ということで、多摩美術大学美術館ではすどう美術館展を開催中であったわけですが、
創立者である須藤さんに天啓を与えたという、菅創吉の作品「壺中」を振り返っておくといたしましょう。
たまたま立ち寄ったという池田20世紀美術館で、この作品に遭遇した須藤さん、
こんなふうに印象を振り返っておりますよ。まず第一印象から。
「絵は抽象に近く、具象ばかりを見ていた目にはあまりにも異質で一瞬とまどいを感じた」
絵と言えば見て分かるものが描かれていると思っているところへ、
そうでないものと遭遇したときにとまどったとは、正直なところでありましょうけれど…。
「みているうちに一見渋くて地味な色調でありながら、決して暗くなく、温かみやユーモアもあり、作家の人間味がにじみ出ていて深い味わいを覚えた」
そもとまどいがあったにせよ、そこには足を止めさせるものがあったのですよね。
とまどいが味わいに変わったところで、反応に加速度がついたか、
「どんどん絵の世界にひきこまれ、その場で購入を申し出」ることになるとは、
それだけこの作品は鑑賞者に対して大きな作用を引き起こしたということになりましょう。
というところで菅創吉という作家ですけれど、実は全く知りませんでした。
Eテレ「日曜美術館」などを見ておりますと、現在進行形かもしくは近年まで活躍されていたアーティストが紹介されて、
単に(これまでの経験が生み出した)興味を追うばかりでは知ることのできない世界に誘ってもらえるわけですが、
菅のそんなひとりであったと言えましょうか。1996年の「日曜美術館」で取り上げられるまであまり知られておらず、
番組後には大きな反響があったそうですから。
とまれ、「壺中」を機に集め始めたという菅作品のコレクションが展示されている一室へ。
この手の作品は取り分け静謐さが似合いますね。
上から順に「群像」、「大漁」、「無題」というタイトル表示。
これを見て、「群像」であればなんとなく南米の太陽神信仰の場に集まった人びとを思い、
「大漁」の方は日本の漁師たちというよりも南太平洋の、原初的な漁法を営む人々が思い浮かぶような。
自室にいてふいと顔をあげたときに壁に掛かった絵が目に入る、
そんなときには具象画よりもこうした抽象的な作品の方が馴染む気がしますですねえ。
具体的に「これは何々です」と常に主張されているよりも、そのときどきの気分にもよって絵の印象が変わりますし。
須藤さんが菅作品「壺中」の購入を即座に思いたったところと、少しかぶる感覚なのかもしれません。
ところで上の作品のところどころに、小さいながらも盛り上がっている部分がご覧になれましょう。
そのことからも、菅の創作は平面に収まらないところがあるのではと思うわけですが、
実際、展示室には立体造形作品もあるのでして。
それぞれタイトルは「ダックスフント」と「たつのおとしご」と。絵画作品とは裏腹にこちらは非常に具体的なタイトルですけれど、
いずれも写実的に造りこんで、タイトルを見る前からそれと分かるものではなくして、「見立て」の妙を見せていようかと。
それだけになんとも微笑ましく思えたものでありますよ。
いずれも廃物利用によるものですけれど、ともするとガラクタとなったものを寄せ集めて
ごちゃごちゃっとした作品は見かけることがありますが、これほどにシンプルなものは珍しいかも。
それでいて、なるほどそこにはダックスフントがおり、たつのおとしごがいるような気にさせられる。
コンセプトは異なりますけれど、ついついマルセル・デュシャンの「泉」を思い出したりもしましたですよ。
と、続いては須藤さんが力を入れてきた若手作家支援に関わる展示や菅作品以外のコレクション展示室へ。
多摩美美術館の展示がらみのお話はもう少し続きます。