テーマ:国内旅行について(2480)
カテゴリ:国内旅行
■10月7日(月)
かねてより行きたいと思っていた、「日本のポンペイ」、 戦国の武将・朝倉氏の一乗谷に行ってきた。■ブラタモリ:一乗谷■ 日本のポンペイと呼ばれる遺跡がある。 一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)だ。 戦国時代、織田信長に滅ぼされるまで100年に渡りこの地を支配した戦国大名・朝倉氏の館と城下町の跡地だ。 朝倉氏滅亡後、この地はそのまま見捨てられ、土砂にそして田畑の下にと埋もれていった。 そして今、400年間地中にあったこの城下町は現代に蘇りつつある。 突如現れた戦国時代の城下町にタイムトリップしてみよう! ●静かな山あいの奥に400年眠り続けた城下町があった 朝倉氏遺跡は、この山あいに流れる一乗谷川を挟んで、 山城(朝倉氏の居城跡)と (▲各家に一つ、家によっては、井戸があった。 井戸の枠には、この地の名産、しゃくだに石が使われている。) 復元された城下町の二つのエリアにわかれている。 まずは復元された城下町を訪れてみよう。 戦国大名の中でも文化人として知られた朝倉氏の治めるこの地は、多くの文人や商人が訪れ北陸の「小京都」と呼ばれ繁栄していた。 今ここには、当時の武家屋敷や庶民の住む町屋などが映画のセットのように再現されている。 家々の中も見学ができ、台所や井戸、中庭、厠、 店舗など、当時の暮らしの様子をリアルに感じることができる。 戦国時代の城は基本山城で、執政の場というより軍事拠点だった。 城エリアは、城下町エリアから濠を挟んだ山裾にあり土塁がめぐらされている。 シンボルである入り口の「唐門」をくぐると朝倉氏の広大な御殿や庭園の跡が点在し、山城は背後の山頂に築かれている。 (▲朝倉氏の倉の跡) (▲庭園) 建物はなく礎石などが残るだけだが、草が生い茂る広い平地に規則正しく並ぶその跡を見ていると、ここにあった荘厳な大屋敷の姿が目に浮かんでくるようだ。 地元のボランティアの方が遺構の説明や朝倉氏の歴史をガイドしているので、姿を見たらぜひ話を聞きにいこう。 (▲ボランティア・ガイドさんの法被に朝倉家の三ッ木瓜の紋。) 遺跡は見学しただけでは古いものを見てそれで終わりになってしまうが、ガイドの話を聞き歴史の背景を知ると、この地でかつて起きたことの臨場感をよりいっそう味わえる。 400年間忘れられ土に埋もれていた中世の城下町が現代によみがえった…まさにここは日本のポンペイのよう。 近年、携帯電話会社のCMキャラクターである「白い犬」の故郷という設定になり知名度が上がったことと、北陸新幹線が金沢まで開通したことで観光客は増えているそうだ。 ▲将棋をする朝倉の家臣たち。 ▲「酔象(すいぞう)」という駒。 裏は「太子」「王」をとられても「太子」が「王」になる。 さすが、戦国の将棋!!藤井七段に見せたい!! 復元にあたっては、出来る限り正確にした。 カンナがなかった時代(カンナは江戸時代)なので、当時にならって柱や床を手斧(ちょうな)で削った。 (▲赤〇が、上城戸、下城戸) 一乗谷を防御するため、城下町の南北に土塁を築いて城門を配した。 京に近い南側は上城戸、北側は下城戸と呼ばれる。 この間の幅500メートル、長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に朝倉館や侍屋敷などがつくられ城下町の主要部を形成し、一万人が暮らしていた。 ■下城戸 東西の山が狭まった谷の入り口に設けられた。 現在は幅18メートル、高さ5メートル、長さ20メートルの土塁が残っている。 枡形虎口である門跡には重さ10トン超の石が積み上げられている。 なかには40トンを超す巨石もある。 また、城戸の外側には幅10メートル、深さ3メートルの堀があり、かつては一乗谷川と直接繋がっていたと考えられている。 ■一乗谷発掘調査報告■ 富山・砺波「夢の平」コスモスウオッチング。 富山・砺波ロイヤルホテルで2泊。 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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