ということで、桜島の外周をほぼほぼ一周、フェリー・ターミナルまではもうひと息というところで、桜島国際火山砂防センターに立ち寄った次第でありますよ。

 

 

センター自体は「(桜島の)土石流・火山の監視や、災害時の避難施設としての役割も兼ねている」施設ですけれど、「土石流災害や砂防について、わかりやすく学べる」展示室もあるのですな(桜島観光ポータルサイト「みんなの桜島」より)。では早速、「活火山とともに生きるための技術」であるという砂防に関する展示を拝見することに。

 

 

まずもって、これまでに見てきましたように人々の生活がすぐそばにある活火山ですので、火山としての桜島を監視・観測する必要性から、先に立ち寄った有村溶岩展望所のある有村地区に「観測坑を設置し、桜島の火山活動における微少な地形変動及び火山性地震等の観測を行い、鹿児島地方気象台及び京都大学とデータを共有することで観測精度を向上させ、工事中の安全対策の強化を図ってい」るのであるとか(国土交通省 九州地方整備局 大隅河川国道事務所HP)。

 

その上で、噴火に関わって大きな被害を出すと想定される土石流への備えとして砂防施設が必要になるという具合でして、展示室には「野尻川7号堰堤」のミニチュア模型が置かれてありましたですよ。

 

 

日本では、山(河川の水源)から海(河口)までの距離が短く、ただでさえ一気に流れ下るようなところがありますですね。比較として、ドイツで見るライン川の中流域では満々と水を湛えてなんとも実に悠揚たる流れであったりしますが、日本の場合は印象が異なるわけで。近いところでは多摩川などもそうですけれど、川幅がやたらに広いわりに普段流れている部分は結構細い流れで、あちこちに草が繁茂していたり。これが一朝、大雨のあとなどは川幅一杯に流れていたりもするという、水量の振れ幅が大きいことが分かります。

 

ですので、急に水量が増えるような場合にはおのずと土砂を巻き込んで流れ下ることにもなるわけで、砂防堰堤(砂防ダム)はかなりあちらこちらに設けられておりますな。それの大きなものが桜島の土石流対策を担っていると言えましょうか。ただ、土砂を文字通りに堰き止めるというよりは、流れを暴れさせないという点に眼目があるような気がしますけれど。

 

 

施設内の土石流観測室というスペースからは実際の野尻川のようすを眺めることができますが、両サイドを固めてくっきりと川筋を作り出し、「土石流さん、どうぞここを下って海に出てくださいな。脇に飛び出したらいけんですよ」と言わんばかりになっているわけです。そう考えると、土石流用の放水路と言ったらいいのかもしれませんですね。

 

てなこふうに桜島を一周して、火山たるところをいろいろな面から見て来たわけですけれど、この後はフェリーでまた鹿児島市街へ戻るという段取り。ですが、桜島の余談を二つほど。ひとつは、近所で見かけるのとはひと味違うファミリーマートでして。

 

 

国立公園内にあって景観への配慮であるのか、見慣れた色合いと異なる茶色のロゴを使っていることから、「ファミマ」ならぬ「茶ミマ」の愛称で親しまれているとか。この手の配慮は、福島県の裏磐梯で見かけて以来かもです。で、もうひとつ。

 

 

湯之平展望所で見かけて、もしかしてミヤマキリシマであるか?と思ったりもしましたけれど、後から調べたところによれば開花時期は5月中旬以降らしい。いくらなんでも3月半ばには咲いていないでしょうから別種でしょうけれど、ま、こういうものにも目を向けていたということで、取り敢えず。

よもやこの映画を自ら見てみようという日がくるとは、夢にも思っておりませんでしたなあ。『座頭市』シリーズと並んで?勝新太郎の代表作に数えられる『兵隊やくざ』の第1作でありますよ。

 

 

先日、知覧特攻平和会館に訪れたことを振り返る中で日本の戦争映画の描きようを云々したですが、その折に思い出したのが東京新聞夕刊に毎週載っている旧作映画の紹介記事なのですよね。『兵隊やくざ』を取り上げて、ある意味というのかどうか、傑作でもあろうかと思える紹介があったものですから。1965年、つまり戦後20年段階での戦争の描き方の一端が、もしかしたら垣間見られるのかもと思ったものでありまして。

起床ラッパは女郎屋で聞いて、 喧嘩で直す二日酔い! やくざの用心棒だった新兵・大宮は態度の大きさから上等兵集団に痛めつけられるが、名門生れのインテリ三年兵・有田に救われ、奇妙な友情が芽生える。

おそらく最も簡潔なものとして、Amazon prime videoの紹介文を引いてみましたですが、単にこれを見かけたとしたら「敢えて見ようとは思わんなあ…」と(笑)。確かに喧嘩沙汰のシーンが多くありまして、結果、血だらけ、生傷だらけ。その分、勝新の体当たり演技が見ものともいえましょうけれど、ことさらその部分だけにフォーカスしては「なんだかな…」になるような。

 

さりながら日本の軍隊のありようとして、星(階級)がひとつ違えば神様と言われる中、神様の意に添わぬことに対しては鉄拳制裁が当たり前ということは確かにあったのではなかろうかと思うところです。戦争中はとかく上官の命令は天皇陛下の聖慮として疑問を差し挟むこと自体不忠という考えが蔓延していたのでしょうから、その渦中であればいざ知らず、戦争が終わって20年が経った時、つまり終戦時に20歳だった人が40歳になったときに、これを見たらどう思ったろうなあと、考えたりもしたところです。尋常ではない状況を当たり前と思い込んでしまっていたと振り返ることもあったでしょうか。

 

そも戦争に人道的な戦争なんぞは無いでしょうけれど、先の戦争において日本軍のありよう、捕虜の扱いにしても何にしてもは非人道的と見られていたとはよく聞くところです。そもそも日本の軍隊には精神論が横行していたでしょうから、自軍の兵士たちに対してさえ過酷な状況にあるときに、捕虜への相対し方に配慮することは無かったのではなかろうかと。

 

映画はもちろんフィクションですけれど、それでも関東軍の部隊兵士として行われた演習には三日間、重い装備を背負って歩き詰めに歩かされ、初日はまだしも二日目は速足、三日目には駆け足で何十キロも行軍するてな場面として描かれたりもしていたのですな。これ自体は実際のことかどうかは分かりませんですが、こうしたひたすらに精神を鍛える美名?の下に行われる訓練を自軍兵士に課していたとなれば、後に「バターン死の行進」として知られる米軍捕虜等の扱いに対して疑問は全く思い至ることもなかったのであろうと想像するわけで。おそらくジュネーブ条約を知っていたのは前線から遠く離れた大本営にいる上層部だけだったかもしれませんし。

 

と、映画の話は勝新の乱暴ぶりばかりになりそうですが、注目すべき登場人物は(上の紹介文にある)インテリ三年兵の有田(田村高廣)でしょうか。大卒なだけに幹部候補生試験に合格すればすぐにも下士官へと上がっていったであろうところを、わざわざ試験に落第してのらりくらり。上等兵のまま、ただただ4年の満期除隊を待ちわびるという処世術が果たして本当に軍隊でまかり通ったのかどうかはわかりかねますけれど、軍隊の不条理に対抗する術として腕で解決を図る大宮(勝慎太郎)と頭で切り抜ける有田とは両極端ながら、互いが互いを必要とする存在となっていくのは理解できないものではありませんですね。

 

てなことで、殺伐としたシーンは当然にたくさんあったものの、戦争を振り返る形として(見方にもよるわけですが)ひとつのありようを見せてくれるといか、考えさせてくれるというか、そういう側面はあったような。当初考えていたほど毛嫌いする映画ではなかったかなと思ったものでありますよ。

これまで見て来たところで、桜島の大正噴火は西の方へ向かった溶岩流が烏島を飲み込んだと同時に、南東方向でも大隅半島と地続きになってしまうほどの噴出があったことが分かりましたけれど、それはそれでダイナミックな変動であったものの、もそっとヒトのサイズからして生々しい被害を想起させる場所へと移動してきました。それは黒神中学校という学校の片隅にありましたですよ。惜しげもなくご覧いただくとすると、このように。

 

 

ともすると「いったい、これは何?」ともなりましょうけれど、「黒神埋没鳥居」として知られるものとなれば「おお!」とも思うところではなかろうかと。要するに、ここにあった神社の鳥居が大正噴火の火山灰や軽石などで一日のうちに埋まってしまったのであるというのですねえ。元々の高さは3mと見上げる高さで立っていた鳥居が、今や地上に出ている部分は1mほど、見下ろされる鳥居になってしまったというわけでして。

 

 

ちなみに公共駐車場の傍らには、まさに当地、黒神中学校の生徒会が作成したという解説板「桜島の誕生物語~現在の桜島に至るまで~」が建てられておりました。学校でよくやる、模造紙を使った研究発表を思い出せますけれど、とてもきれいに設えてありますな。ここでは最後のところ、「4.桜島の自然と人との繋がり(現在)」の部分を見ておくといたしましょう。

数々の噴火を繰り返してきた桜島。それでも現在、多くの人々が暮らしている。その理由は、効能豊かな温泉や世界一小さな桜島小みかん、世界一大きな桜島大根を作ることができる土壌など、火山がもたらす自然の恵みがあるからだと考える。さらに、桜島に住む人々のつながりの強さも理由の1つと考える。

ある種、活火山という自然の脅威を間近にしながらもそこに生きる人たちならではの決意表明感が漂って、地元らしさを感じるところですけれど、そうは言っても県下最大の鹿児島市街が24時間運航のフェリーで目と鼻の先にあるという条件は、おそらく無視できないところではなかろうかと思ったりします。何せ、桜島小みかんや桜島大根はまさしく特産品であるとしても、鹿児島県内各所それぞれに特産物はあったりするところながら、廃校になった小学校や中学校がずいぶんあるなあということを旅の道すがらで(特に大隅半島で)見てきたものですから。

 

それに比べると桜島にはいくつも学校があって…と、書きかけたところで「果たしていくつあるのか」と検索してみますと、「桜島にあるから…その名も「桜島学校」 26年春開校の義務教育学校、校名案決まる」という見出しの記事(2023年10月2日付南日本新聞)に行き当たりました。少子化の折から、島内にある8つの小中学校を統合し、9年制の義務教育学校を新設することが決まったことを報じる内容…となると、やはり市街に近いとはいえ、だったら鹿児島市街に住む(もしくは他の大都市圏に出てしまう)という選択をするのかもしれませんですなあ…。

 

 

とはいえ、桜島島内に依然住まう方々はたくさんいるのですし、その人たちの安全のためにも写真のような噴火避けの「退避壕」がそこここに設けられているのが火山と共にある暮らしを想像させるところでもありますね。でもって、一朝、桜島がご機嫌斜めに噴火をしようものなら、先ほどみた埋没鳥居のような事態にもなりかねないわけですが、ここでの火山灰の積もる深さとはまた別に溶岩流の広がりを目の当たりにできる場所、島の南側に位置する「有村溶岩展望所」にも立ち寄ってみたのでありました。

 

 

流れ出た溶岩が余りに多いためですかね、展望がきく場所へはこんなふうに長い階段を登り詰めなくてはなりません。高みにあがってみれば、島の南側だけに活動中の南岳がより間近で、噴煙の立ち昇るようすがよおく見てとれるのですな。

 

 

この山裾に広がるのは全て溶岩ということになりまして、解説板に曰く、噴火時期の異なる溶岩の堆積具合が見られることから「有村溶岩展望所」と言われるようでありますよ。

 

 

解説パネルの写真は分かりやすく色分けしているにせよ、よくよく見れば時期による溶岩帯の色合いの違いが分かるように思えますですね。ま、溶岩の色合いというよりはその後の時間経過に伴う植生の違いが色に見えるということかもですが。当然に「火山ガスの影響を受けるエリア」では植物は生育しにくいこともあるわけで。

 

 

と、展望所入り口にある休憩施設には、少々ゆるぅい感覚の「桜島暮らしのススメ」なる展示がありましたですよ。

 

 

火山灰対策としては、上空の風向きを読むこと、降灰速報メールをチェックすることが大事であると。万一火山灰をかぶってしまった場合、髪に着いた火山灰はなかなか取れずごわごわしているので、シャンプーに2回にわけてやさしく流すべしと。これもまた生活の知恵なのですなあ。

 

というところで、桜島の外周1周約36kmを巡るドライブは南側から西側へと戻っていきまして、次の立ち寄り箇所へ。桜島最後のポイントは「桜島国際火山砂防センター」の展示施設…ですけれど、その辺は次回ということに。

鹿児島といえば桜島…ということで、フェリーでもって上陸を果たしたわけですが、最初に立ち寄った烏島展望所が比較的海に近い場所であったのに対して、次は山の中腹へ。湯之平展望所と言われるその場所は、桜島観光ポータルサイト『みんなの桜島』に曰く「標高373m、北岳の4合目に位置し、桜島において一般の人が入ることの出来る最高地点です」ということで。

 

 

山に近づいた分、山肌の荒々しいさまがよぉく見てとることができますですね。桜島は「北岳と南岳という大きな2つの火山が合わさってできた火山」ですけれど、ここから正面に望めるのは北岳であると。

 

 

谷筋が大きく深く刻まれているのが特徴でして、解説板に「山肌が長い年月をかけて雨に削り取られた跡」とありますように、風雨に曝された期間が長いということはそれだけ古い山、古い斜面ということになりますな。ですので、現在上がっている噴煙はもっぱら南岳の火口からで、正面の北岳には気配もありません。

 

ちなみにそばに建てられている展望施設には売店などもありまして、桜島の展望所と言えば指折りの場所が湯之平なのでしょうね。ここでは外国人旅行者も多く見かけましたし。で、その展望施設内にある展示解説を見ておくといたしましょう。

 

桜島は約26,000年前に誕生し、現在までに大規模な噴火を17回も繰り返しています。その中で最大の噴火は、今から約13,000年前の大噴火です。このときの噴火で鹿児島市内で1m以上の火山灰が積もりました。

先に烏島展望所で「大正噴火」による溶岩流が大量であったことを知ったわけですが、そのときの噴火はここでいう大噴火の最後の方ということになりますかね。その後、1946年(昭和21年)に「昭和噴火」と呼ばれる大噴火があったようです。

 

 

噴火によって桜島は大隅半島と地続きになったとは知っておりましたが、これは「大正噴火」のときだったのですなあ。ところで上の「噴火の歴史」解説パネルに、桜島の誕生より3,000年ほど前、今から約29,000年前に「姶良カルデラの超巨大噴火(鹿児島のシラス台地の形成)」という記載がありました。そも姶良カルデラなるものは『ブラタモリ』を通じて知り及ぶこととなったですが、錦江湾(鹿児島湾)の深奥部全体が巨大なカルデラであったとは俄かには信じがたい規模でありますねえ。

 

 

湯之平展望所から見晴るかす海がそっくり陥没したできたカルデラだというのですものねえ。差し当たり、噴煙を上げ続ける桜島はともかくも、見渡す限りでは実におだやかな海が広がっているようにしか見えないですな。とはいえ、つい先ごろにもインドネシアの火山が噴火したと伝えられたりもしているわけで、地球の活動は今でもヒトに計り知れないほどのパワーで続いているとなりましょうか…。

 

 

てな思い巡らしをしたところで、今度は桜島を時計周り(北~東~南~西)に一周することに。西へと向かった溶岩流が烏島を飲み込んだ一方で、南東側にも広く被害の及んだ大正噴火の名残が目の当たりにできるという場所があるようですので、それを目指して移動していくのでありました。

先日、鹿児島の旅を振り返って指宿の歴史に触れる中、「16世紀半ばにポルトガルから来航して指宿・山川港に滞在した商人が日本滞在記を残して、これを読んだフランシスコ・ザビエルが日本渡航を決意し…」といったことを記したりしていたところで、「そういえば…」と思い出したのが、東洋文庫ミュージアムで開催中の展示のことでありまして。『キリスト教交流史-宣教師のみた日本、アジア-』と銘打った展示が5月12日まで。思い出したときに行っておかねば会期終了になってしまうと、駒込まで出かけていったような次第です。

 

 

毎度訪ねる度に、ミュージアム入口に設けられた見上げるばかりの書棚は実にいいつかみであるなあと思いますですね。こんなふうに堆く積みあがった書籍に囲まれたいと願う御仁は結構おられるのではなかろうかと。

 

 

ま、それはともかくとしまして、これの裏側から始まる展示の方をじっくりと見ていくわけですけれど、キリスト教が日本へと伝えられた経緯からして、交流史というと始まりは戦国時代あたりかと思ってしまいますなあ。さりながら、広くアジアへの伝播を考えれば、大航海時代以前に遡っておく必要がありそうですねえ。

 

 

この解説には。シルクロード経由で唐時代の中国にネストリウス派のキリスト教が伝わり、いっときは大秦寺と呼ばれた教会施設も作られるも、結局のところ根付くに至らず、「10世紀に唐が滅亡すると姿を消し」たとありまして、この辺りはかつて世界史の授業でも触れられていたような。

 

 

こちらはいっときにせよ、中国で確かにネストリウス派キリスト教(景教)が受け入れられていたことを示す証とも言えましょうか。781年に景教寺院内に建てられた石碑の拓本に「大秦寺」という文言が見えていたりして。

 

ただ、ネストリウス派が東方に目を向けたのは、431年のエフェソス公会議で異端とされたことから、信徒は難を逃れてペルシアに赴き、さらに東方に活路を見出そうとした…というのが背景だったのですなあ。

 

後に、ヨーロッパ世界がイスラム勢力に脅かされた際、遥か東方にプレスター・ジョンという救世主(?)がいると信じられたことがありましたけれど、プレスタ―・ジョンはネストリウス派の司祭とも考えられていたようで。かつて異端として排斥した一派に、キリスト教世界がイスラム禍から救われる希望を抱くとはいささか虫のいい話でもあるように思えますが…。

 

と、前史ともいうべきあたりをさらっと見て後、大航海時代になってどんどんキリスト教が出張っていくことになりますですね。この点は航路開拓が進んで世界が(スペインやポルトガルにとっては)狭くなったことに便乗して…という側面で見てしまうところながら、やはりこちらについても、1517年以降、ヨーロッパ世界を宗教改革の波によってカトリックが脅かされたことで、広く世界にカトリックを広める(つまりは信者数でプロテスタントを凌ごうということか)目的があったようでありますよ。

 

で、その海外布教の最前線に立ったのが「イエズス会」であったわけですが、同会創立者の一人とされるイグナティウス・デ・ロヨラの功績を後に伝えるべく出版された伝記の扉絵には、このような絵が掲載されていたのであると。

 

 

 

「イエズス会による世界宣教の寓意が込められてい」るとして、「(地球儀の周りに配された)四人の人物はそれぞれ四大陸(左下から時計回りにヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、アジア)に見立てられ、彼らは天上のロヨラから放たれる光を仰ぎ見てい」るという図であるそうな。なんというか、高飛車感丸出しな気がしてしまいますなあ。

 

まあ、ローマ・カトリックの本山やらイエズス会の本部やら、上で偉そうにしている人たちは常に「上から目線」なのかも(そんなことだから、宗教改革が起こったりもしたのだろうと)しれませんですが、個々の宣教師は大洋の波濤を乗り越える苦難を越えてやってくるのですから、皆が皆、偉そうにはしていなかったでしょうけれど、ともあれ、そうした状況の中でフランシスコ・ザビエルも登場してくるのですな。

 

 

死後半世紀ほど経って刊行されたザビエル伝記の扉絵には、日本で(教科書などにも載って)最もよく知られた図像とはずいぶん違う容貌が見てとれますですが、それはともかく、日本滞在中に「西日本各地の有力大名らと面会して、改宗をするよう積極的に働きかけ…その結果かなりの信者を獲得し」たわけですね。豊後の守護大名・大友宗麟はその最たるところですけれど、農民・町民なればいざ知らず、守護大名を振り向かせるのに高飛車な臨み方で難しかったでしょうから、ザビエルのアプローチが偲ばれるというものです。

 

また、ザビエルの後に日本への布教に関わったアレッサンドロ・ヴァリニャーノにしても、その臨み方については展示解説にこんなふうに書かれておりましたよ。

彼(ヴァリニャーノ)は1579年以降の3年間、西日本各地を視察するなかで、日本の慣わしや政治・社会状況に配慮した「適応」布教方針を打ち出し、その実践を部下に指導します。

とまあ、こうした方針が一定成果をあげて日本にもキリスト教信者が増えていきましたけれど、それも束の間、日本の最大権力者となった秀吉、家康に疎まれて禁教となってしまうのですよね。ですが、日本の為政者と宣教師という構図だけでなくして、イエズス会と他の会派とのあしの引っ張り合いも災いしたのではないですかねえ。展示解説にはこのように。

もともと日本の布教はイエズス会の独占でしたが、1580・90年代には新たにフランシスコ会などの托鉢修道会もメキシコ・フィリピン経由で来日を果たし、日本各地での拠点形成に乗り出します。その後、イエズス会と托鉢修道会との間には、日本布教の権利や担当区域の分担、布教方針をめぐる摩擦が起き、対立します。1614年に禁教令が発布された後も、各修道会が同じ町で潜伏布教できるかどうかで争うなど、対立構造は迫害下においても続きました。

イエズス会と並び立っていたのはフランシスコ会のほかにも、ドミニコ会、アウグスティノ会があったそうですが、修道会が互いに仲がよろしくなかったことを示すひとつがこちらの印刷物でしょうか。

 

 

イエズス会が本部の送っていた報告書の中で、日本人イエズス会士3名が殉教を遂げたことを報告している部分になります。が、このときは長崎にあるモニュメントが示すように殉教者は26人だったと。さりながら、26人のうち23人はフランシスコ会関係者であったことから、イエズス会としては「3人が殉教してしまいました」という報告になったとは…。布教に厳しい時期なれば一致団結して…などという算段は全く無しに縄張り争いのようなものが展開したとなれば、見ている側も「やれやれ…」と思ったことでありましょうなあ。

 

結局のところ、日本におけるイエズス会の活動は、先に読んだ小説『パシヨン』に取り上げられた小西マンショを最後の司祭として殉教したことで終焉を迎えるわけですね。以来、日本のキリシタンは長い長いあいだ潜伏せざるをえないこととなりまして、幕末にパリ外国宣教会のプティジャン神父が「信徒発見」に遭遇する…というあたりは、昨2023年秋に長崎で訪ねた大浦天主堂のところで触れたとおりかと。

 

ただし、交流史という点では日本の場合、明治になっても禁教状態は続いていたのですよね。今につながる最終段階として、解説に曰くこのように。

西洋諸国からの批判を受けるかたちで明治政府は1873年に禁制高札を撤去します。以降、日本においてキリスト教信仰はカトリック、プロテスタントを問わず黙認されることとなりました。

差別の解消という点では「めでたし、めでたし」なのでしょうけれど、キリスト教会派ごとの料簡の狭さといいますか、今だから思えるのかもしれませんが、やっぱりなんだかなあですよね。もっとも、この辺りの会派争いはキリスト教に限った話ではないのですけれど。あらゆる場面で思うことですが、もそっと仲良くできんものであるかなあと、余談ながら。