数か月前、私はかねてからの念願であった俳句教室に入門しようと思いました。
隣町で休日に開講されており、授業料もきわめて安価だ。
しかしですね、このコロナの時世化、受講生の数を限定しているということで入門をあっさりと断られてしまいました。
まあね、俳句は独学で三昧できるようになる程甘い世界でないことは、素人でも分かる事です。
いつかまた機会があればなと思い、当面、俳句に関しては諦めていたところ、昨日、その断られた教室から電話がありました。
人数が減ってしまった、まだ興味があるのなら入会も可能だというお知らせです。
喜んで来月教室まで赴く旨返答した私ですが、なぜ、そんなに俳句にこだわるのかな。
その道に詳しい人に聞くに、俳句は有史以来地味ながらもその人気は常に高く、最近では若い方にあってもちょっとしたブームを巻き起こしているとのことです。
吟行なんていうものにもロマンを感じますね。
そのように人気に衰退を覚えぬ俳句の世界ですが、私が数年前から触れてみたいと思ったのは、二つの理由からです。
一つは親しくしている方が大学の社会人教養講座で英語俳句なるものを受講し、そのオモシロさを私に教えてくれたこと、そして、もう一つ、これが主たる理由なのですが、小説を書く能力の限界とその先にある復元のようなものを感じたからです。
私は子供の頃、他の科目は駄目だったけれど、国語だけが非常に好きだったんですよね。
国語が好きというのは、つまり、文章を書くのが好きだということです。
俳句も少しだけ学んだ記憶があります。
だから、駄文ながらも中学生の時分からホンの数年前まで小説もどきを書いたりしていたものです。
ところが、ホンの数年前からその小説を書くという行為が難しくなってきた。
情熱がなくなったわけでもなければ、スランプだというわけでもないと思うのですよね。
ひとえに加齢による脳力の衰えが、スラスラと水流のように思い浮かんでいた文章に堰をたてるような感じになってきたのです。
私の文体は、インチキながらも学術論文的に稿を進めるところにあると思っているのですが、もう難しいコトバの意味や哲学やら心理学的用語の意味を追うことに限界を感じてきたのです。
しかしです、三つ子の魂百までじゃないですけれど、文章を書くのが好きだ、表象する世界を文章で表したい、そんな気持ちは変わらずに持っているわけです。
或る有名作家が読者からの質問に対し、素晴らしい小説を書くためには俳句を習ってみてはどうかというアドバイスをしていたのを書物で知り、これだと思ったのです。
コトバを知りたい、コトバに感動したい、コトバに生きたい、そんな気持ちから俳句に憧れを抱くようになったのですが、同時に、俳句を通して、脳力の限界というものを超えることはできないものの今のままを何とか維持し復元できないかと思うようになったのです。
まあね、俳句はご隠居様がやる事だというイメージがついて回るところもありますが、もっとクールでカッコいいイメージがあってもいいような気もしますね。
ではまたね(^^)/
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