両親は足元不如意であるから…といいながらあちこち連れまわしてしまった感ありですが、
帰りがけのついで、最後に立ち寄ったのが国指定史跡「吉見百穴」なのでありました。


国指定史跡「吉見百穴」

ところでこの「吉見百穴」、読み方をご存知でありましょうか。
実のところ、個人的にはこれを「よしみひゃっけつ」と読むものとして何の疑いもなく、
「ひゃくあな」と聞こえてきたときには「ひゃっけつ」であると言ってきたのですが、
いざたどり着いてみますれば大きなひらがなで「よしみひゃくあな」と書かれてあったのですなあ。


腰を抜かすほど驚く、といった言い回しがありますけれど、
ここで「ひゃくあな」という文字を見かけたときには

正しくそのくらいに衝撃的な出来事ではありました。
ちなみにこうした読み方の違いに関して、Wikipediaにはこのように。

「ひゃくあな」「ひゃっけつ」という2種類の読み方があり、歴史辞典、考古学辞典等にも両様の読み方がある。地元では「ひゃくあな」と呼ばれることが多く、史跡管理者である吉見町のウェブサイトでも「吉見百穴(よしみひゃくあな)」と読みを付けている。…文化庁の「国指定文化財等データベース」では「吉見百穴(よしみひゃっけつ)」と読み仮名を付けている。一方で、天然記念物「吉見百穴ヒカリゴケ発生地」の読みは「よしみひゃくあな」としており、両者の読みが混在している。

ま、読み方にふた種類あるというように理解をしておくといたしましょう。
で、その吉見百穴、ご存知の方も多かろうと思いますが、このような遺跡なのですよね。



ご覧のように、岩山の山肌一面に同じような穴がたくさん穿たれている。
「古墳時代の後期~終末期(6世紀末~7世紀後半)に造られた横穴墓」、
つまりは斜面に広がる墓地ということになりますなあ。


かつては土蜘蛛人(コロボックルのことらしい)の住まいであり、墓にもなったものという
なんともファンタジックな説があったようですけれど、今では

古墳時代の遺跡として定着しているようす。



この図は穴の中のようすを表した平面図(上)と断面図(下)ですけれど、
広くとられた玄室には棺を置く場所(棺座)が複数設けられているものもあって、
埋葬はひとりひと穴では無かったようですな。夫婦とか家族とかを同じ穴に葬ったのでしょうか。


もともと「吉見百穴」は凝灰質砂岩という「掘削に適した岩盤」であったことから
古代の人たちは墓穴に最適と考えたのかもしれませんけれど、同じ理由からでもありましょうか、
太平洋戦争末期になると敵から見えないところに軍需工場を作る必要性から、大きな穴が掘られることに。
中島飛行機の大宮工場の移転先とされたようでありますよ。



本来の墓穴は人がかがみ込んで覗けるくらいの大きさですから、
ここに人が立ったまま出入りでき、奥深くに大きな空間を生み出すとなれば、

史跡に影響があるのは必定。それでも壊されたのは十数基であったとは、

不幸中の幸いというべきかも。


とまあ、古代の遺跡であると同時に戦争遺産だったりもする「吉見百穴」ですが、
もうひとつ有名なのがヒカリゴケが生育しているということでありますね。
これはこれで国指定の天然記念物ということになっています。


国指定天然記念物「ヒカリゴケ」

覗き穴が小さいの「あれだろうなあ」と思うしかないわけながら、
「わずかな光を反射して黄緑色に淡く輝いているように見えます」と解説されますと、
「まあ、間違いなかろう」と思うところです。


てなことで、改めて思い返すと「埼玉の底力」といったものを思わずにおれないような。
とかく東京といっしょくたにされて、個性なきものとみられがちであるにもかかわらず、
しかしてその実体は…なかなか見どころあるねという印象を持って帰途についたのでありました。