マーク・ウィグルワース指揮東京交響楽団第676回定期演奏会

快晴の冬の日の昼下がりに聴く音楽は、心を癒す。

短調作品が、とかく特別なことのように取り上げられるが、モーツァルトにとって短調作品の創造は特別なことではなく「当たり前」のことだった。少なくとも創造のエネルギーが舞い降りている時、彼の中には聴衆という対象は存在せず、常に自分自身の内面との闘いであった。否、天から降り注ぐ偉大なるものを、一つの媒体としてどれだけ純粋にアウトプットできるかどうかだけが重要だった。そして、その闘いにどんなときも彼は打ち克った。

どんな状況の時の創造物であろうと、モーツァルトの作品は陰翳に富み、美しい。
1786年のピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491。暗澹たる風趣に、決して得意とは言えない作品だったが、今日は目から鱗が落ちた。第1楽章アレグロ冒頭、オーケストラの出から何と意味深く、大らかな音だろう。後のベートーヴェンを思わせる独自性と精神性。確かに当時の大衆の理解の範囲を超えていたかもしれない、聴き手の立場には一切立たない革新の顕現。ましてやピアノ独奏が入るときに見られた、音楽しか感じさせない透明感。僕は、若干22歳のピアニストが奏でる音楽に心底感動した(何よりフンメルの作曲によるカデンツァの創意と魅力!)。そして、第2楽章ラルゲットに垣間見る一筋の陽光が差し込む一瞬の暖かさのようなエネルギー。場を暖め、そして心を温めるモーツァルトの音楽の力に僕は内心思わず唸った。もちろん終楽章アレグレットの天衣無縫は、自然体の極み。素晴らしかった。

ちなみに、バートレットがアンコールで弾いたバッハのパルティータからのカプリッチョは、音楽の喜びに溢れ、若きピアニストの心の機微を反映するかのようだった。たぶん彼は明快な性格の持ち主だろう。

東京交響楽団第676回定期演奏会
2019年12月8日(日)14時開演
サントリーホール
マーティン・ジェームズ・バートレット(ピアノ)
グレブ・ニキティン(コンサートマスター)
マーク・ウィグルスワース指揮東京交響楽団
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491
~アンコール
・J.S.バッハ:パルティータ第2番ハ短調BWV826~第6曲カプリッチョ
休憩
・マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」

20分の休憩後のマーラー。
わずか100年の間で、いかに人間の頭脳が進化したのか(あるいは退化したのか)を僕は想像した。モーツァルトの音楽が感覚から生じたものだとするなら、マーラーの音楽は明らかに思考の産物だ(善かれ悪しかれ)。このあまりに外面的な音楽を、いかにも外面を錬磨するように表現することで、僕たち聴衆は自ずと煽動されるのだから実に興味深い。
第1楽章からオーケストラは、個々の楽器を上手く鳴らし、大自然の調和を歌う。確かに舞台裏から響くトランペットは効果的だ。主部に入ってからのうねりと勢いも素晴らしい。ウィグルワースは音楽の細部を徹底的に際立たせる。そして、聴衆は、繊細だけれど強力な音響に心を奪われるのである。第2楽章の躍動感は愉しく、また第3楽章の民謡「フレール・ジャック」の旋律が懐かしさいっぱいで、僕は思わず胸を締めつけられた。
特に効果的な歓喜の終楽章は、とても鮮やかだった。最後のホルンによる起立しての演奏含め、何と刺激的で見栄えのする華麗なる音楽なのだろうか。どんちゃん騒ぎの中から生まれる調和の象徴が、感激を喚起する。
終演後は喝采の嵐。良かった。

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