折しもふいと「リヴァプール・オラトリオ」を聴いて、ミュージカルのような…という感想を漏らしましたですが、
別にエクスキューズするまでもないことながら、ミュージカルを決して貶めているわけではないのでありまして。
まあ、オペラのひとつの変化形態がミュージカルでもあって、
オラトリオの方はいわばコンサート形式のオペラとも言えるのですから、
これの変化形態としてミュージカルのような印象を与えるオラトリオがあっても不思議はない…と、
なんだかやっぱりエクスキューズですなあ(笑)。
それはともかくポール・マッカートニー自身は、幼少の砌、リヴァプール大聖堂の聖歌隊に応募して、
楽譜が読めなかったから落ちた…てな話がかのCDのブックレットに載っていたですが、
もしもそこでポールが聖歌隊に採用されていたとしたら、楽譜が読めないというあたりをすっかり克服し、
いわゆるクラシックの語法にも通じた音楽家になっていたかもしれませんですね。
ですがこれはいいとこ取りの考えであって、ビートルズ、そしてその後のポールの楽曲があることを前提に、
さらに古典的な音楽にも通じていたとしたなら、いったいどんな音楽が出現したろうかと思ったりするわけですが、
もしも聖歌隊を通じて音楽の方向性が一定方向、定まったとすれば、今聴けるポールの楽曲は
無かったのではないか…とも言えるわけでして。
と、かように無用な話をしていても仕方がないですから、ビートルズの話のついでに
映画「ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK - The Touring Years」を見たというお話の方へ移ってまいることに。
タイトルに「The Touring Years」とありますように、売れ始めのビートルズはあっちへこっちへと
公演に引っ張りまわされている感じ、そのようすがドキュメンタリー・フィルムでたっぷり見られます。
上のフライヤーの写真は、天井から下がる日の丸で分かるように日本公演で武道館のステージに上がるところですね。
高度経済成長期にあった日本は、ツアー先として金になるところになっていたのでしょうか、
1966年には日本にまでやってくるわけでして。
個人的には解散直後に追っかけで聴き始める年代に差し掛かりましたですが、
それでも既視感ならぬ既聴感とでもいいますか、幼い頃にどこかしらで(小学生時代までに4回引っ越ししているもので)
おそらくはラジオから流れていたのを聴いたのであろう「エリナー・リグビー」はうすぼんやりと
全く思い出せないながらかつて住んでいたであろう狭いアパートを、今でも思い出させるのでありますよ。
と、個人的なことはともかくとも、ビートルズ最初の映画の邦題の故に
「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」とも呼びならわされている「ア・ハード・デイズ・ナイト」(1964年)のタイトルどおりに
ビートルズの忙しさというか、せわしなさは相当なものであったのでしょうねえ。
本作映画のタイトルに使われている「エイト・デイズ・ア・ウィーク」も忙しさの表現でしょう。
「一週間に8日も仕事かよ…」とこぼしたリンゴのひと言から着想された曲であると。
「ア・ハード・デイズ・ナイト」もリンゴのぼやきだろうですから、なんともいいチームプレイではありませんか。
とまれ、かように忙しい日々であったわけですが、それでも演奏する側もそれを聴く側も
音楽体験を共有できるような形でステージが実現していたなら、また話も違ってくるかもながら、
すさまじいばかりに集客力であるため、とにかくたくさんの観客を収容できる会場があてがわれるようになるのですね。
今ならば武道館はもとより東京ドームなどでのバンド公演は当たり前のように行われるわけですが、
1960年代には出来事自体が未曽有のことであって、PAその他の設備面に乏しく、
音楽を演奏し、それを聴いてもらうという環境には全くなかったのですなあ。
そうしたこともまたビートルズがスタジオに籠る方向へ向かわせたのでありましょう。
もっとも、そうであればこそその後のビートルズがそれまでの、ノリで勝負するタイプの曲から脱して
もはや実験音楽のような新しいサウンドを次々に生み出していくことになったのですから、
振り返りみればベースボール・スタジアムでのコンサートを次々仕掛けて、
ビートルズの面々に「ツアーうんざり」感を受け付けた人々に感謝しなくてはいけないかもしれません。
歴史の展開はなんとも素直でないといいましょうかね。
こんな点からもまた、そんなふうに思えたものでありますよ。