(白井聡 東洋経済新報社)

『資本論』のすごいところは、一方では国際経済、グローバルな資本主義の発展傾向というような最大限にスケールの大きい話に関わっていながら、他方で、きわめて身近な、自分の上司がなぜイヤな態度をとるのか、というようなミクロなことにも関わっているところです。

今、世の中に出ている数多の「マルクス入門書」を読んでみても、このすごさが生き生きと伝わってくるものが見当たらない。

ならば、マクロとミクロのすべてがつながっている社会を、内的に一貫したメカニズムを持った一つの機構として提示する一方で、

私たちが生活の中で直面する不条理や苦痛が、どんなメカニズムを通じて必然化されるのかを鮮やかに示してみせる、

この『資本論』の偉大さが、ストレートに今の読者にも伝わる本を書き、今だからこそ「ここが『資本論』のキモです」という話をしたいと思った、というのが、

「敗戦の否認」という歪んだ歴史意識が浸透する日本の戦後社会の本質を暴き出した名著『永続敗戦論』『国体論』で話題を呼んだ気鋭の思想史家の今回の狙いなのである。

「相対的剰余価値の生産は、特殊資本主義的生産様式を前提とし、この生産様式は、その方法、手段、条件そのものとともに、最初は資本のもとへの労働の形式的包摂の基礎の上に、自然発生的に発生して、次第に育成される。資本のもとへの労働の形式的包摂に代わって、実質的包摂が現われる。」(『資本論』岩波文庫版第三分冊11〜12頁)

「商品による商品の生産」によって「物質代謝」の大半が担われる資本制社会においては、賃労働とはつまり資本家が労働者から買う「労働力という商品」である。

「剰余価値」を生産することこそが資本主義の肝となるが、剰余価値を産み出すためには、生産性を不断に高め続けなければならないという命題が内在している。

しかし、「等価交換」として差し出したはずの「労働力」という商品を「資本」によって包摂されているうちに、やがて「魂」までもが呑み込まれてしまうというのだ。

ん?どこかで聞いたような話だが・・・

「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」という、資本の側に立った新自由主義の価値観。

これを聞いて、「そうか。そうだよな」と納得してしまったあなたは、ネオリベラリズムの倒錯した価値観に支配されてしまっているのではないか?

ただひたすら量的に増大することを目的とする「資本」にとって、「増えることによって、人々が豊かになるかどうか」なんてことは、どうでもいいことなのである。

<なぜみんなこんなに苦しみながら、苦しまざるを得ないような状況を甘受して生きているのか。>

「ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をつくり出す。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史は終わりを告げるのである。」(『経済学批判』)

「それは実はとてもバカバカしいことなのだ」と腑に落ちることが大事なのは、腑に落ちればそのバカバカしさから逃避することが可能になるからだという。

そのためには、誰もが「これを読まないわけにはいかない」と感じて、みんなが一生懸命『資本論』を読むという世界が訪れなければならない。そうすれば・・・

「こんなバカバカしいことをやっていられるか。ひっくり返してやれ」ということにもなってきます。『資本論』を人々がこの世の中を生きのびるための武器として配りたい――本書には、そんな願いが込められているのです。

本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
今後も読んであげようと思っていただけましたなら、
どうぞ応援のクリックを、お願いいたします。
↓ ↓ ↓

人気ブログランキング