…ということで静嘉堂文庫美術館を初めて訪ねたのですけれど、お次に立ち寄ったのは五島美術館、
その名で知れるとおりに東急グループを興した五島慶太が所蔵した美術品などを展示する施設でありますね。
こちらにも初めて出かけたのでありました。
展示は「祈りの造形-古写経・墨跡・古版本-」という所蔵名品展(8/2で会期は終了)、
いやあ、驚くほど古い筆跡がかくも良好な保存状態で残っているものかと言う点にまず、
驚きを禁じ得ないところだったのでありますよ。
数々並ぶ古写経には、奈良時代のもの、平安時代のもの、鎌倉時代のもの…と続き、
「ほお~古いのお、よく残ったいたものだ」と思ったわけですけれど、
なかには「伝聖武天皇筆」なんつうものまで現れるに及んで「ええ?!」と。
全国に国分寺、国分尼寺を造らせ、東大寺には大仏を造らせたという仏教信仰に厚かった聖武天皇、
歴史の中の人物としては(もはや神話時代ではないので)確かに存在したのでしょうけれど、
認識としてはあくまでぼんやり歴史の中でありますね。
ところが、やおらその人が書いた(と伝わる)ものを見せられますと、実在感がぐぐっと出てくるといいましょうか。
なんとも妙な気分になったものなのでありますよ。聖武天皇以外にも、藤原道長とか平忠盛とか小野道風とか、
今さらながら皆存在していたのですなあ…という気がしたのでありますよ。
しかしながら、同じ展示の中でお坊さんが残した文字(墨跡)を見ても、同じような盛り上がりが無いのは
どうしたことだったのでありましょうか、我がことながら、これまたなんとも不思議な気がしておりまして。
無学祖元や夢窓疎石が筆をふるったものを見れば、
同じように「ああ、この人たちも本当にいたんだ」と思っていいはずなのですが、そうでもない。
お坊さんは文字を書くことがあってもおかしなことではないからでしょうかね…。
と、そんなことを思ったところでもそっとよおく考えてみると、その筆跡がその書き手の実在を意識させるという点では
絵画作品を通じても同じような感覚があってもよかろうにと思ったり。
ルネサンスくらいまでの絵の表面に凹凸のまるでない作品では意識できないかもしれませんけれど、
例えば分かりやすい例でいえば、ゴッホあたりではその筆跡だけでも立体感があったりするところですので、
そうしたことからゴッホその人の存在感が得られてもいいような気がします。
筆跡の立体感だけで言ったらば、ジョルジュ・ルオーなんかはもうびんびんその存在が感じられもするような。
ところが、絵画作品を通じてこれまでに同様の感覚を得たことはなかったわけなのですね。
しかし、これも気付いてしまえばもうそれを気付かなかったときの自分には戻れないことになりますから、
いざ絵画作品と向き合ったときに感じることはこれまでとは違うかもしれません。
とはいえ、逆に今回のことが取り分け特異なことであったのかということから考えてみますと、
「実在したのであったか」と思った人物たちが一様に古い、遠い時代の人たちだということはありましょうかね。
では、いつまでが遠くて、どこからが近いのか、これもはっきり言えないことではありますけれど。
とまあ、かように奇妙な?感覚をもって古写経や墨跡を眺めたわけですけれど、
それ以外の展示では漆工芸の作品が豊富でしたなあ。
蒔絵をほどこした作品など、美術と工芸が不可分である日本の芸術らしいところを思いますですね。
静嘉堂文庫同様に五島美術館もハケの上に立っているようで、正門は崖上、斜面の庭を下った裏門は崖下という印象。
折しも雨が小降りになったので、こちらの庭はかるく周ってみたですが、土の斜面と石段は滑りやすく…。
やはり梅雨時に訪ねるのは良策ではありませんでしたですねえ、展示は感慨深かったですが。