さて、世田谷区の美術館を巡ってきましたですが、最後に訪ねたのは実は美術館ではなく文学館。

世田谷文学館ではコレクション展として「ムットーニのからくり文学館―綴じられた時間の物語―」が

開催されているのでありました。

 

 

ムットーニのオート・マタはコレクション展というその名のとおりに世田谷文学館に所蔵されているわけですが、

以前に見に来たときにはあまり深く考えることがなかったものの、改めて思うのは「なぜ文学館に?」ということ。

 

ムットーニがオート・マタに乗せて見せてくれるのは、時にノスタルジック、時にファンタジック、

時にミステリアスな独特の世界であるわけですけれど、文学館が所蔵する作品ということでここにありますのは

どれも文学作品由来のものであったのですなあ。遅まきながら気づくところでありました。

 

今回の文学館所蔵品9点と個人所蔵の1点、計10点の展示でいえば、

それぞれ萩原朔太郎、夏目漱石、芥川龍之介、中原中也、中島敦、村上春樹、

はたまた「日本SFの始祖の一人と呼ばれる」(wikipedia)海野十三といった人たちの詩や小説に触発されたもの。

直接的に詩文の朗読とともにオート・マタの動きがあるという作りも多く、

なるほどそういうことなら文学館で、と思ったようなわけなのでして。

 

ムットーニの作品展は八王子市夢美術館でも繰り返し開催されますけれど、

そこで見られるものは文学由来に関わらない作品(根っこのところでのインスピレーションはあるかもですが)も多く、

常に文学と結びついているわけではないとなれば、文学館ならではの選択でコレクションしているのでありましょうね。

 

とまれそんなムットーニのオート・マタを見ながら、つらつらと考えるところはといいますれば、

「文学」もまた「時間芸術」なのであるなあ…ということでありましょうか。

あらためて「時間芸術」をコトバンクから拾ってみると、このように(出典:精選版 日本国語大辞典)。

芸術分野のうち、その形式や作品が、純粋に時間的に運動・推移し、発展することによって秩序づけられ、人間の感覚にうったえるものの総称。音楽、文芸など。⇔空間芸術。

分かりやすいのは音楽でして、時間の推移とともに音の流れのようなものが無ければ

そもそも音楽とは認知しにくいわけですし。

ですが、これを考えるとに「再現性」の有無が取りざたされることが多いのでして、

音は時の流れとともに減衰し、消えて無くなってしまい再現することができない、だから…と言ったように。

 

ここで「音楽」が時間芸術に挙げられる一方、「文芸」もまたとなりますとどう考えたらよいのでしょう。

「文芸」を書物と考えれば、いつでもそこにあって再現性が無いなどということは無い…とも言えるわけですが、

そこに書物があるということを以て「芸術」であるというふうには捉えにくいのも事実であろうかと。

 

つまり、そこにある書物を鑑賞者が自ら読む、あるいは誰かの朗読を聞くということによって

その芸術性を受け止めることができる。こう考えると、「文芸」で言う書物は

「音楽」における「楽譜」のようなものと考えたらよいのかもしれませんですね。

 

ですので、書物という不変のものがあっても、読書・朗読という行為は

毎回読み手も受け手も全く同じ行為を繰り返しているわけではありませんので再現性が無いのだと、

そういうことになりましょうか。

 

だとすると、上に引いた語釈にも「時間芸術」に対置するものとして「空間芸術」が挙げられておりますけれど、

それの最たる絵画や彫刻といったものはどうかと言えば、そこに置かれた書物よりは直接的に視覚に訴えますが、

鑑賞者の側からすれば、その作品を目の当たりにするにあたって時間は必ず流れていき、

その流れていく時間の中で何かしらの感慨、思いと言ったものが生じることにはなりましょう。

そして、その場、そのときの感慨や思いにはやはり再現性は無いように思うのですよね。

 

ま、だからといって、ここで「空間芸術」もまた「時間芸術」なのだというような大論を繰り広げるつもりは無く、

ただただ朗読に乗せてムットーニのオート・マタが見せる世界に浸りつつ、そのようなことを考えたと、

そんなことであって、そんな思い巡らしもまた再現性は無いのだなと思ったりしたのでありました。