名古屋から伊勢へと向かう近鉄 に乗った際に、途中、桑名駅で乗り込んできた乗客から
「関西弁?」と思しき言葉が聞かれたとは、先に書きましたですね。


関東者はざっくり「関西弁」てな言い方をしてしまいますが、
関西というエリアの中にはそれぞれ微妙になのか、激しくなのかはともかく、
異なるお国言葉がたくさんあるのでありましょう。
伊勢弁というのもそうした仲間のひとつと言っていいのでしょうか。



これは松浦武四郎の生家 で見かけた「来訪者へのご挨拶」的一文ですけれど、
耳にしたところではよく分かりませんでしたけれど、こうして書き言葉になってみますと
やはり大阪あたりの言葉とも違うのだなということがよく分かるような。


ということで、わざわざ訪ねた松浦武四郎の生家ですので、
家の中のようすなども少々触れておくことにいたそうかと思いまして。



ただ母屋の座敷では写真展やら水彩画展が開催され、ちょっとしたギャラリー状態。
もちろん地元ゆかりの絵や写真ではあるものの、武四郎が住まったという実感には
ちとつながりにくいような気も。そこで、離れの方に目を転じたみようかと。


松浦武四郎生家の離れ

基本的には八畳二間に四畳の控えの間が付いているだけのシンプルさですが、
武四郎の実家を訪ねてきた客をもてなし場所として、慶応三年(1867年)頃作られたとか。


若い頃から全国を旅した周った武四郎は旅先のあちこちで
食事やら時には病気の世話やらとやっかいになっては、
情けをかけたくれた人たちにせめてものお礼をしたいからと
「伊勢参りのときにはぜひ実家に立ち寄ってもらいたい」と言っていたそうな。
実家にもちゃんと「訪ねてきた人にはご馳走を」てな手紙を送っていたようです。

 

もしかしたら武四郎がばらまいた招待状?を頼りに訪ね来る人たちのために
作られたものでもありましょうか。


離れの室内には…

八畳二間を見通しますとこんな感じですが、
右奥に見えるのは北海道河西郡中札内村(帯広の南あたり)にある碑文の拓本で、
武四郎の詠んだ歌が刻まれておるそうな。
アイヌの村を訪ねて、武四郎は鹿の肉をご馳走になったそうです。


北海道河西郡中札内村にある碑文の拓本
このあたり一夜かりても鹿の音を今宵は近く聞くかましものを
 

離れにはもうひとつ拓本が展示されておりまして、
こちらは屈斜路湖畔のアイヌ民族資料館前庭にある碑文だそうで。


汐ならぬ久寿里の湖に舟うけて身も若がえるこころこそすれ

ぶら下がっている説明文にはこのようなことがかかれてありました。

後に武四郎が「北加伊道」の命名と同時に、道内各地の地名をアイヌの言葉から作り、

提言したことが思い出されるところです。

久寿里の海は、屈斜路湖のこと。久寿里はアイヌ語でクシュリと発音され、薬の事。屈斜路は、アイヌ語でクッチャロ「咽喉」を指す言葉で、屈斜路湖から釧路川が流れだす、「銚子口」にあったアイヌのコタンがクッチャロと呼ばれていました。
ここに住むアイヌを松前藩が、現在の釧路市に移し、「クシュリ場所」と呼ばれたことが釧路と呼ばれる由来のようです。

…と、武四郎と北海道との関わりに近付いたところで、松浦武四郎記念館へと移動しますかね。

生家からは旧伊勢街道を南へ辿ってしばし。ほどなく到着いたします。