ということで、石の切り出された痕跡も生々しい大谷公園の通路を抜け、
坂東三十三観音霊場の19番札所という大谷観音、天開山大谷寺にたどり着いたのでありました。
しかしまあ、先に通り抜けてきた道の両側に切り立つ岩壁を思えば、
天開山との山号は「よくも付けたり!」という気にもなろうかというところです。
もっとも、人の背丈を遥かに超える高さまで石を切り出したのはおそらく後々にことと思うものの、
Wikipediaには「6-7世紀:切石積横穴式石室を持つ古墳に加工が容易な大谷石等が多く用いられる」との紹介もあり、
古くから石材として重宝されていたことが偲べますなあ。
そうした石へのありがたみを感じているところで、かように石が迫り出した場所には自然への畏怖もあって、
お堂が作られることになったのではなかろうかと。ちなみに伝えられるところによりますれば、
「弘仁元年(810年)に弘法大師によって開基された」ということで、弘法大師という人は
あちこちでパワースポット的なる場所やら温泉やらを発見する目利きだったのでありましょう。
とまれ、かようにありがたみを感じる場所だけに、石に対する御礼の意味も込めてでしょうか、
古えびとは摩崖仏を彫ったのですなあ。ご本尊の千手観音像は弘法大師が造ったとされているそうな。
開基の年、810の作と伝わるだけに「日本最古の石仏」と大谷寺HPには紹介されておりますが、
それがちょうど、この正面のお堂に隠されているというか、まあ、守られているのでありますよ。
しかしまあ、よりによって?岩から彫り出すのに千手観音という手がたくさんある姿を選ぶとは
作者とされる弘法大師は職人魂に溢れていたのでしょうかね。
長い年月の末、腕がもげてしまったりということをどれほど予期したでありましょうか…。
ところで、千手観音のおわすお堂の左手にそのまま直角につながる、ちと新しい棟の方にも摩崖仏があるのですな。
彫られておりますのは釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、薬師三尊像の9体、平安から鎌倉期にかけてのものであるとか。
と、このお堂の左手の方に回り込みますと池がありまして、
水面に姿を映し出している白ヘビを従えた弁天堂がありましたですよ。
このヘビにまつわる逸話を記した解説板を見ますと、
この地に弘法大師、ひいては大谷観音がありがたがられる理由が分かるのですな。
なんでも、この池にはもともと毒蛇が住んでおり、(噛みつくというだけでなく)「毒をまき人々を困らせていた」と。
この話を聞いた弘法大師が「秘法をもって退治した」ところ、毒蛇は改心して白ヘビとなり、
弁天様に仕えることになったのだとか。頭をなでるとご利益(弁天だけに金運でしょうか)があるそうな。
そうそう、大谷寺には宝物館がありましたのでこちらも覗いてみることに。
仏像など、当然にしてお寺らしい「宝物」もあるわけですが、実はここで注目すべきは
先に見た「日本最古の石仏」よりも遥かに時代をさかのぼる展示物があることではなかろうかと。
「縄文最古の人骨」、およそ一万一千年も前のものだということなのですね。
摩崖仏の防災工事にあたってお堂の下を掘ったところ、かの人骨が出土したという。
人骨ばかりでなく土器など生活の痕跡を思わせる数々の出土品もあったわけですので、
あたりには集落もあったことでしょう。
大谷観音開基に先立ち、古墳造りのために石が切り出されたという歴史よりも遥か昔、
この岩に囲まれた土地に縄文人が暮らしていた。狩猟採集を生業とした縄文の人たちにとっては、
後の人びとがパワースポット的に宗教的な神秘を感じる以前に、生活するに豊かな場所でもあったのでしょうか。
もちろん、自然の神秘を感ずるところは縄文の世も今の世も変わらないことなのかもしれませんけれど。