MIZKAN MUSEUM で酢造りの現場を再現した「大地の蔵 」の自由見学の後、
ガイドに導かれた先は、「時の蔵」という歴史をたどるコーナーでありました。


MIZKAN MUSEUM「時の蔵」

大きな壁の向こう側に入り込みますと、原寸大で復元された弁才船(べざいせん)が。
いやあ、大きなものではありませんか。


復元された弁才船

中野家は江戸へ酢を運ぶためにこうした弁才船を共同所有していたそうな。
廻船問屋に頼むまでもなく自前の船で運んでいたのですなあ。



さりながら、この大きいと見えた弁才船はむしろ小型なのだそうですね。
写真の船は三百十石積で、森の石松が金毘羅代参の帰りに乗った三十石船に比べれば
圧倒的に大きいわけですけれど、先に常滑の廻船問屋・瀧田家 で模型を見た船は八百石積。
さすがに海上輸送が本業の業者の船は大きかったのですなあ(模型では想像できませんでした)。


とまあ、かような弁才船で江戸へと運んだ製品は改めて申すまでもなく粕酢でありますね。
創業家の中野家は元々酒造りをして江戸へ卸していましたけれど、
どうも江戸では酒が供給過多になっており、その一方で握りずしブームが到来してとか。


酒造りのノウハウと酒粕という原料を活かして中野又左衛門は酒粕を原料とした酢の醸造に成功、
高価な米酢に頼っていた江戸の握り寿司市場に打って出ることにしたのですな。



これが大当たりしたものの、時代はやがて明治へ。
それまで使ってきたものとは異なる新たな商標・ミツカンをつくり出す必要が生じたことは
先にも触れましたですね。



一方で経営の多角化をも図ったようで、牛乳事業を始めたり銀行を創設したり。
この時期、地域ごとに殖産興業の役割を担うような私設の銀行が
国内各地に誕生しますけれど、だいたいは昭和恐慌を経て大手に統合されていったようす。
勝沼の田中銀行 同様に中埜銀行もまた…でしょうかね。



そんな中でやはり本業の酢造りを主にした事業は堅実に続けられ、
そこから総合食品メーカーへのステップアップを企図するのですなあ。
そんな中で「ミツカンぽん酢(味つけ)」なる商品の誕生が1964年、
調理の場に留まらず、ミツカンの商標が食卓そのものに登場してくることになるという。



その後も、なんでミツカン?と思われもする「おむすび山」や納豆商品をリリース、
まあ、知ってる品もそうでないものもありますけれどね。


と、この後には2つばかり映像を見せてくれる箇所がありまして、
それぞれに面白い趣向だと思うのですが、それはご覧になってのお楽しみということで。



で、たどりついた最後のコーナーはお酢ドリンクの試飲とさまざまな情報提供の場。
ちなみに毎日、大さじ1杯(15ml)の食酢を摂取しますと、
内臓脂肪が減り、高めの血圧が低下し、食後の血糖値上昇が緩やかになるそうな。


昔は酢を飲むと、骨が柔らかくなるからサーカスの人は酢を飲んでいる…てな話が
あったやに思い出されますが、はて(って、いつの時代の話だ、サーカスとは…)。