歩 水懸り3町2反」とある。子供の頃この溜め池で泳ぐようになっていたが、浅く小さいために前述のため池に仲間達とこっそりと行っていたのを思い出した。遥か昔の話。
長野川取水口
川末川取水口
上平良大原地区の大原井手(仮称)は長野川から取水しているが、渇水期には水量が少ないので川末川から取水して井手のバイパス(井手名不明)を経て長野川に流入している。かつて大原井手セキの時には、原地区の井手のバイパス関係者に届け物をしていたということである。江戸期の地誌に各所の井手が記されているがこれらの井手がどれに相当するのか定かでない。
中世には森宗を所有していた桂元澄と下流の厳島社領大原御衣領の用水懸りを巡る紛争が記されており、古くから大原地区は用水不足気味であったようである。
5月の第一日曜日は当ブログ主の田んぼに関係する水路の井手セキであり、水路を清掃した。現在水路はコンクリート溝となっているので作業をすることは少なくなったが、水田を作らなくなった人達も参加しての久しぶりの顔合わせとなった。かつて井手の修理に掛かった費用は田んぼの面積按分で負担していたとのことである。
江戸期の地誌に各所の井手が記されているがこの井手がどれに相当するのか定かでない。
藤掛交差点脇の七尾陸橋歩道脇の街路樹に数多くの小さな蕾が付いている樹木があったが、当ブログ主は初めてみるようなものであった。Googleレンズで検索するとカナメモチという樹木のようである。
平良丘陵開発地内で稼働していた掘削ブルトザーや運搬ダンプカーなどが、大型連休のために広場に勢揃いしていた。山が掘削されて左側向うにはアーバンビュー渚の高層マンションが良く見えるようになった。また、五日市港には大きな船が停泊しているのがみられた。
峰高陸橋付近からの平良丘陵開発地の遠望で、昨日紹介した工事ケ所が画像右端に見える部分である。後方高い山が中世の星ケ城跡で右側の低く見える山に極楽寺がある。画像中央を横切っているのが西広島バイパスの廿日市高架橋でその手前には市道の平良佐方線の七尾陸橋がみられる。カメラ位置のすぐ下にはJR山陽本線が走っている。
時折り紹介している平良丘陵開発の進捗状況で、西広島バイパスの側道から見た開発地の最下流域の現状である。計画図によると西広島バイパス沿いには調整池が設けられるようである。
平良体躯館跡に公園が整備されていることを以前に紹介したが、工事は完成しているようであるが開園はもう少し先になるのであろうか。養生してある看板を見ると「平良っ子わいわい広場」と称されるようである。この地には平良村役場や平良小学校の講堂(後に平良体躯館)があったところである。
画像は大正期頃、速谷神社後方の見晴し山から平良郷を遠望した絵葉書画像であるが、現在の見晴し山は山林化して遠望は出来ない。
大正15年(1926)発行の「広島瓦斯電軌(株)経営電車沿線案内」によると見晴山の秋月、速谷川の奇岩、可愛川畔の梅桜、小富士の朝霞、神苑の時鳥、宮島湾の漁舟、西連寺の晩鐘、極楽寺山の暮雪が速谷八景とある。
‼
当ブログ主は酒が飲めない体質でありぐい-と呑むことはないが・・・ 若い頃、萩や北九州などにある窯元を訪れた記念にと当窯のぐい呑みを求めていた。
萩焼の萩では岡田裕や無名の作品、深川萩では坂田泥華、田原陶兵衛、山口萩では大和松緑などのぐい呑みを求めた。また、上野焼では高鶴元、熊谷保興、企救焼では熊谷光峰などのぐい呑みを求めていた。
正月に一同が会した時に使用するのみ以外は物置入れの片隅に眠っているのである。
山口県美祢市大嶺町東分の国道435号線脇に祀られている厳島神社である。江戸期の防長寺社由来に当神社についての記述がみられないので由緒など定かでない。
下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。
昨日ふれた宮島口2丁目の延命寺は寺伝によると、洞雲寺9世の全室宗用が延命寺開山のようである。2世は瑞雲泰龍、3世は溢道義充、4世は華蔵誓厳で洞雲寺25世の大透祖関が5世となっている。延享度曹洞宗寺院本末牒によると延命寺は洞雲寺の末寺となっている。
先日来紹介している、かつての山陽鉄道宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道部分には大墓地があったようである。延命寺の石垣にみられる墓石は参道改修に伴った墓地の移転での無縁墓の墓石が使用されたものとみられる。