折りしも何かと「戦争」なるものに思いを馳せたりもするころ合いに

ようやっとトルストイの「戦争と平和」第4巻を読み終えたのでありました。


戦争と平和〈4〉 (新潮文庫)/トルストイ


第4巻が最終巻ですので全巻の読み終わりということなわけですけれど、

いったい読み始めたのはいつ頃であったか…(と、サイト内検索)。

第1巻 を手に取ったと記しましたのが4月25日であったとは、

読了に4カ月近くも掛かってしまったわけですなあ。


それにしても何だってこれほどまで掛かってしまったかと言いますれば、

「果たしてこの作品は小説であるか?」と思われるくらいに

トルストイ思うところの歴史観を語る論説めいた文章があちらこちらに

差し挟まれているからでもあるのでして。


取り分けお話のとしての大団円にあたるエピローグにおいては、

もはやここをおいては書くところなしとばかりに意見開陳が延々続くという。

もはや小説としてのお話はいずこかへ飛んでしまったかのようです。


ことほどかほどにトルストイが言いたかったこと。

それを掻い摘んで説明した訳者による巻末解説から引いてみるとしましょう。

アウステルリッツやボロジノにおける原始的な巨大な力の大衝突が、けっしてナポレオンや総司令部によって作成された青写真のように動いたのではない。作戦や指揮や命令には関係なく、目に見えぬある力に支配されて、その自然の流れにしたがったのである。彼(トルストイ)はその目に見えぬ、歴史を動かす力を、無数の個人の意志の融合、つまり無限に小なるものの集まりと考えた。個人の意志の総和である。

この小説はナポレオン戦争を背景としていますので、

アウステルリッツやボロジノでの会戦が例示されて、とかくその戦闘においてナポレオンが、

るいは対するロシア側の総司令官たるクトゥーゾフが何かをしたから(しなかったから)

かかる結果が生じたというふうに受け止めるのは誤りなのだと言っているのですね。


これはなにもナポレオン戦争に限った話ではなくして、

こと歴史的な一大イベント(それが良いものでも良くないものでも)は

ヒーローというかカリスマというか、そうした誰かしらの活動に寄り添って叙述されるがために

その人の活動が歴史を動かしたように見えることになりますが、そうした歴史の叙述からして

おかしなことなのではないかと、トルストイは言っているのですね。


何となればアウステルリッツやボロジノの会戦にあっても、

司令部(戦線の後方にある)は命令を下すわけですが、実際の最前線で

戦闘に携わる者たちの動きには必ずしも命令どおりではない臨機応変さがあり、

それは個々の兵士の動き(意志)の総和として結果が生じるということでもありましょう。


これは何も大袈裟な歴史的イベントの場面のみならず、

いわゆる毎日の日常においてもしかりであって、その毎日の中で

およそ「歴史を作る」てなところとは無縁と思しきごく普通の人々(あなたもわたしも)が

どのような意志をもって活動しているか、その活動には全てにおいて相互作用があり、

その結果として実は(後に顧みれば)歴史的イベントがなぜあのように生じたかに

間違いなくつながっているということでもあります。


「バタフライ・エフェクト」という言葉がありますけれど、現に存在する人のひとりひとりが

自らの意志によって何かをする(あるいはしない)ことが実は歴史を作り出しているのであって、

その意味では(ともすれば漫然と)日々を送る人々の生活こそが「歴史」そのものであると

トルストイは気付かせたかったのではなかろうかと。


この小説が書かれたのは1865年から1869年に掛けてであったようですが、

日本でいえば幕末維新、アメリカでは南北戦争が終結したばかりのころ、

ヨーロッパでは普墺戦争が終わり普仏戦争が始まろうとするころ、

こうした時期に歴史は「個人の意志の総和」で作られ、担われるものであると

くどいほどに(実際読んでいると「くどいなあ」とも思うのですけれど)繰り返して

伝えようとしたトルストイの「戦争と平和」は稀有な作品であるなと思ったのでありますよ。