相変わらず近所の美術館をふらふらしておりますが、どうしたって都心には出にくい。
東京都民でさえそんなふうに思うのですから、他の道府県の人は東京からは来てほしくないだろうなあと
思うわけですが、多摩はこの際やっぱり東京とは別ものとして見てもらった方がありがたいかも…。
とまあ、その手の話はまた別の機会に譲るといたしまして、このほど訪ねたのは小平市にある平櫛田中彫刻美術館。
何度か出かけたことのある美術館ですけれど、「花鳥風月-平櫛田中コレクション-」なんつう企画展もやってますし。
フライヤーには5月19日までとあるものの、途中休館していた関係で8月2日まで延長されたということです。
とはいえさほど大きな美術館でなし、企画展の規模も小さなものでしたけれど、
大内青圃のほっこりとして少女像のような「花の観音」が見られたので、これはこれで良しとしましょうか。
大内青圃は高村光雲に師事したといいますから、平櫛田中とは同門ということになるところながら、
光雲、田中にある厳しさというところから離れた青圃の仏さまは癒し系であるなあと思ったものでありますよ。
とまれ、企画展がそういうことであったとなりますれば、あとは当然のごとく平櫛田中の彫刻作品を見て回ることに。
ですが、これまでの訪問で気が付かなかったのか、スルーしてしまっていたのか、
今回はラングドン・ウォーナー像に目が留まったのでありまして。
平櫛田中に大いなる影響を与えた岡倉天心がボストン美術館で東洋部長を務めていたのは
よく知られた話ですけれど、そのときに副部長であったといのがラングドン・ウォーナーなのですな。
時代的には山中商会が扱った美術品の購入などにも関わっていたかもしれませんですね。
のちにはフィラデルフィア美術館の館長にもなったということですので、
アメリカの美術界ではかなり知られた人物であろうと思うところですが、
一説にこのウォーナーの働きかけがあって、太平洋戦争下、京都や奈良が空襲にさらされなかったとも。
おかげで日本の美術品が焼失をまぬかれたというこわけでして。
平櫛田中もウォーナーに会ったことはあるようですけれど、
まあ、天心との関わりありということで胸像の製作を請け負ったのかもしれません。
逆にいえば、それだけ岡倉天心の影響が大きかったとも言えるわけですね。
で、その天心との間で興味深いエピソードとして知られるのが、
平櫛作品でも有名なもののひとつ、「活人箭」にまつわるお話でありましょう。
個人的に平櫛作品といえば、国立劇場にある「鏡獅子」か、はたまた「活人箭」かと思ったりするのでして、
てっきりここの美術館で見たものとばかり思いこんでいましたけれど、
故郷・岡山の井原市立田中美術館ほかに所蔵されているということで。
先日引き合いに出しましたハンブルクのバルラッハハウスで見た、
彫刻家エルンスト・バルラッハの「復讐者」の勢いを感じさせるというか、気に溢れたといいますか、
そんな「活人箭」の最終形は今まさに矢を射ようとしている姿に弓矢の実体は付いていないのですけれど、
これが岡倉天心の示唆であったということなのでありますよ。
と、足休めに館内備え付けの所蔵品図録を読んでおりますと、
やはり天心に師事した下村観山にまつわるエピソードが紹介されていたのですな。
観山が弁天様を屏風に描いているときに、それを見た天心は「琵琶の音が聞こえない」と言ったのだとか。
それを受けて観山、熟慮の結果として弁天様が腰かけている岩の脇に一輪の花を描き加えたところ、
天心、大いに頷いたということで。これに関して、図録解説にはこのようにありましたですよ。
いわば音という、目に見えないものを別の表現に置き換えることで、音の存在を暗示したことが天心に評価されたのであった。
見えないものをイメージさせる、このことは見えていないことでむしろイメージ喚起力を増幅させる狙いで作り直された
「活人箭」と同じ種類の話なのでありましょう。
そもヒトには感じ取る力があるわけで、それを働かせてこそヒトの感性、
何もかも現前させてしまうのは野暮というものなのでありましょう。
同じ図録解説には弓矢まで作りこんだ「活人箭」プロトタイプも図版が掲載されていましたが、
確かに普通の彫刻っぽい。弓矢が見えないとなると、それだけでもアイキャッチになりますものね。
このあたり、考えてみればミロのヴィーナスには両腕が無いからこそ「ミロのヴィーナス」なのだと思ったり。
ま、こちらは意図せざる結果でもあろうかとは思いますが…。