この日はサンクトペテルブルクからの移動日でもあり、

雀が丘の展望台ノヴォデヴィチ修道院 とを巡る合間には
パッケージツアーにありがちな土産物屋への立ち寄りがあったものですから、

モスクワでの一日目は早や夕刻。夕食場所へと案内される運びでありました。


と、ちょっとした広場が中央にあるロータリーをバスがぐるっと回り込んだ際に
こんなふうに高く聳える塔?が見えて「おやっ」と。



最上部をクローズアップしてみますと、人の形をしていることがなおのこと良く分かりますね。
どうやらここはガガーリン広場というらしい…ということは、
これは宇宙飛行士のユーリ・ガガーリンを讃えたオブジェということのようで。



夕食処はこの広場の近くらしくツアーバスを降りてみますと、
近くのビルの壁面にかようなプレートが取り付けられていましたですよ。



さすがに何が書かれているのかは分かりませんですが、
一番大きな文字が「ガガーリナ」と書かれていることは辛うじて分る。
いささかの学習成果ではありますな。


されど「ガガーリナ」では女性の名前になってしまうではないかと思ってしまうところでして、
後になってガガーリンの生没年がまさに1934-1968であることを知って、やっぱりなと。
(何故、語尾に「A」が付いているのかはロシア語ビギナーには分かりませんけれど)


1960年代に米ソが宇宙開発を競っていた頃、
どちらが先に人間を宇宙に飛ばすことができるかが焦点となっておりましたですね。
競争の初期段階ソ連の方が優勢でして、実際にボストーク1号に乗ったガガーリンは

早くも1961年に世界で初めて有人宇宙飛行(それまでは犬とかサルとかだったような)に成功、無事に帰還を果たしたのでありますなあ。


されど、このことがアメリカを大いに刺激したのでありましょう、

人間を月に行って帰ってこさせるというアポロ計画が発表されたのですから。


その対抗心が非常に強いものであったことは、

ガガーリンの宇宙飛行成功が1961年4月12日であったのに対して、

その年に大統領になりたてのケネディがアポロ計画支援の演説(即ち公表かと)をしたのが

1961年5月25日ですのでね。


さしずめアメリカはわざわざ難しい目標を掲げたのかもです。

ヒトが月に行って帰ってくるなど夢物語であって、

「今後10年以内に」とケネディはぶちあげたものの、結果できなかったとして

「やっぱりな…」としか思われないと踏んでいたかもしれませんし(個人の印象です)。


今でも「アポロは月に行っていない」とする話が時折出てきたりして、

真相は分かりませんけれど、ともかく宇宙開発的なるものは現在も続いているという。


そうした歴史の中で、ガガーリンの成し遂げた宇宙一番乗りはやはり目立つものでしょう。

何よりアメリカに先んじた優越感は相当なものだったでしょうからね。


ソビエトではガガーリンが大英雄となって、上に見るような記念塔まで建てられたり、

またモスクワの別の場所にはこんな記念碑もありましたですよ。

こちらは天辺がロケットです。



ソ連の得意絶頂ぶりが偲ばれるところですけれど、

英雄ガガーリンのその後は悲運なと申しましょうか…。


帰還後には一躍ヒーロー、「時の人」となったガガーリンですけれど、

やがて飲酒癖が取沙汰されるようになっていったとか。

ちやほや状況に自制を貫くのは難しいということでもありましょうか。


そして、1968年3月、宇宙を飛んでから7年ほど、わずか34歳で

自ら操縦する航空機の墜落事故で亡くなってしまうのですなあ。

事故原因に関しては、あれこれの噂、憶測が飛び交ったようでありますよ。


そんなガガーリンですが、今モスクワに巨大な像となって置かれているのを

どんなふうに受け止めているでしょうかね。

ただ、「地球は青かった」の言葉はこの後も世界中の人たちの記憶に

残っていくことでありましょう。