東京湾フェリーの久里浜港から目と鼻の先にあるこの砂浜。

なんの変哲もないたたずまいではありますが、今からおよそ170年前ここから大きく歴史は動いた…といいますか、

砂浜の背後には道路隔てて、さほど大きくない公園がありまして、その名もペリー公園と。

 

 

予想はしておりましたが、公園中央に置かれた記念碑がここまで大きいとは思いませなんだ。

「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」と古めかしい文字で書かれておるなと思えば、

筆跡は伊藤博文の書いたものだそうで。

 

 

裏側に回ってみますと、近くの建物との関係からか、

こちらからの方がさらに巨大に見えるような気もしますですね。

 

 

裏側の碑文には「嘉永六年六月九日上陸」とあって、英文の方では1853年7月14日とある。

旧暦と新暦の違いということでしょうけれど、ともかくペリーほかがここに初めて上陸したと。

最初に見た砂浜を踏みしめて、大きな体躯をゆすりつつ、のっしのっしとやってきたのではないでしょうか。

(あくまで個人的イメージです)

 

 

公園内の片隅には入場無料のペリー記念館がありましたので、ちらり覗いてみることに。

なるほど無料施設なりの展示解説ということにはなりますけれど、それでも知ることはあるわけでして。

 

まずもって、ペリー艦隊は1852年11月、アメリカのノーフォークを出航するのですが、

ノーフォークはバージニア州の都市であって、つまりはアメリカ東海岸なのですよね。大西洋に面しています。

ペリーはアメリカから日本へと太平洋を渡ってきたものと、つい思ってしまいがちですけれど

そうではなかったのだと、以前読んだ佐藤賢一「ペリー」で知ったことを思い出したりも。

 

つまりは大西洋、インド洋を経て、香港、沖縄に立ち寄りつつ、浦賀沖に到達。

これがそのときの様子を再現したジオラマですけれど、いやあ「黒船来航」、驚いたでしょうなあ。

 

 

ですが、先ごろNHK「歴史探偵」で「黒船来航」を取り上げた際、

幕府は単にびびっただけではなくして、次の来航に備えて品川台場(いわゆるお台場)を急遽造営し、

迎え撃つ構えを見せていたことが紹介されておりましたね。

 

しかも、本当に戦闘が起こったとしたら、どういう展開になったかをAIに解析させて、

もしかしたらペリー艦隊を退散させることができたのではと、推測したもしていたのは斬新な見解。

一般的な見解では(いわば常識的には?)「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も寝られず」てな狂歌が知られるあまり、

幕府の弱腰外交かくやのイメージがあるも、実際はそうではなかったということのようで。

 

 

そうはいっても、沖合間近にペリー艦隊を目の当たりにした者たちは、そりゃ驚いたでしょうなあ。

左のペリー提督と相対したのが右側、浦賀奉行であった戸田伊豆守氏栄ですけれど、

ついつい?ペリーが持参したフィルモア大統領の親書を受け取ってしまったりするのですから。

 

 

だいたい(黒船艦隊はもとよりなるも)こんな感じで銃を携えた一群が整然と更新してくる姿にも

肝を冷やしたのではなかろうかと。ちなみにペリーは右手側にひときわ大きく描かれた人物でしょうか。

やはり(想像にとどまらず)「のっしのっし感」はあったかもしれません。

 

と、ここから時代は大きく転換し、明治になりますと久里浜からさほど遠からぬ横須賀において、

新しい技術が取り入れられ、日本の重工業の夜明けとなっていくわけですが、そのあたりはまたのお話ということで。