さてと、大阪歴史博物館で古代の難波宮を探究したのちには、やはり古い古い時代を偲ぶ場所へ。

難波宮からは上町台地上の南に位置して関わりも深い、四天王寺なのでありますよ。

そも大阪を訪ねようと考えた理由のひとつが、「金剛の塔」を読んだことによる

四天王寺五重塔への関心でもありましたし、いよいよということに。

 

大阪メトロの谷町線でもって四天王寺前夕陽ヶ丘駅を降りますと、

表通りのひとつ裏に参道が通っておりましたので、行き交う人もそこそこ多い。

これをたどってたどり着くのがこの石の鳥居の立つ門でありますな。

 

 

四天王寺の創建は推古天皇元年(593年)、日本最古の官寺として建てられたということで、

鳥居の脇に立つ石柱にも「大日本仏法最初四天王寺」とあるのでありまして。

 

しかしながら、「お寺で鳥居?」と思ったりもするところですけれど、

神仏習合のことを考えたりすると知ったふうな気にもなって「あるよねえ」とも。

 

そうはいっても、このお寺、創建が飛鳥時代で日本最古の官寺というくらいですから、

有り体に言ってまだまだ日本で仏教の受容が定まっていない頃なわけで、

神仏習合の考え方もまだまだ定まっておらなかったのではなかろうかと。

 

となれば、仏教が伝わる以前から信じられてきた日本の神祇との並立する(あるいは対峙する)中で

造られた鳥居というふうに理解したらいいのでありましょうか。

 

現存するこの鳥居自体は永仁二年(1294年)といいますから、鎌倉時代に造られたものですから、

創建からは700年も後のものなのですけれど(それでも国内で二番目くらいに古いものとか)、

鎌倉時代に初めて鳥居が造られたと考えるよりは創建当初からあった伝承のもとに

何らかの理由があって建て替えたと考える方が自然なのではなかろうかと。

 

文化の先進地域であった大陸、半島から伝えられた仏教を受け入れて寺を建てるのはいいとして、

日本の神祇への配慮も忘れてはいけんよ…てな周辺事情があったのかもと思うところです。

 

しかしまあ、今の鳥居になったのは鎌倉時代であって、神仏習合の考え方もかなり浸透していたせいか、

「鳥居といえば神社のもの」と思うなかれでありましょうか、四天王寺石鳥居に掲げられた扁額には

「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」という文字が並んでいる…となれば、

経緯の想像はともかく、建て替え時には素直に「お寺の鳥居」という意識になっていたのでしょうかね。

 

一方で、扁額の文字は弘法大師、小野道風の筆にもとづく…てなふうにも言われるとか、

「つのくにの難波の浦の大寺の額の銘こそまことなりけり」という歌を

慈鎮(「愚管抄」を書いた慈円のことだそうで)が詠んだといったこととかを解説板で見ますと、

かの扁額は鎌倉時代に石鳥居に建て替えられる前からあったのだということになってきますので、

さてどう考えよう…と思ったりするところですなあ。

 

ちなみに先の慈鎮の歌の始まりを「このくにの…」としている記載も見受けられましたけれど、

「つのくにの…」が「難波」にかかる枕詞であるようですので、四天王寺解説板の方を引用しました。

で、この歌を見たときに「つのくに」って何だ?と思ったわけですが、

ああ「津の国」、摂津の国かと思い至ることで、古典にも疎い者がまたひとつ学習することに(笑)。

 

それにしても四天王寺までやってきて、鳥居の話だけで長くなってしまいましたですが、

いよいよ境内へと足を踏み入れてまいります。