伊勢松阪の町を巡り、ちょいと川向うまで足を延ばして「はにわ館 」まで行ってきた後は
かつての町の中心であった松坂城跡へとやってきました。


松坂城跡に到着

で、この看板の先に松阪市立歴史民俗資料館があるということでしたので、
まずはそちらを訪ねてみることに。古風ながら立派な建物のようですなあ。


松阪市立歴史民俗資料館

なんでも明治45年(1912年)に図書館として建てられたものであるとか。
早くから公共図書館が建築されるあたり、先に伊勢河崎の商人 たちが知的好奇心を

書物で満たしていたことと風土的に何やら関わりがありそうな気がしてきますですね。


館内の展示・薬種商桜井家

ところで、館内に入りますとまずはこんな大きな看板のある店先の再現に出くわします。
店の中のようすはこのとおり。


薬種商の店内のようす

伊勢街道沿いで薬種商を営んでいた桜井家だということでして、
店先の大きな真ん丸の看板、店内のこれまた大きな小判型の看板、

いずれも池大雅の書だそうでありますよ。

ちなみに真ん丸看板の方は「黒丸子」とあってこれは腹痛の薬。
小判型の方は「萬能千里膏」という(靴擦れならぬ)草鞋ずれの薬であるとか。

それにしても、外宮 近くには小西萬金丹本舗 がありましたけれど、
薬種商というのもこのあたりに多かった商売なのかもしれませんですね。


それと直接に関わるかどうかは分かりませんですが、
「伊勢白粉(おしろい)」というのもこの辺りの名産品になっていたようですなあ。
薬も化粧品 も製造過程に近しいところがありそうに思えるわけでして。


近隣の勢和村(現在は多気町の一部)に丹生鉱山があったそうですが、
丹生とは「丹」を産する場所の意であるようで、

「丹」(朱色の絵具とか)の元となる「水銀」の産地なのだとか。

この水銀が白粉の原料にもなったのだそうでありますよ。


ただ水銀と聞いて「そんなものを肌に塗って平気なのか」と思えば、
いわゆる化粧品としての用法のほかに、梅毒の治療薬とか堕胎剤、
はたまたシラミとりの殺虫剤などにも使われたと聞くといやはやと。


それでも「延喜式」に伊勢国は「調」として水銀を出すことが定められたりした特産品、
室町の頃には「伊勢白粉」が伊勢参宮のみやげものとして知られるようになり、
明治になっても、米国で1892年(コロンブスのアメリカ発見から400年)に開催された博覧会に
「射和軽粉」(いざわけいふん・射和は現在、松阪市の一部)が出品されたりしていたとか。
どうみても薬品にしか見えませんけどね。



しかしまあ、「丹」(朱色)の元になるという水銀でもって
全く異なる色の真っ白い白粉が作れるとはどうした化学作用なのか?…と思うところですが、

その理屈まではピンと来ておりませなんだ。そこへもってきて、

もうひとつの松阪名産もどういう化学変化なのか?ということがありまして。


松阪木綿の機織り機

「江戸時代の初期から伊勢商人の目玉商品だった」という松阪木綿は
「藍染めを基調とした縞柄」で有名なわけですけれど、
どうした化学変化なのかと言いますのはこの藍染めのプロセスなのですなあ。


「藍の色素である青藍は水に溶けないので還元剤を使って一度白藍にします」という
説明の始まりからして、ピンとこない…ですが、説明はさらに続きます。
「還元されたアルカリ溶液の中に糸や布を十分に浸してから、絞って空気中にさらすと
吸収された白藍は空気中の酸素で酸化されて青色になるのです」と。


「なるのです」と言われても、「うむぅ」と頭を捻るばかり。
ま、簡単に言ってしまえば、元は白い溶液に浸したが空気に触れて青くなる。
仕組みはさっぱり?ですけれどね。


とまれ、昔の人はかような化学反応を駆使して藍の色合いにグラデーションをつけ、
さまざまな縞や柄を生み出したわけでして、そんな模様の数々を記録して
「縞帳」なるものに蓄積されておりましたですよ。



そんなデザイン性にも富んだ松阪木綿は「白子(現・鈴鹿市)の港から江戸に向けて
積み出され…最盛期を過ぎた寛政初期でさえ年間55~56万反もの木綿が送られた」とのこと。
それが大黒屋光太夫 の船の積荷にもなっていたのですなあ。


正徳二年(1712年)に出た当時の百科事典「和漢三才図会」には、
木綿は勢州松坂を上とす。河州摂州これに次ぐ」と記されているそうですから、品質もばっちり。
さぞやお江戸日本橋・大伝馬町の店みせでたくさん売りさばかれたことでありましょう。


ところで、かかる活躍をみせた松阪商人のまつわる年表の展示を見ていて、
享保七年(1722年)に「国分家、常陸国土浦に出店、醤油の醸造を始める」とあることに「!」と。
またも「醤油 」に食いついて…ではなくして、「国分家」という方に「もしかして」と思ったわけで。


江戸にも店を開いて「創業当時は醤油の製造・卸売業者であったが、
明治以後は専門商社に専念した」とWikipediaに記載があるのを見つけ、
やっぱり松阪商人の国分家が今もK&Kの缶詰等で知られる「国分グループ本社」の
創業者だったと知ったのでありました。


と、感心しきりの松阪商人ですけれど、

館内では松坂城に関する展示もあれこれ見たことですし、
そろそろ城跡の方へと向かうことにいたします。