創業して半世紀余・刺激が何にも勝る栄養素。

創業して半世紀余・刺激が何にも勝る栄養素。

故あって脱サラ。資本金などありはしないゼロからのスタート。
ただ、そう簡単には倒産しない業態を目指したのだった。



動機は定かではないが、50才の時 なぜか老後を考えた。


おそらく副社長であった弟が主催した、スナック貸切での50才の誕生を祝う会がきっかけかも・・・。

何をどうするとかの具体性はないが、とにかく健康の維持を目的に、スポーツだけを早目にする事とし、年中室内外でもプレーが可能なテニスを選んだ。

60を過ぎてから始めたのでは、遅いのではと思ったからである。


やって来た70才の時、テニスのネットプレーで要求される俊敏な動作に陰りを感じ、さすがに年寄りになった事を意識したが、年相応であろう程度で思っていた。いや、そう思うとしたかも・・・。


だが、75才になったら『後期高齢者の皆さんへ』と言うハガキが来てガン見めだま 。更に翌週、『後期高齢者医療被保険者証』なるものが届いて、さすがに完全に年寄りになった事を認めざるを得ない状況だが、なにせ実感がない。


昨年あたりどうしたもんかと悩んだが、未だ(2016/4)答え出ず。

だが、毎日はエンジョイしているのだ。

週一会社・週三テニス。夕方には野菜と庭の手入れ・池の鯉、メダカ、カエルの餌くれ。夜はnetshopの対応などで結構忙しい。



このblogは各ページを上段と下段で二つのドキュメントで構成した。

上段は『今、その時々』を、下段は『過去から現在に至る経緯』を時系列で掲載したが、上段と下段はいつかは交わるはずだが生きている内に交差させ、余生のみを残したいものである。

敷かれたレールには、確実に電車は走り、進み、休みなく。

途中乗客の乗り降りがあり、多い日もあれば、少ない日もある。

ただ、時折自然災害や、故障などはつきものであり、想定内の範疇。

     

さて、吾輩は脱サラして起業。(転勤命令で女房に反対されて)

10年くらいは無我夢中。(仕事が増えて休めなかっただけ)

方向性など魑魅魍魎。唯々一生懸命にして、忙しい毎日。

 

やがて、なんとなく方向性らしき業態になって来た。

ま、県警を頂点としたネットワークが、動き出したあたりからかな。

 

そのころ、つぶれない会社にしたいもんだ・・・と、夢の様な事を

考えるようになった。

一年やそこら、新規に売れなくともつぶれない会社。

大きくならなくともいいが、長期に安定した経営。

サラリーマンを辞めて、0-100の立場ならではの自由奔放。

 

ある日、アメリカの経営学者の本を読んだ。

小難しいが必死に、理解できるまで読み込んだ。

そこで得た知識は『コア &   フレキシブル』と言う展開の

方法であった。

何か一つに二つ目を展開させ、それを更にねずみ算式に

展開させ、拡大するという考え方である。

商品や組織構成などは、この考え方ピッタリである。

 

そこで目指したのが、売り切りの物販ではなく、一回の商行為で、

継続して長期の商品提供を可能とする商品構成であった。

そして、まず目指すは、給与等の固定費を、その売上でカバー

する事を目標とした。

そうすれば、会社はまるで電車がレールの上を走り続ける事となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日日曜日、澄江は寺の月例会で早朝から出かけて行った。

住職の朝食や飾りつけの為、早朝5時ころ家を出るらしいが、

寺が目の前にあるため、足を引きずりながら出かけるが、

早朝の為私に車で送ってくれとは、一度も言ったことがない。

 

寺の総務部長みたいなもんで、儀式の供物や食品は前々日の

金曜日に買い出しし、翌日の土曜日は準備の為、私がテニスに

行くときに同乗し、寺に行くのである。

 

それにしても、又社長交代である。

大丈夫と思ったKが、下手すりゃ刑事事件もんでダウンである。

後継にkoiがあたるが、これで最後としたい。

それにしても、女傑MKがいないと、こうスムーズに事が

運ばなかったであろう。

なんせあたしゃー84歳、今年兎年の老人である。

 

e-shopの運営・週2のテニス・庭の増改装・野イチゴの育成。

一応会社の役員などで老活中だが、女房と姉2人の雑用のご下命

しょっちゅうのルーティーンある。

なんか、死んでらんないというか、死ぬ気がまるでしないこの頃である。

 

2023年1月5日である。

とりあえず二人代表制とし、早目に次のステージへ進む要あり。

小出君はやや癖があり、社内間メールの返事は翌日になるとの事。

俺のメールくらい即日返事をよこせやと思っていた。

・・・うれしいことに、初めてメールが来て、うれしくって真島さんに

連絡した・・・って状態である。

 

さて、老中の過ごし方として、いろいろ模索してきたが、テニスと

庭いじりは継続しているが、コロナ禍もあり、最近はyoutubeと

NETFLIXにはまっている。

面白そうな動画や映画を、好きに時間に見れるってのが魅力かな。

家の中にいるときは、それらを楽しんでいる。

TVはニュースと天気予報だけとなった。

 

楽天でのe-shopfuijiは11年目を迎えたが、火災警報器の設置義務化に

より、入替需要が活発で、ボケ防止になっているかな・・・。

 

が、メーンは庭である。

今年は、ナイアガラの滝の先に、春の小川がさらさら流れる大土木工事

を計画している。

3月に入ったら作業をしようと思う。

 

澄江は相変わらず、お寺の仕事と、火災警報器の荷造りをしていて、

いつも、忙しい・忙しいの連発。

おこづかいなどと言う言葉も知らなかったし、毎月親から貰うなどと言う習慣など、

聞いたこともなかった。

第一お金を使う場所がないのである。

但し、毎月の学級費持参日だけが現金に、お目にかかるチャンスなのである。

それと、村祭りには僅かなお小遣いをもらって、 とんでもなく嬉しかったのを覚えている。

現金収入のない昭和の農家の生活はこんなもんであった。

 

さて、高校に入ってからアルバイトを始めたのは、そんな背景があったからかも知れない。

バイトは一カ所に数か月いて、次々変えたがケンカしたとか、クビになったとかではなく、

飽きがきたのかと振り返ってみる。

 

 

【水道工事】

夏休みに、水道工事やのアルバイトをしないかとの誘いがあった。

朝、事務所で水道管やツルハシ、スコップなどを大八車に積んで、現場まで引いていく。

現場ではツルハシで穴を掘り、鉄管を敷設して、砂を埋め戻すのである。

ど素人だから、大八車の後押しと穴掘りが仕事であった。

 

穴掘りは地面が砂か土かアスファルトかによって、コツと力がまるで違う。

アスファルトの場合は、まずアスファルトをツルハシで割って除去し、

その下の土をスコップで除去するのだ。深さは約1メーター。

ツルハシの使い方のコツを社長が教えてくれた。

私に見本を見せ、コツを教えてくれた。

それは楽で効率の良い技であった。

 

で、この社長であるが、ときたま現場に姿を現すのだが、キチっとしたスーツを着こなし、

ダンディーなのだ。

しかし、なぜか顔の左耳からあごにかけて、立派な髭があるのだ。鼻やあごひげではなく、

左耳からあごにかけてだけである。

なんとも気になりそのわけをきいたら・・・

―ーー『これを取ると死んでしまうんだ』

との事てあるが、いまだに意味不明ではある。

 

昭和30年代の中小企業の運搬手段は大八車であり、自動車など思いもよらないのであった。

バイトの最後は新築の旧済生会病院配管工事であった。

大八車を押して、万代橋を渡ったのが懐かしい。

 

【牛乳配達員】

配達料が1本1円であった。

物足りなかったが、新規に開拓すると他に1円の歩合がつき、がぜん面白くなった。

早朝に配達するので人通りは少ないが、玄関前などで朝の体操をしている人がいて、

そういう人に声掛けして、売り込むのである。成功率は高かった。

 

牛乳配達が終わると、牛乳屋さんが朝食を出してくれる。

農村と異なり、町の人の朝食は誠に美味しかった。

一番驚いたのは味噌汁の中身がとろろ昆布であった事である。

すり鉢ですったとろろはしょつちゅう食べていたが、とろろ昆布なぞ見たこともなく、

町の人はこんなご馳走を食べているのかと感動したものだ

朝食後学校へ行っていたが、なにしろ眠く先生に叱られてばかりいたっけ。

 

さて、新規開拓・歩合1円の魅力は、登下校途中のボート屋を狙う事となった。

まず、自腹で20本を置いてもらったのだが、ボート屋のおやじが驚いた。その日の内に完売したのだ。

最終的は毎日50本、日・祭日100本置くこととなり、一番驚いたのが牛乳屋のおやじだった。

卒業したらうちに来いと言われたが、あくまでも牛乳配達のバイト生なのだった。

 

【アドバルーン見張り役】

広告手法の一つで、

合成樹脂で出来た直径2メーター位の大きい風船に、ヘリュームガスを入れて、

太めのロープで結び、そのロープに宣伝文を書いた布をくっつけて吊り上げ、

ロープの末端は、思いボンベ等に固定するのである。

大きな風で飛んで行ってしまったり、近くの建造物に接触すると危険なのと、

一番多いのがロープから離れて、飛んで行って行方不明になってしまう事である。

とにかく高いものらしく、だから見張りが必要なのだ。

 

当時は小林デパートの屋上で上げていて、一日中漫画本を読んで見張っていた。

はす向かいのダイワデパートでも上げていて、競争をしているようであった。

ヘリュームガスが高価らしく、減った分はガスボンベから補充をしていたが、

デパートから駅方面へ移動するときは、膨らんだままのアドバルーンを持って

歩道を歩いたり、万代橋を渡ったりもした。

まるで祭りで子供が、風船を持って遊んでいるが、それのバカでかい判である。

 

デパートの屋上では風もなく穏やかで、全く退屈極まりない。

社長は初日しか来ないし、漫画も読み終えてまっこと退屈していたお昼頃、

西堀通りを『ハナ肇とクレジーキャッツ新潟公演が一時から公会堂で・・・』てな

宣伝カーが通った。

当時ハナ肇とクレジーキャッツや、社長シリーズそして若大将シリーズの大ファンで、

授業をさぼっては封切り初日に観に行っていた。

授業は2限で抜け出し、午後1の5限には真面目に出席していたのである。

 

退屈極まりない高校生の目の前を通過した宣伝カー。

風もない、社長も来ない、行かない手はない。

それはそれは面白かった。

ただ、植木等が舞台から、袖に戻ると『素』になるところをが見えて、

なんとなくがっかりした。

たった今まで舞台で割れんばかりの笑顔をふりまいていたのに、

一旦出番がおわると、素顔に戻り小難しい表情になる。

見るべきではなかったと大反省。

 

公演が終わり外に出たら、ちょっとした風が吹いていた。

本能的に我が職場の屋上に目を向けたら、大空のアドバルーンがない。

『飛んだかー』ダッシュでデパートへ、屋上へ。

なんとアドバルーンは下してあって係留されていて、後ろから社長が

姿を現し、こっぴどく指導されたのだった。

 

 

【本町の酒屋でバイト】

老舗のこの酒屋は、酒類全般、味噌、缶詰、タバコを店頭販売と、

市内の飲食店に販売していた。

従業員は女性事務員と、配達の男性2人で、私は夜の店番と言う布陣である。

 

老舗だけあって居住区は昔をしのばせていて、家族構成は品の良いおばぁちゃんと、

社長夫婦に小学生のお嬢さんの4人家族である。

 

部活を終えて夕方6時ころ出勤。

バーやスナック、すし屋などからは、酒屋やビールの注文が結構あって、

2人の番頭さんが夕方までに配達していた。

但し、6時過ぎの注文は、私が自転車で配達するのである。 

 

夕食は母が弁当を二つ作ってくれていて、夜分を店で食べていたように思う。

夜は来店者も少なく、棚の拭き掃除や瓶の並び替えなどをして過ごした。

自慢だったのがタバコショーケースの飾りつけだった。

当時、映画界でスクリーンをシネマスコープ化して、幅広の大スクリーンには

度肝を抜かされた。

たしか学校町1丁目の映画館に、ジェームスディーンの『エデンの東』をその

スクリーンで見たように記憶している。

早速タバコショーケースに、シネマスコープ状にタバコを並べて、我ながら

悦に入っていたのだ。

が、経営者はトータルで考えるのである。

社長が『大箱から出してショーケースに展示すると、太陽にあたりタバコが痛む』

と言うことで中止。

 

この社長なんだが・・・

笑顔を見た記憶がない。というより素顔がおこり顔に出来ていて、感じが悪かった。

ある日『お店の商品に手をつけるな』・当時缶ジュースが販売されるようになり、缶に

穴をあけて飲むのだが・・・

『飲みかけのジュース缶が、棚に置いてあったぞ』という事だったが、勿論犯人ではない。

おそらく小学生のお嬢さんが飲んだのだろう。

いつもやめようと。

いせやを紹介

ばーちゃんの新築祝い全

 タイは食べないで家に持って帰れ。

 

 

 


 

 

 

 

 

酒屋・本屋・ラーメン屋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脱サラし商売を始めてから、いくつもの感動する場面があった。

 

【吉田君だから決めたのだ・・・】

 

地元の証券会社が機械警備を導入することとなった。

大手2社と当方の3社相見積もりとなった。

同社の取締役会で3社個別に説明する事となり、私が最後となった。

説明のポイントは・・・

『警備業法と言う枠組みの中でのサービスの提供に、大きな違いはない』

『理念として新潟の安全確保は、地元の企業であるべきであり、経済の循環も

新潟県内であるべき』・・・との考えを述べた。

 

説明会終了後3社が会議の席に集められ、唐沢社長から結果報告があった。

『富士警備を採用する。他の皆さんご苦労さんでした。』と発表された処、一人の取締役が

『社長、やはり規模の大きい警備会社が良いのでは…』と発言。

唐沢社長は『私は吉田君が経営する会社だから、決めたのだ。』

この一言で会場内はシーンとし、他に発言もなく当社に決定したのだった。

 

会社の規模ではなく、私の人柄や理念を買って頂いたのだ。

警備保障会社を設立して、間もない受注でもあり、忘れられない感動場面である。

 

 

【かつ丼食べなキャー、取引を中止するよ】

 

相当苦労して指定店になった時の、担当者からご褒美でとんかつ太郎のかつ丼を

ご馳走して頂いたのだ。

 

商売をして間もないころ、農協の母体である新潟県経済連に、農協倉庫の防犯ベルの

取り扱いのお願いをしていた。

当時農協倉庫に米泥棒が頻繁に発生し、経済連経由で県内全農協に米の管理を

委託していた農林省は、農協倉庫に防犯ベルの設置を検討していた。

 

当時県内には約400の農協があり、その中枢に新潟県経済連が位置していた。

農家や農協が使用する肥料、農機具、生活用品など、ほとんど全てが経済連が

一括仕入れをして、農協経由で、各農家に届くのである。

勿論各農協が使用する機器、備品なども経済連を経由する仕組みであった。

 

従って、農家又は農協に何かを販売する場合、県経済連との取引契約が必要であり、

慎重な審査を経て『取引コード番号』の取得が大前提なのだ。

 

物語はここから・・・。

経済連との取引は営業窓口の平田さんの審査にパスしてから、受付の受理から始まる。。

そして、防犯機器の審査は、電電公社から招致した電気技師の丸山さん(通称 丸さん)であった。

丸さんの承認がない限り、先には絶対進めないのである。

 

この丸さんが手厳しいのである。

面談は一週間に一回で、指摘は一カ所のみ。

改善して翌週持参し必ず数回のダメ出しがあり、一カ所のオーケーが出るまで、

一か月以上かかるのである。

ようやくその一カ所をクリアすると、次の問題点を指摘する。

 

新潟県は海に面しているから、塩害に強い半田を使うことなどは、そんな半田の存在すら

知らないのに。

丸山さんは専門用語で、抽象的に、短い言葉で話され、頭が痛くなり、隣に座っている平田さん

が苦笑いされていた。

一度に不具合を指摘するのではなく、一回一指摘な為、終わりが見えず疲弊しきっていた。

 

電電公社の電気通信システム担当のエンジニアであった丸山さんは、プライドと責任感の強い

人だったと思う。

 

米倉庫用防犯機器を経済連にご紹介してから8ヵ月にようやく合格した。

丸山さんが『吉田さん、これで合格だよ』・『今後については平田君と打ち合わせしてください』

夢のような合格発表。隣の平田さんに椅子の向きを変えて、

『平田さん、合格しました。今後のご指導を宜しくお願いします』

と言ったところ、ここからが生まれて初めての心遣いをして頂いたのである。

『吉田さんおめでとう。丸さんがOKを出した以上、何も言うことはありません』

『今日契約書と、取引コード番号を交付しますね。』

 

『吉田さん。合格祝いにかつ丼を取ってあるから食べて行きなさい』

『いやー、胸が一杯でとても食べられません』

『食べないと取引中止だよ』

 

みればとんかつ太郎のかつ丼の出前が用意してある。まだ11時30分なのに。

お祝いにわざわざ有名なかつ丼屋からの出前である。

経済連では取引が締結すると、このような儀式があるのだろうか。

など思いながらもかつ丼を食べ始めたが、感動で胸がつかいて半分ほど食べて、

次の予定がありますので、失礼いさせて頂きますと退散した。

 

社員もいない会社と称する男が、いきなり売り込みに行ったのだが、

通常窓口にすら行けないはずだ。

ましてや経済連の取引先が増えすぎて、整理の最中であった由。

経済連では農林省の指導で、米倉庫に防犯機器設置の啓蒙をするように指示があった。

しかし、県内には業者がいなく県警に問い合わせして、私の存在を知ったのである。

『県警推薦の業者』として、面談だけは可能だったのだ。

 

経済連はどういうわけか会社の規模等の会社概要の説明を求めなかった。

県警の力はすごい。

商売の手始めに県警からスタートしたのは賢明であった。

信越郵政局との取引も、県警の推薦で経済連の出入り業者と言うことでフリーパスであった。

 

かつ丼のはなしだが、機器の丸山技官の指導と、それに応える私の苦労を長い間見て来た。

なかなかOKを出さない技官に、凝りもせず通い続ける吉田に、ある種の同情と激励をこめての

かつ丼だったかも。

 

一生忘れられないかつ丼であった。

2020/9/2 記


 

【初めて見て・触り・手にした800万円】

 

県警のおかげで信越郵政局の入札権を得た。

新潟、長野両県には約800の郵便局あった。

郵政省は将来の無人化、労働環境の改善を目指し、全局に防犯ベルの設置が決まったのである。

 

この頃は女子事務員1名、営業1名、工事要員1名、私を含め4名体制となっていた。

工事はほとんどを外注化していた。

初年度の防犯ベル設置数は約80局で、落札額は800万円であった。

 

完工し代金800万円を中央郵便局へ貰いにいった。

工事服姿で窓口へ。

局員がカウンターへ100円束を8個並べたのである。

それを一個一個ありったけのポケットに入れたが、どうにもボッケが足りない。

見あぐねた局員が、大型の袋を差し出してくれ、ボッケの札束を含め袋に。

 

800万のボリュームにビックリしつつも、この札束を社員にみせ、手で触らせたかった。

帰社し全員を集め、8個の札束を机に並べ、全員で肝胆したものであった。

 

【売るのではなく、普及させる建前】

 

情報収集で市内をドライブ。

あちこちに『秋の防犯運動のポスター』

防犯ベルを警察に売ってもらう事がひらめいた。

 

思いついたら動けずにいられない性分。アポなしで県警へ。

防犯ベルの話が出来そうな部署を探した。

案内板で確か2階に『防犯少年課』なる部署があった。

2階に行ったら、廊下に面して一列にドアが5つほど並んでいる。つまり5部屋なのだろう。

『防犯少年課』の札のあるドアをあけてビックリ。やたらだだっ広く、よく見たらドアは違っても

全部署がワンフロアーなのだ。

 

なにしろアポ無し。どこの誰の処へ行けばいいのかが分からん。

机の配列を良く見たら、窓側にポツンと2人腰かけている。様子からして偉い人と思えた。

左の偉い人(県警防犯部長であった)につかつかと歩み寄り、名刺を差し出し『防犯ベルの事で

お邪魔しました』と言った。

通常、アポなしでしかも、販売業者が県警本部に現れる事はあり得ないので、外部入室者の

チェックは常識的にあり得ず、いわゆるセキュリティーチェックが甘いのであった。

驚いた部長はめんどくさそうに『防犯なら隣の人だ』と紹介してくれた。

 

つまり、県警本部の『少年・防犯課の部長』が隣の人(部長の隣の席の偉い人)を紹介してくれた事となった。

その隣の人とは『新潟県防犯協会事務局長』席で、慣例として元防犯少年課の元部長が、定年退職後に

着任する席であった。

つまりは隣の部長は後輩にあたるのだ。

防犯協会は県内の33警察署に存在し、県内の防犯連絡所・職域防犯等のトップに位置し、れっきとした

民間団体である。交通安全協会などと同じなのだ。

 

後輩と言えど県警の部長の紹介である。

少々お年寄り風の防犯協会の事務局長にご挨拶したら、『ベルの事だったら交通課だな』と言い、

部下に交通課に案内するよう指示。

『防犯と交通?』・・・違和感があったが、後についていった。

交通課長が『ベルと言うと踏切の警報ベルの事かね?』

やはり違った。

再度防犯課へ。そして防犯協会事務局長席へ。

『あのー、家庭用防犯ベルの普及についてご指導を受けたくって・・・』

『ポスターなどで普及の啓蒙はしているが、まだ積極的ではない』

 

結論として

①科学防犯の指導で、県内全署の朝礼で説明してくれ。

 県内33警察の朝礼(08:30)で、約10分実演と機能の説明をした。

 駐在所や派出所には、有線放送で同時に説明した。

②各署の要請で、町内会の防犯訓練時に、実演と説明をする。

 日曜日は防犯運動をする町内会が多く、超多忙ではあった。

 集団防犯ベルが大いに普及された。

③個人だけでなく、金融機関等の職域の啓蒙する。

 職域防犯会議で説明した。

④警察が発行する印刷物に、科学防犯普及の広告(無料)を載せる。

⑤県警察展に出展する事。

 一回目は小林デパートで開催され、主にパネル出展であったが、

 

 まだ社員がいないため、午前中は婦警さんが応援してくれた。

⑤防犯課長会議で説明する事。

 県内33署の防犯課長が、一か月一回課長会議があり、昼食時間に

 説明させられた。

など、基本的な関わの骨子を決めた。

 

以後以下の活動となった。

いろいろ警察についてわかって来て、概要防犯課は『犯罪を未然に防ぐ』

セクションであり、捜査課は『犯人を検挙』し、再犯を防ぐところ。

などが分かって来て、捜査課にも顔を出した。

 

最初に行ったのが東署の盗犯係。

係長が部下の刑事に・・・

『お前ら、防犯ベルつければ、蚊に刺されながら張り込みしなくって済むぞ・・・』

これが大ヒント。

 

朝8時半に盗犯課にいると、やがて刑事達が張り込みを終えて帰ってくる。

洗面台でやや大げさに顔を洗って自席についてタバコ吸いながら・・・

『昨夜泥棒があったので、ご主人にあんたんとこのカタログ置いて来たよ』

刑事が当社のカタログを捜査カバンに入れていたとは知らなかったが、

『すみません、そこ電話で紹介して下さい。』と、お願いし、早速訪問すると

100%受注できた。

又、常習侵入盗用に侵入者遠隔通報装置の貸し出しも要請された。

 

この頃、監視代行業務をおもいたち、

自宅で入電して、所轄警察署へ電話しパトカーが対応する仕組みが許され、

各署には設置先の明細や地図をファイルで置かせてもらった。

 

警察の御威光は素晴らしく、

警察指定の業者として、大いに助かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【うさぎ繁殖で初商い】

小学校5年の時、4つ上の兄が兎を飼っていて、餌係が私であった。

ある朝、いつものように餌をくれに兎箱を覗いたら。なんとピンク肌の

鼠が何匹もうごむいているではないか。

兎箱になぜ鼠の子供…。

あわくって兄に報告に行ったら、それは兎の子供であると教えられ、

出産まじかになったら、部屋を仕切って薄暗くし、藁を敷いてやり、母兎には

大根に塩を塗って食わせろなどを教わったが、その後なぜか私の兎になっていた。

 

その子兎に白い毛が生えそろい、乳離れし草を食べるようになったので、

全員を引き連れて野原で遊ばしていたら、近所の子供たちが見物に現れ、

一匹100円で売ることになり、即日完売の大盛況であった。

 

この時商売の面白さを感じたのではないかと回想している。

しかしこの程度で、一過性の現金収入では、すきっばなしの腹は満たせなかったのであろう。

後に警備保障会社を経営するなど夢想だにせず、『盗人稼業』、オンパレードなのであった。

犯行現場は主に自宅・近所・学校であった。小学校5年ころから中学生の頃の犯行である。

 

【母親のおやつの隠し場所】

農業の母は、野菜や漬物を売って現金収入としていた。

リヤカーを引いて、町の市場へ売りに行くのである。

リヤカーに売り物と母を乗せて、自転車をこぐのが私の仕事。

母は居並ぶ市の隙間に、ちょこんとゴザを敷き、商品を並べるのである。

売り声を上げるのでもなく、ただじっとしているのだが、一時間もすると完売する。

 

市場まではリヤカーで約一時間。結構きついのだが、帰りには必ず『大福もち』一個を

駄賃として買ってくれる。

きついよりもお駄賃の『大福もち』に魅力があったりである。

 

それと、ここからが腕の見せ所と言うか本業なのだが、母はその現金収入で家族に

お菓子を買って行くのである。

母は私が怪しげな事はとっくに承知していて、買って来たお菓子を隠すのである。

蚊帳や布団の中。押し入れや天袋。タンスや米櫃etc etc・・・。

母は大変な苦労と努力をするのだが、ことごとく探し当て犯行に及んでいたのである。

 

私の戦術は簡単明瞭。

隠せる場所全てを長時間かけて、忍耐強く探し続ける。

母は以前被害にあった場所は避けていたが、忘れてうっかり同じ場所な隠す事もあった。

なにしろ腹すかしの少年。確実にどこかに隠している事を信じ、なにしろ見つけるまで探す

強い信念のもと必ずゲットした。

 

勿論良心もあり、1/3程を食べ、あとはのこしておいた・・・事が多い。

不思議なのは母に叱られた事は一度たりともなかった。

最も現行犯でないと私が供述しなかったからかも。

 

【金庫】

戦後もやや落ち着き、わが部落にも電蓄や手提げ金庫ブームが来た。

電蓄は完成品を買うのではなく、市内のN電気器具商のAさんが出張してきて

組み立てるのである。

たった一枚の洋楽レコード『ボタンとリボン』を繰り返し聞いていた。

 

それにしても不思議に思ったのが、お店やさんでもなく、重要書類、ましてや

多額の現金を常時自宅に置くなどありっこないのに我が父は金庫を買ったのだ。

手提げ金庫で幅40cm程で、正面の両脇にダイアルがついていて、持ち上げるとゼンマイ仕掛け

の防犯ベルがなり、金庫としての一応の体裁を整えているが、いかんせん軽い。

小学生でも軽々持てる代物である。

 

その金庫は茶の間の一番上座に鎮座し、要するに一番目立つところに置いてあるのだ。

父親と村の来客者が金庫自慢話を延々としていたものである。

 

最初は物珍しく、興味深く見物していたが、金庫の『金』に着目し、中身に興味が沸いた。

しかしダイアル2個の組み合わせが分からないと開けられない。

メモリが1から100まであるダイアルが2個。それを合わせるには天文学的作業である。

不可能・・・とは思わない。

父親が開けるときのダイヤルを回す動作を盗み見し、それに近い操作なら天文学も不要。

そこで父親から学級費を貰う日に、隣の部屋の障子の穴から父のダイアル操作を記録した。

あらかじめ左右のダイヤルの番号をチェックしておいたので、極めて速く開いてビックリした。

防犯上鍵もつけておくべきと思った。

 

さあ、そこで10枚ほどあった1,000円札一枚を盗取。親の驚く姿を観察する事とした。

夕方になってなにかの支払いをする為、金庫を開けた父が1,000円札を何回も数えたり、

金庫の中を再チェックしたりしていたが、首をかしげ探索を終了した。

 

意をよくした私は再度犯行に及んだ処、翌日当家の金庫は蓋が開きっぱなしで、父は

金庫としての用途を諦めてしまった。

その後その不要になった金庫は私が貰って、大事な物の入れ物にしたのであった。

 

 

【授業中に先生がポロッ・チャンスは逃さない】

 

『今日は宿直で、やき鳥で一杯・・・』

この一言を聞き逃す訳がない。

先生は授業の途中で、よく雑談を入れるが、腹べらしとしては

『焼き鳥を宿直室に置いてある』・・・としか聞こえない。

当時田舎に焼き鳥など売っていない時代。とんでもないご馳走が

宿直室にある。

先生の一言は立派な情報であり『チャンス』を与えてくれたのだ。

 

もとより授業は上の空であったが、その一言以後はいかにして略取するかで、

頭の中は大忙しである。

ブツは宿直室にしか置くところはないはず。

焼き鳥の匂いで隠し場所は極めて容易。

生徒が絶対入ることのない宿直室に入り、いかに短時間で事を終えるか・・・。

 

授業中にトイレに立つ。

生徒は勿論、先生のほとんどは教壇。

校長・事務員・用務員・・・この3人しか残っていない。

校長は校長室からまず出ない。事務員は一人なので、授業中は事務室から出られない。

問題は用務員だが、職務上いつどこに現れるかわからないが、リスクゼロの犯罪はあり得ない。

 

国語の時間が半分ほど進んだところで挙手

『トイレ』と嘆願。

教室を出てから競歩の選手並みに宿直室へ。

廊下には誰もいずまるで無人島。

宿直室の戸を開いて中へ。

先生方が泊まる聖地、さすがにゾクっとする。

6畳の宿直室はとても綺麗で、家具など全くなく、探す対象は押し入れしかなかった。

スーっと引き戸を引いたら、中は焼き鳥の匂いが充満。

布団の一番上に、新聞紙の包みが。

おそらくトイレあたりで大急ぎで食べ、素知らぬ顔をして教室に戻ったのだろう。

犯行時間はトイレタイムからして、10分以内であろう。

 

 

【美術部の梨】

お昼休みに美術室の前を通ったら、部屋の真ん中の小さいテーブルの上に、

赤ちゃんの頭ほどの梨が一個置いてある。

放課後の美術部の写生対象としてO先生が置いたのであろう。

 

が、それは私には腹の足しになる食べ物としか見えず、瞬時に犯行計画を

立てる事になる。

トイレタイム策は以前に適用したので今回は敬遠。

そこで、お昼休み終了のベルが鳴り、ほとんどの生徒が教室に戻った直後に

実行する事とした。

皆より1、2分遅れる程度とし、教室はまだざわついている間の犯行を決意。

 

美術室の引き戸を開け、部屋の中央の梨をポケットに入れ、戸を閉めるまで

おそらく30秒程度。教室に戻りその梨を鞄に隠し終えた頃、教室の戸が開き

先生が5時間目の授業を開始した。

 

放課後の美術部が気になり、なにげに美術部前を通ったが、ざわついてはいた。

 

 

【神社から失敬】

資源が無いことが日本の敗因でもあった。

終戦後日本の再興の為、道端に落ちている釘一本でも金属資源として尊いものであった。

時折鉄くず屋が買取にやってきて、空き缶・針金・火箸・鍋など、戦時中に供出しなかった

正しく鉄くずを買い取って資源とした。

勿論素材により値段は違った。特に銅が高かった。

 

身近に銅?・・・。

神社の鳥居か社殿の屋根にある事はある。

戦時中にはぎ取っていかなかった事が不思議だが、神国日本としてはさすがに神社には

手を出さなかったのか、濃い緑色に変色した銅板が気になった。

 

なにげにリサーチ。

社殿の裏は人通りも少なく、屋根の裏側は雨が当たりにくく、そしてまず目立たない。

泥棒が喜びそうな環境ではある。

しかし、神社・戦時でも手を付けなかった対象、当然に迷いはあったが、1枚位なら・・・。

しかし、元来母親が必死ででかくしたお菓子を、ほんの少しならとの思いが、少なくとも

1/3は食べてしまっていた犯歴、盗癖は一回で終わらず、よーく気を付ければ遠目にも

銅板が剝がれていることがわかる程となり、残念ながら屋根は諦めた。

 

鉄くず屋に銅板をそのまま持って行ったのでは、いかにも怪しい。

おそらく曲げるなどして、さらに少量ずつ売っていたのだろう。

銅は他の鉄くずの数倍の値段で売れた。

 

付加価値の高い銅板は鳥居にも貼ってあった。

しかし、神社の正面で入口に位置し。目立ってリスクが高い。

だがポジテブ少年は都合よく考え、方法論を一生懸命考える。

鳥居の近くの欅の木がの上部の枝が、都合よく鳥居の最上部に

伸びていた。そこで夕方こっそり失敬したが、あまりにもリスクが

高く、効率も悪いため3回3枚で中止。

 

だが、数か月後ふと鳥居を見たら、全部の銅板が無くなっていて、

丸裸ではないか。

正しく泥棒しない輩が居たのだった。

 

 

【塾の先生に貢物】

終戦直後のわが部落に英語塾が出来た。

農家の空き家を利用して、市内から日本人講師と、黒人も来るとの事である。

スマホもTVもない時代。電話すらなかった。

子供の娯楽はせいぜい漫画を読むか、神社で野球をやるくらいの時代。

 

塾が出来る事と勉強意欲とはまったく関係がなく、遊び場が出来たとの認識であった。

同じようにそろばん塾もできた。やはり同様に、みんなが行くから俺も行く。

英語塾では満足に授業がなく、アメリカの黒人は来たことがなかった。

 

ある日、先生に胡瓜を腹いっぱい食べさせたくて、自分ちの畑に採りに行ったのである。

あいにく数が少なく、隣のはんくろうの畑を覗いたら、形の良い胡瓜が沢山ぶらさがっていた。

知人の畑でもあるのでごく気楽収穫し、両手一杯にして畑を出たところ、突然父ちゃんが現れ、

『やっぱお前だったか』と、初めてなのに再犯であるが如きの一言があった。

『じゃー返すわね』と言って、全部を渡したが『オレ初めてだからね』と一言申告したものである。

 

家に帰り事の顛末を母親に話したら、同行ではんくろうに謝りにいった。

母と一緒に頭を下げたが、実感がなく不思議なひと時であった。

 

【獲物がリヤカーでやって来た】

終戦後であり、道路の運搬手段は自転車かリヤカー。

そのリヤカーに蓮根を満載した八百屋のおっさんが、少し坂になっている橋を登れないで

苦労していた。

蓮根は生でも食べられるとして、リヤカーを眺めていたが、そこでキラッと光った。

 

弟にも手伝わせて、リヤカーを押しながら、蓮根を引き抜き草むらへ投げて隠した。

3本ほどと思う。

そして小学校へ登校。

 

午前中の授業中に校長先生から呼び出し。

校長室には弟と八百屋のおっさんが待っていた。しまったと思った。

校長先生から何らかのこごとがあったはずだが、全く覚えていない。

ただ、八百屋のおっさんが弟にだけ『あんたは悪くないからご褒美』と言って10円を

渡したのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『今日7月27日は、あんたのお母さんの命日なので、仏前のお花とお供え物を買いに行くよ』と妻が言った。

続けて『政雄さんは25日だったが、今日一緒にお参りするからね』と。

 

二人の祖父母・両親や身内で多くの人が他界しているが、 妻はその全ての命日を覚えていて、その都度

仏前でお参りをし私も同席するのだが、私は命日を誰一人覚えていず、間もなく忘れてしまうのである。

 

さて、政雄は2012年7月25日午前3時50分に息を引き取った。享年61歳。

これは新潟日報に掲載した死亡記事を見て入力しているので間違いない。

この機に政雄を偲んで一筆啓上することとした。

 

政雄が乳飲み子のころ、私は乳母車風に輪っかをつけたリンゴ箱に彼を入れて、子守をしていたのである。

まだしゃべれなかった彼は、私がおやつ代わりにあげたトマトにかぶりついていた。

 

私が高校生で彼が小学校低学年のころ、一緒にふろに入り『男は泣くな』てな事を言って、結構キツメの

ビンタをするのだが、目にいっぱい涙をためながらも、決して泣かず我慢をしていた。

更に、足し算や掛け算をさせるのだが、一生懸命暗算して正しい答えを出す事に努めて居た。

 

やがて高校を卒業後日本石油新潟製油所に入社し、夜はバンド仲間とビアガーデンでベースを弾いていたらしい。

毎月25日なのだが、出先から帰社すると受付の社員がうっすら笑って、『お客様です。応接室にお通ししてあります。』

そうです、給料日の夕方必ず会社へせびりにくるのであった。にこにこして待っているのである。逃げられないのである。

彼の会社は午後5時までなので私より早く仕事が終わり、帰宅前に集金にくるのであった。

 

彼はやがて結婚し、その後横浜製油所へ転勤して行った。

結婚式はときわ会館であった。

 

その頃私も結婚していて、サラリーマンを引退し、警備保障会社などを経営していた。

いつの日か、政雄が組合活動をしていて、会社との関係が悪くなり、窓際族になっていると言う話を聞くにおよんだ。

心肺でもあったので、横浜のニコー電子に出張の折、彼の職場を訪ねてみた。

研究室の様な広い部屋で、白衣を着た彼を発見。激励。

その白衣姿はまるで研究員であった。

帰り際にお土産にダルマインコを買って社宅へ寄った。

 

彼は窓際族の間経営診断士の勉強をしていて、国家試験を目指していたが、会社の締め付けが露骨になり、

退職を意識しだした。

私宛に『新潟に経営診断士の仕事はないか、例えばダイエーとか・・・』の手紙。

当時の地方都市に馴染まない職業でもあり、『なんなら、俺の会社へ来ないか』と言う事になった。

 

ここからが政雄大活躍なのである。

 

なにしろ肩書をつけないと示しがつかない。

で、経理課長とした。

日常の経理事務は田中君が担当していたが、資金繰り・銀行対応等は政雄がやっていた。

 

兎に角朝から晩まで、数字を追っかけていて、どうやら創業時からの分析などもしていた様である。

そんなわけで一年後には視力が半分くらいに落ちていた。

 

入社一年後のある日、重そうな紫色の風呂敷包みをどさっと、物も言わず置いた。

なんだろうと思い、風呂敷を広げてみたら、『月刊 ホテル・旅館』と言う、分厚い専門月刊誌およそ

一年分であろうか・・・。

政雄は、ホテルとか旅館経営でもやりたがっているのかと思い、何気に尋ねたが私には理解できない

言葉の羅列であった。

 

元々、政雄の『好きなことを、好きなように』させるつもリであったので、 詳細は聞かなかった。

その頃から政雄のやっている事の詳細は聞かないようにしたし、聞いても分からない分野であった。

 

気が付いたら、コンピュータ技術者や、電子技術者を集め始めていた。

NECの初期のコンピュータPC-8000などと言う、ばかデカイハードディスクと、やたら重いディスプレー

で、マイクロソフトのWindowsなどない時代。

勿論メールなど出来ない。コンピュータソフト開発用に買ったのだ。

なぜだか私分を含めて3台購入し、2代は開発用として2人の技術者が使用した。

 

このあたりからやろうとしている事が見えて来た。

ハード、ソフト両面の『ホテル管理システム』であった。

お客さんが入館されてから、お帰りにになるまでの時間管理、冷蔵庫ご利用管理などを自動的に計算し、

お帰りの際素早く、正しく清算頂けるサービスなのだ。

湯沢方面(スポーリア湯沢他数ヵ所)や、県外では京都タワーホテルなどである。

 

大規模な変動売り上げが期待出来た。

それぞれのノーハウをベースに『ファション自動計算冷蔵庫』・『課金テレビ』・『ラブホテルシステム』を

開発し発売した。

そして大いに期待されたのが、ホテルシステムの全国発売である。

約20名のプログラマーを集め、販売用のソフト作成を開始した。

又、余勢をかって、プログラマーの派遣事業へと進展した。

 

私が想像だにしなかった業態が構築されたのである。

なにしろ私には不透明な会社になりつつあり、私の関与は全く不可能であった。

 

やがて、協業する事のメリットの模索が始まり、ネットワークの構築を始めた。

『新潟事業開発センター』は県内外の製造業を一同に集めて、オンリーワン、ナンバーワン

の商品作りを提案していた、

又、CAD開発と販売を目的とした『アンドール新潟(シーキューブ』を設立した。

 

モノ作りの原点である創造の世界構築のために、県庁前に工房を建て、新潟大学芸術部北郷教授

指導のもと、同学部卒業生5人を採用し、自由に創作させ何か得るものを探していたものと思える。

 

更に、本社2階をアートルームにする事とし、福井在住の近代芸術家松宮喜代勝先生の創作

『変革と創造の仮説空間』、をオープンさせ、芸術との融合による創造力のメリットを探し求めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

A君とB君はシフトの関係で、常時両隣に座って仕事をしていた、

見た感じはB君がスマートで、ハンサムであろう。

B君は高齢の母親の面倒をみていて、時々医者へ連れて行っている。

 

ある時点で周囲が気付いた事がある。

A君が出勤するとき、両手でローソンの袋を三つほど下げてくるのである。

そして、その一つを彼の仕事場の隣の部屋に持って行くのである。

その隣の部屋は女性が多く、『おやつをどうぞ』位に思っていた。

両部門とも当社5階の両隣であった。

 

が、よく観察したらC子が休みの日は持参しない特性を感じた。

更によくよく観察すると、C子にのみ一言、二言話しかけて、満面の笑みで去る。

などなどで、A君はC子に思いを寄せているのではとの世論で決した。

 

そんなある日C子が退職し、ヘルパーの資格を取ると言って退職する事となった。

だが、30歳を超えている彼女の突然の進路変更には、いささかの違和感を感じていた。

この段階でB君の母親とリンクするなど思いもよらなかった。

 

勿論A君のローソンの袋の数は減り、当然に隣の部屋へ出向く事はなくなった。

ここで世論は確信となった。

 

処がB子が退職し、ヘルパー研修が終わった頃、B君とC子が結婚するとの届けが

管理部に提出された。

 

驚愕。

お祝いするどころでない。

いつも隣に座っているAとB。

血の雨が降るか殴り合いか、どっちかが会社を辞めるのではなど、

とんでもない届書が提出されたのだ。

社内に誰がどうやって伝えるかとか、完全にパニックっでいるではないか。

 

B君とC子はかねてより交際していて、C子が母親の面倒を見るための

ヘルパー資格の取得。

涙が出るほど嬉しく、素晴らしいC子である。健闘を祈る。

 

それにしてもA君。暴れもせず退職もせず、相変わらずB君と並んで仕事をしている。

心中やいかに。

 

 

【そり頃の両部門の仕事の状況】

A君とB君は当社のメーン事業である、警備保障業務の管制センターの指令者であった。

 

警備保障業務は、準大手の倒産により、一部地域の営業権譲渡を受けスタートし、拡大

していたものである。

 

一方C子の業務は駐車場・住設等利用者からの質問や、対応以来の電話での仲介を

するサービスのコールセンター員であった。

 

 

 

 

 

 

 

取締役A氏は、奥さんがダンス教室3カ所を経営している為、

お金に困ることはなかったが、すれ違いの生活を強いられていた。

金があって、暇をもてあましていて、事あるごとに行状の自慢話を

してはご満悦であった。

 

【結婚費用を貯めたい事務員】

23歳のB子は舞台女優を目指して上京。

鰻屋にバイトをしながら勉強に励んでいた。

そしてバイト先でサラリーマンの彼氏と出会って同棲する事となった。

 

やがて彼氏が家業を継ぐため、実家の秋田に帰る事となった。

一方B子は展望が見えない女優志望を諦め、故郷へ帰り地元の

観光バス会社のガイドとなった。

美人で歌が上手な彼女はとても人気者になったが、過労で退社し

自宅で療養していたが、回復したため当社に勤める事となったとの事である。

 

A氏の物語はここから始まる。

二人は仕事柄同じ部屋にいて、うまも、話も合い時折食事に行く事もあった。

下心を持ったA氏は、食事に誘いアルコールの勢いもあり、関係を持ったとの事。

23歳の同棲経験者の彼女は、円熟していて完成度は100点満点であった由。

その後マンションを借りて基地とした。2年後秋田の彼氏と結婚する事となり、

マンションの家具一切を持って行ったとの事である。
 

【援助交際 1 初めての女子高生 】

一時、高校生を対象とした援助交際ブームがあった。

A氏もブームに大いに乗ったのである。

 

C子とはメル友募集で知り合い、駅の電話BOX の前で待ち合わせとなった。

前方から制服を着たニコニコ顔C子が歩いて来た。

車に乗せラブホテルに向かったが、屈託なく爽やかな会話で応じていたとの事である。

 

そして、ビデオ撮影にも応じ、兎に角こだわりがなく、全ての要望に応じて、逆にA氏の方が

こだわり、不思議で『世の中間違っていると思った』と語った。

何にも増して驚いた事は、高校3年の女子学生は、あらゆる部位が大人であった事であった。

大人とは初めてで、彼氏が喜ぶ所作の習得したいとしつこく言っていた。

又、体の締りは勿論特定の部位は、既婚者の比でなく今でも忘れられないと言っていた。

但し、リアクションはゼロに等しいとの事であった。