かつて墓まいらー的な動きを見せたこともありましたけれど、
その折に大きめの墓地では巨大な墓標を見かけることがありました。
軍人の墓であることが多く、軍隊での階級やら授けられた位階などが墓石に刻まれて
やたらに目立つようになっておりましたっけ。


翻って森鷗外は…と言いますと藪から棒のようですが、
今では作家として知られるものの陸軍軍医総監であって従二位勲一等ということですから
当然にしてどでかい墓石があってもおかしくないところながら、
太宰も眠る三鷹のお寺裏の墓地につましく「森林太郎」とだけ彫られた墓石がありますな。


これは本人が肩書とか位階とかとは関係なく、また夙に知られた森鷗外でもなく、
ただただ石見の人(鷗外は石見国津和野の出身ですものね)「森林太郎」として
墓に入りたいと望んだからですけれど、永井荷風はちと違います。


森鷗外(と上田敏)の口利きで慶応義塾の文学科教授という職を得た永井壮吉31歳。
鷗外を尊敬していて、墓につつましくていいというところは同じとしても、
墓標には「荷風散人墓」という五文字を記すのみでしてもらいたかったようです。


荷風の墓は、
不似合いなほどに大きな墓石になってしまっている漱石 の墓もある雑司ヶ谷霊園にあって、
確か他から隠れるように低い生垣をまわした中にあったような気がします。
本人の思いとは違うかもしれませんけれど、「永井荷風墓」の五文字が刻まれて。


とまれ、鷗外が「森林太郎」にこだわったのはそれが素の自分であるからかもですが、
一方で荷風が「荷風散人」にこだわったのは本名・永井壮吉は素の自分であるよりも、
お仕着せを着せられている姿にも思えていたからでしょうかね。

本当のところは永井という姓も無い「荷風散人」を望んだのはそういうことなのではと。


と、やおらお墓の話から入りましたけれど、
劇団民藝公演「新・正午浅草~荷風小伝」という芝居を見て来たからでして、
晩年の荷風を取り上げて回想なども交えつつ、亡くなるまでの姿を描いたものでありました。


劇団民藝公演「新・正午浅草 荷風小伝」@紀伊國屋サザンシアター

明治という時代にあって、薩摩でも長州でもないながら高級官僚の立場を得た永井の家では
当然にして跡継ぎたるべき惣領の壮吉にかかる期待は大きかったわけですが、
この壮吉、落語家に弟子入りしてみたり(三遊亭夢之介という高座名だったとか)、
歌舞伎役者まがいをやってみたり、小説を書こうしてみたりと、どうも浮ついてばかり。


呆れた父親が横浜正金銀行に頼み込んで、
壮吉はアメリカの支店、やがてフランスの支店へと送り出されることになりますが、
その結果として得られたものは「あめりか物語」であり「ふらんす物語」であったわけですね。


荷風にとって、こうした永井壮吉としての生活は本来の自分ではないと思え、
荷風として生きることにしてようやっと我が身と折り合いがつくようになったのではなかろうかと。


それだけに「荷風」の看板で生きる中では、実に言動が自由になるわけです。
有名な日記「断腸亭日乗」に綴られた時局に阿ることない記述は「生きている」感がありありです。


ですが、晩年の荷風は毎日日記に、その日の天気と「正午浅草」としか記さなくなってしまう。

そんなときに「先生はなぜ文化勲章など受けたのですか」と問われたりすることに。


かつて芸術院が出来るというとき、その会員に推挙された荷風は
いままで一番発禁を受けた(裏返せば、自由に書いてきた)作家が
国の主導できる団体に囲い込まれるとはと、これを嫌ったことがあったからですが、
晩年の荷風は「そうしたことも気骨を保つには力がいるのだよ」と淡々と。


見ようによっては変節とも取れるところから、上の問いかけが出てきたりするのでしょうけれど、
そのときそのときを自然体に生きている感じがとてもするのですよね。
もちろん、一本筋が通っているように生きるのも生き方で大したものですが、
そのときを自然に生きるというのも実に大した生き方だなあと思わされたものなのでありますよ。


先に「永井壮吉」としての生き方をお仕着せと表現しましたですが、
この「お仕着せ」という言い方は遠藤周作 がよく使いますですね。
遠藤の場合のお仕着せは後から自分に被せられたキリスト教というものが
なんともしっくり肌に合った感が得られないお仕着せといおうふうに。


荷風にとっての「永井壮吉」はもちろん生まれてこの方のもので、
遠藤のキリスト教のように後付けでは無いと思えるところながら、
荷風に言わせれば「永井壮吉」として期待されることは
生まれたときからすでにしてお仕着せと感じたのでありましょう、きっと。


結局のところ文化勲章が授与されるような、よくいえば客観評価として有名作家となった荷風、
麻布に大きな屋敷を持っていましたが戦災で焼け出され、点々とした挙句にたどり着いたのは
川向うで何にもないという千葉県市川の侘び住まい、荷風も歳をとったのですなあ。


日記に「正午浅草」と書いた浅草通いもやがてままならなくなり、
どこまで本気で望んだかは分からないながら、芝居の中では望みどおりに孤独死をする。


見る人によってはなんと憐れな末路であるかとも見えましょうが、
荷風にとっては最後の最後まで自由に生きた結果の大往生として
にんまりしているのではありませんかね。
ただ墓石に永井姓が刻まれてしまったことには眉をひそめつつ…。


おっと、芝居そのものの話にいささかも触れませんでしたけれど、
よく出来た脚本だなあと思いましたですねえ。特に前半は。
荷風という歴史上の人物の人生を追いかけて描くというだけでなく、
少しも押し付けがましくなく、今を生きる者に生き方を考えさせてしまう点は
秀逸だと思いましたですよ。