明治4年の頃、廃藩置県が行われ、岩崎弥太郎はこの時に土佐藩小参事と云う立場を失う事になった。時を同じくして後藤象二郎、板垣退助に説得される様な形でつくも商会の経営を任される事になった。これが岩崎弥太郎が実業家として始動する第1歩になった。つくも商会の経営を実践すると決定させたあたりから、弥太郎は士官を目指す事を諦め、起業家として生きる決意を固めたと云う。

三菱商会が誕生した原点は、岩崎弥太郎が譲り受けた「つくも商会」に成る。

岩崎弥太郎は途方もなく野心家で、気性の凄い性格だったと云う。幹部達も弥太郎の顔色を伺いながら仕事をしていたそうで、それを観ていた弥太郎は途方もなくまどろっこしくなり、独裁体制を築き上げたそうである。弥太郎の独裁体制に入った時に、社名も「三菱商会」と改め野望のごとく突き進む事になった。

この頃、弥太郎の弟である弥之助が留学先から帰国した事で、三菱商会の体制は万全をむかえる。明治7年、三菱商会は東京日本橋に本店を移し、名前もしくは名称も三菱商会から三菱蒸気船会社として新たに指導した。この時に弥太郎の呼称も当時の「旦那」と云う呼称から「社長」と云う呼称に変わったそうである。

岩崎弥太郎の思いとしては、この事業が成就するか否かは、お客様に対するサービス次第であるためでは?と云う思いが有ったと云う。しかしながら、社員は殆ど下級でも武士出身の為に人に対して頭を下げると云う事が出きないでいた。このような武士のプライドを捨てられない社員達に、笑顔で頭を下げる様に矯正する事が途方もなくたいへんだったらしいのである。