例によりまして遅まきながらのTVのお話。
ちょいと前にNHKでやおら単発で放送された「常識の仮面はがします 秘密潜入員エース」、
たった30分のドラマでしたけれど、要するに「常識は疑ってかかりなさい」という今更ながらの教訓でしたなあ。
冒頭の映像では、新型コロナウイルスに関してのデマに惑わされないように…てなことが、
ちらりとにもせよ、出てきましたので、そういう意味でのタイムリー企画であるかとも思いましたけれど、
もっと普遍的に考えてもよさそうだなとは思ったものでありますよ。
話の中では疑うべき「常識」として、
「さつまいもを食すると太る」、「しょうがは体を温める」、「酒を飲む前に牛乳を飲んで胃に膜を作っておけば酔わない」、
「二日酔いはサウナでアルコールを抜く」といったことが挙げられておりました。
いずれの常識発言に対しても、菜々緒演じる秘密潜入員エースとやらがその誤った常識を
一刀両断で切り捨てるわけですが、常識に囚われている側からすれば、
どこの誰とも知れない者から藪から棒に「その常識は間違っています」と言われたところで俄かには信じられない。
そこで登場するのがその道の権威と思しき大学教授らでして、
専門分野の知識を盾に「常識の誤り」を納得させてしまうのですが、
そこはそれ、ヒトはみな「その道の権威」といったものに弱いのだなあと思わざるを得ない。
この印象はおそらくはこのドラマの意図したところではないにせよです。
というところで、「常識」なる言葉をあらためて「コトバンク」の中から「精選版 日本国語大辞典」にあたってみますと、
「一般人の持つ考え。普通の見解。」という語釈が見つかりました。
広く普通に「そりゃ、そうだ」と思われているけれど、それが正しいかどうかには言及されていないですよね。
ところが、広く信じられていることだからと無批判に「そのとおりなのだ」と思い込んでしまうことのなんと多いことか。
デマがデマたり得るのも、相手にする人がいなければ広がりも浸透もしないわけで、
デマと呼ばれるまでもなく消えていってしまうはず。
それがデマたり得てしまうのは、広く信じられていると受け手が思い込んでしまうことにあるのでしょう。
考えてみれば、かつて何らかの考えが常識化するには結構な時間がかかったわけでして、
その時間を経る中でおそらくは「ことのよしあし」を考える人も関わり、
いわゆるデマが常識化することを抑制していた面があったものと想像しますけれど、
あいにくと今のご時勢、きわめて即時的な情報伝達、情報拡散が容易に起こりますから、
立ち止まって「ことのよしあし」を考える余地もなかったりしますですね。
非常に不謹慎な例えと知りつつ、分かりやすい例を挙げれば、
もしもTwitterかなにかで「かの有名な〇〇さんが感染したそうな」てなことを冗談にもせよこぼしたとすると、
事実無根であることであっても、あっという間に広まっていくことでしょう。
その広まり方は新型ウイルスの比でないほどに。
そんなことを考えますと、新型ウイルスというのは正しく現実であるとしても、
ヒトに対する教訓だったりするのではなかろうかとも思えてきたりするわけです。
伝染病の蔓延というのは歴史の中で何度も繰り返されてきていて、
それをヒトは克服してきたとはいえましょうけれど、むしろ今の状況というのは
ヒトが伝染病蔓延を克服して作ってきた社会のありようの中でこそ広がりを見せているような気がしないでもない。
そんなときにヒトがどうするかと言えば、これまでの歴史の流れの中で「よかれ、よかれ」と考えて進んできた方向を
果たしてそのままに信じて進んで行っていいのだろうかということでもあろうかと。
これまでの歴史の流れを肯定的に捉える、これはある意味で「常識」と言うこともできるような気がしますが、
そのこと自体に疑いを持ってみることも必要なのではないですかねえ。
たった30分枠のドラマを見終えたとき、そんなことに思いを巡らしたりしたのでありました。