先日出かけた八ヶ岳高原で訪ねたところをもうひとつだけ。

かつて走っていた八ヶ岳高原リゾートバスであれば小淵沢駅から最寄り停留所で降りて

楽ちんアクセスが可能だったところながら、その路線が無くなってしまってますので、

ホテルから樹林に囲まれた道をゆるゆる歩くこと30分あまり。

本当ならカッコーの啼き声が聞こえて…と言いたいところながら

なぜか季節外れ感にあふれたウグイスの声を聞きながら、たどり着きましたですよ。



やって来たのは中村キース・へリング美術館、2度目、いや3度目になりますかね。

それほどにキース・へリングが好きで…ということではありませんで、

美術館の空間としていい感じとでもいいましょうか。



壁面いっぱいにいかにもキース・へリングという模様が配された暗い通路を進みますと、

その先には(本当はさらに撮影不可の展示室を抜けた先になりますが)

このように天井も高く広々した空間があるものですから。




また、(この時季は暑さがしんどいですが)屋上にもちょっとしたオブジェが置かれていて。

この時には白い雲、青い空もまたポップアートのようにはっきりした色でありましたなあ。



ところで、ポップアートと言いますけれど、

要するに地下鉄の落書き的なところから出発したキース・ヘリングを、

どこの国でも(それこそ日本でも)鉄道沿いや道路の高架下などで見かける落書き

どう違うのだろうか?ということを考えてしまいますなあ。


「KEIH HARING:HUMANISM 博愛の芸術」展@中村キース・へリング美術館

無名の落書き作家たちとおそらく大きな違いは無いのかもしれません。

が、決定的なのは注目されるようになったことでしょうかね。

注目されると、描くものにも生きていく場面場面でも「意味」を尋ねられるようになる。

それに対する答えがメッセージとして発信されるようになる。

すると、受け取る側では(場合によって)本人が思っている以上の意味づけを

見出したりもするのですよね。



こういうと、キース・へリングをいささか貶めているようにも見えましょうが、

そういう意図は全くない…どころか、折しも同時に展示のあった大山エンリコイサムの

個展を見てなおそのように思ったのでありますよ。


「VIRAL 大山エンリコイサム」展@中村キース・へリング美術館

こう言ってはなんですが、こちらの絵のモティーフなども

落書きでよく見かけるようなと、言えそうですよね。

ただ、このフライヤーにある紹介文を見ても、そこに籠められている(と解釈し得る)ところは

実に深遠なものであって、素朴に見る側に戸惑いを起こさせるようなものであろうかと。


世にたくさんの落書きがある中で、「見出される」というのはこうした作業?を経て

行われるものでもあろうかと思ったりしたわけでして。


もちろんキース・ヘリングや大山エンリコイサムの作品をあげつらうつもりは無く、

後者などは特に「viral」ならぬ「vital」さに感じ入ったりもしましたし。


とまれ、アートはとかく送り手(あるいはその媒介者)の側のメッセージを理解しようとして、

そのメッセージが分かる、分からないで受け手(観る側ですね)は判断しがちですけれど、

もそっと受け手としてのストレートな感覚を観る側は大事にしてもいいのかなと。

それこそ路傍の落書きにも「お!」と思うことはありましょうし。


そんな感覚でキース・ヘリングのポップさをこそ楽しむというのも

やはりありなのではないですかね。時には難しく考えることがあるとしても。