アムステルダムで運河沿いの花市 に近いムント広場は、
ムント塔というタワーが建てられているところからのネーミングでありますな。


ムント塔@アムステルダム

「munt(ムント)」は英語でいうなら「mint」で、

ついついハッカのことかと思ってしまうところながら、
この言葉には貨幣とか造幣局といった意味もありますね…と、

さも知っているふうではあるものの、一昨年ドイツのシュパイヤー を訪ねて

町なかをぶらりとしておりますときに「Alte Münze」なる建物に遭遇、

何かと思えば旧造幣局であったのですな。


そこで「münze」というドイツ語はそういう意味であったかと思ってみれば、

ドイツ語とオランダ語(ひいては英語)は親戚ですので、

オランダ語で「munt」が同じ意味を持つとは想像できる範囲かもしれんなあと。


元々は、まだあまり広くない時期のアムステルダムでは

運河沿いに町を取り囲んで城壁が築かれていましたけれど、

その城壁の名残がこの塔でもあるということで。

ムント塔とのその名の起こりは1672年に攻め込んできたフランスが
この塔を貨幣鋳造所(つまりはmintであり、munt)として使ったことが由来のようでありますよ。


ところで、オランダといえば数次にわたる英蘭戦争 はよく聞くところではありますが、
1672年にはフランスとの間に仏蘭戦争というのもあったのですなあ。
野心に燃える、戦争大好きなルイ14世 が引き起こしたもののようです。


1665年にスペイン王フェリペ4世が没したことを受け、
当時スペイン領であった南ネーデルラントの領有権をフランス王ルイ14世が主張して、
1667年にネーデルラント継承戦争が起こるのですな。


力づくで南ネーデルラントを押さえてしまおうと目論んだフランスの侵攻に

「こりゃ、危うい」と反応したのがオランダで、あろうことか英蘭戦争の最中であったにも関わらず

イングランドとは休戦したうえで、対仏同盟を結んでしまう。
これにはスウェーデンも加わっていたそうな。


こうした圧力もあってフランスは南ネーデルラントの全土制圧は挫折したわけですが、
これを恨みに思っていたのですなあ、ルイ14世は。


その後、イングランドに近づいてこれを仲間にすると、イングランドは英蘭戦争を再開、
加えてフランス軍もオランダに侵攻を開始、これが1672年のことであったということです。


ま、結果的にルイ14世のオランダ併合という野望は潰えるのですけれど、
一時はアムステルダムが占領され、ムント塔が貨幣鋳造所として使われるてなことは

あったということでしょうか。


と、余談が長くなりましたですが、
ヨーロッパの町を訪ねると町中のところどころですっくと立ち上る塔の姿を目にしますですよね。
アムステルダムも例外ではありませんで、かつての城壁などの名残であったり、

あるいは教会の尖塔であったり。


アムステルダム南教会

こちらは南教会と呼ばれる建物の塔ですけれど、「…と呼ばれる建物」と言いましたのは
現在はイベント会場みたいなふうに使われているということでして。


元は17世紀初めに建てられたオランダで初めてのプロテスタント教会なのだそうですから

大事にしそうなものですが、教会として使われたのは1929年までとか。

このあたり、オランダの宗教感覚 の反映なのでありましょうかね…。


ちなみにアムステルダムに滞在したモネ が運河とともにこの南教会の尖塔を描いておりますなあ。
どうやら運河と近辺の街並みは1874年当時とあまり変わっていないような気のするところです。


クロード・モネ「アムステルダムの運河 (Canal à Amsterdam)」

ということで、アムステルダムの町にも塔があれこれあるわけですけれど、
その名も「Adam Tower(アムステルダム・タワー)」というのは現代の建築でありまして。


アムステルダムタワー

タワーというほどに高層ではありませんが、
高い建物の少ないアムステルダムでは絶好の展望台とされているようです。
が、これを引き合いに出しましたのは単に展望台があるからということではないのでして。
こちらに注目です。


建物の外に飛び出すブランコ

タワーの屋上、展望台にはブランコが設置されておりまして、
なんとまあ、このブランコ、振れると建物の外にはみ出すという具合なのですなあ。
いやあ、遠目で見ているだけで手に汗を握ってしまいますですよ。

アムステルダムのタワーには実にいろいろあるもので…・。