珈琲貴族(作詞家)のBourbon Salon・・・ほろ酔い気分で「文学と音楽と仏教話^^」ちょっとリッチな恋月夜

珈琲貴族の触ってきた文学、そして仏教観などについて、思うままを「戯れ綴り屋^^」として適当に載せていくサイトです。

「源氏物語(3)」

2010-04-24 00:00:01 | 文学サロン

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「源氏物語(3)」

「源氏物語」(3)です^^!
次回の「源氏物語(4)」、いよいよ「宇治十帖」に入る予定でしたが、次回も光源氏の女性たちになっちゃいそうです^^!!(5)もそうなるかも~~ですぅ^^!!
って、きっと、わき道、寄り道が多いからそうなっちゃうんですよね^^。

と、書きながらも冒頭からわき道~~~~~~~です^^!!

「源氏物語(1)」でも触れましたが、「源氏物語」は、原本は残っていません。写本のみで、多くの人が書き表しました。途中での書き足しや書き換えもあっただろうと伝えられてもいます。
その中でも一番信憑性のあるものは、藤原定家が校訂した「青表紙本」であり、これが原本替わりとなって現在に至っています^^。

作者の紫式部は、この「源氏物語」を書くまでは、藤式部(ふじのしきぶ)と呼ばれていたんです。
父の藤原為時が式部丞という官職に就いていたから藤原の式部で藤式部なんですけど^^。
本当にこの時代の女性への名前って、実にいい加減ですよね^^。
「源氏物語」の中の光源氏がこよなく愛した紫の上が多くの読者に親しまれて、藤原公任(きんとう)が「若紫や侍う(若紫さん~、いらっしゃぁい~~)」って、呼んだことから、紫式部と言われるようになりました^^。

前にも書きましたが、平安の貴族社会の恋愛は、強姦もどき、不義姦通の連続^^ではありましたが、まじめに恋愛をしようと思ったら、かなり骨の折れる仕事でした^^。
女性からのアプローチは、ほぼゼロに近く、すべてが男性の方から行われていました。

初潮が始まるころから、女性は男性に顔を見せることはありませんでしたし、出来ませんでした。兄弟でも見られなかったんですよ~~^^!
すべては、噂だけが頼りでした^^。その噂を聞いて、男性がその女性の屋敷に通うのですが、御簾(みす)があり、御簾越しにしか相手を見ることはできません^^。
結婚前は、ミスと言うだけに御簾なのでしょうか^^(おいおい^^)!

そこで女性の雰囲気や匂いを想像して、その想像に合わせて花に歌(和歌)を付けて贈ることから始まります^^。
その歌を返すのは、すぐに本人からと言うことはあり得ず、教養のある侍女たちが代筆をしていました^^(おいおい^^)!
そのやり取りで、気に入ったらやっと本人から返事が来ました^^。

男は、贈る紙から文字、花、そしてなによりも歌と匂い(香り)に英知のすべてを賭けた勝負の場でもありました。もちろん、侍女への賄賂の付け届けも忘れてはなりません^^。
侍女を飼いならすために、その侍女と関係を持つこともしばしばあったそうですって、メチャクチャな話ですよね^^!

香りは、重要なポイントでもありました。貴族たちはこぞって、中国やインドから入ってくる麝香(じゃこう)、白檀(びゃくだん)、沈香(じんこう)などを手に入れ、自分の匂いをブレンドして作ったりしていました。それがまた、財力の証でもありました^^。

どうして~~ここまでぇ~~するのかと言うと、権力社会には、力のある財力もある後ろ盾が必要でどうしても家と家を結んでおく必要があったと言われています^^。

教養と財力は男だけではなく、女性にも求められました。
万葉集や古今和歌集は暗記して、先方からの歌にウィットを込めて返事で詠うことも必要でした^^。

それから、やっと夜這いを許されます^^(おいおい^^)!
でも、朝起きて、顔を見たらとんでもない、いえいえ、豚(とん^^)そっくりのとんでもない女性であることも多くあったようです(おいおい^^)。とんでもあったわけです^^(こらこら^^)!!
それは女性とて同じなんですが^^!!

三日連続して夜這いにくれば、婚約成立で、その翌日は披露宴となります^^。
このとき、初めて女性の両親や親族を見ることになります。
まぁ、披露宴の朝に始めて男は三夜を過ごした女性の顔を見ることもありましたので^^。
男の親は、それをお付の者や文や噂などで知ることになり、まず女性の家に挨拶に行くことなんかありませんでした。

その日から、男は、そこでの生活が始まります。自分の家に帰ることはしないのです。
もちろん、衣食住はすべて女性の家で面倒を見ます。その男性は、妻が一人ではありませんから、今日はこっち、明日はあっちって、今の世では考えられない生活でしたぁ~~~~~^^。

ここで、冒頭のわき道がやっとぉ~~終わります^^!!


さてさて^^、今回と次回は、「源氏物語」を読まなくても、これが「源氏物語だぁ!」「光源氏だぁ~~!」って、知ったかぶりができるものにしていきたいって思っています^^。
あはっ、私も知ったかぶりなんですけどね^^。

光源氏が、愛した女たちや関わった女たちを中心に^^。
前回、「中宮藤壺」を軽く書きましたが、今回は、ちょっと掘り下げてみようかと思います。

序章である第一帖の「桐壺」で、早くも光源氏は、結婚をします。12歳の時です。相手は、「葵の上」。光源氏、初めての結婚であり正妻でした。4歳年上の才気煥発、美しさにも鼻高々の父を右大臣、母を天皇の妹君という血統書つきの娘でありました。この葵の上、本当は皇太子(光源氏の兄)のお妃候補だったのですが、親の思惑から政略で光源氏に嫁ぐことになりました。

しかし、この結婚は最初から上手くいきませんでした。
政略結婚だったかこともあったのでしょうが、政略結婚は当時ではかなり当たり前のことで、それよりも葵の上のプライドの高さが、光源氏の心にはどうしても馴染めませんでした。

何よりも、光源氏にはその時、すでに愛している女性が存在していました。って、光源氏は、まだ12歳だぞ~~~~^^!(おいおい^^)!!

それが、「中宮藤壺」です。
幼いときに母を失って、母を求めてきた光源氏には、藤壺が母以上の存在になっていました。
藤壺は光源氏よりも5歳年上ですから、正妻の葵の上とほぼ一緒にも拘わらずです^^!

そしてそれが若さゆえに爆発をしてしまいます^^!!
ついに藤壺が里帰りをしているときに無理やり~~襲うのです。

藤壺との出会いは、一帖の「桐壺」ですが、襲うのは五帖の「若紫」になります。
光源氏、18歳の時でした。
しかし、藤壺も藤壷で、光源氏のことを想っていました。しかし、義母であることで一線は守られていました。
それが、出来てしまったのです!!

さぁぁて、藤壺が身体を壊して実家に帰った時のことです。
宮中では会うこともできなくなった光源氏の思いは募るばかりです。「チャンスは、この時しかないと!!」と、なんとか手を尽くしてやっと会うことに成功しました。
もう目の前にいる藤壺に、「この女性しかいない!」と、ただただ涙ばかりの光源氏でした。

「見てもまた あふ夜にまれなる 夢のうちに 
       やがてまぎるる わが身ともかな」と光源氏が歌を詠みます。
(今夜はお逢いできましたが、再びお逢いする夜ができるでしょうか、できるなら今宵の逢瀬の夢の中に、そのまま紛れ込んで消えてしまう我が身でありたいものです。)

それを読んだ藤壺が、あまりにも可哀想な光源氏に歌を返します。

「世語りに 人や伝へむ たぐひなく
      憂き身をさめぬ 夢になしても」
(あなたは夢と言われましたが,またとないほど辛い私の身を,たとい永久にさめない夢にするにしましても,後の世の語り草に人が伝えはしないでしょうか、私達の切実な愛を・・・。夢の中で育てて、夢を見続けてきた愛、もう 夢は見たくありません。)

このあとの一行が紫式部の凄さを思い知ることになります。

「命婦の君ぞ、お直衣などはかき集めて来たる」とあります。

そして、どこにも光源氏と藤壺の一夜の 睦(むつみ)ごと、秘め事を書いている箇所はありません。
この一行がすべてなのです。

「王命婦(帝側近に仕える婦人)が、光源氏の衣装をかき集めて持ってきた」、これで光源氏が裸で藤壺を接したことが読めるのです。

ねっ、紫式部って凄いですよね^^!

そうなんです^^!
この日に二人は出来ちゃいましたぁ~~~^^!

でも、その日から藤壺の後悔と苦悩は続きます。
帝である夫を裏切ったことが悔やまれてならない藤壷は、それから光源氏が求めてきても、一切応じようとしませんでした。

なんと、そのあと、子供まで~~~^^できちゃいました(おいおい^^)!!
それが、後の天皇になっちゃうんです^^。霊泉(れいぜん)帝です。

このことを知らない天皇桐壺は、藤壺の懐妊にめちゃくちゃ喜びます^^!!
桐壺帝は、最後まで自分の子供だと疑わないままあの世に行っちゃいます。
少しどころか、かなり哀れですよね^^。なによりも、藤壷のそれからは、日増しに女性として母として、ひ弱さは影を潜め、強くなっていきます。

その藤壷の凛とした強さは、また後に書くことにして、光源氏は、いったいどれだけの女性と関係を持ったのでしょう^^。

光源氏の最初の女性は、おそらく12歳の時の結婚相手「葵の上」だったと思います^^。
「源氏物語」に出てくるはっきりと男と女の関係があった女性を挙げていきますね^^。

確実に光源氏と関係のあった女性です。もちろん、推測ですが、侍女と^^や合コンでの一夜床もあったでしょうね^^(おいおい^^)!

まず葵の上、藤壷、六条御息所、花散里、朝顔の姫君、明石の君、夕顔、源内侍、朧月夜、末摘花、空蝉、軒端荻、女三の宮と13人になります。
この中で空蝉(うつせみ)は、身分とか、性格などで紫式部が自分を書いたって言われてるんですよ^^!!

何故、でも光源氏はこんなに好色なんでしょう~~~~^^!
それは、公職にあったからでぇ~~~~~~~す^^(おいおい^^)!!
しかし、これは、先天的なものではなくて、第二帖の「帚木」の影響なんです^^!!

「帚木」は、「ははきぎ」と読みます、「帚」は、掃除をする「箒(ほうき)」と同じです。
その「帚」に「木」を付けた「帚木」は、「遠くからは見るとあるように、近づくと消えてしまうという伝説の木」のことです。意訳すると、情けがあるように見えて実は虚であるとか、姿は見えるのに会えないことなどの例えにも使われる言葉なんです。
主題の「帚木」は、あとのほうに出てきます。

掻い摘んで話すと、雨の日に悪友4人が集まって女の品定めをして盛り上がるという場面です^^!修学旅行で就寝時間が過ぎても、ひとつの部屋で、「お前、誰が好き?」「あいつ、いいよなぁ~。」「あ~、あの先生とキスしたいぃ~~^^」って話している光景を想像してくださいね^^!!ただ、この悪友は光源氏よりもみんな年上で、それなりに女性経験も豊富な年上の友達なのです^^。高校生くらいの年齢の光源氏を前にして、女性論結婚論を話し合います^^。
頭中将(光源氏の正妻葵の上の兄)と左馬頭と藤式部丞の4人です。

でも、この光景、「雨夜の品定め」と言って「源氏物語」では重要でかつ有名なシーンなのです。

この会話がなければ、好色光源氏は生まれなかったのかもしれません^^!


原文で書いたら、きっと眠くなっちゃいますから、現代珈琲貴族風で書いてみますね^^!与謝野晶子現代訳を大幅に脚色しますね^^。
でも、今の世の中でもきっと日常茶飯事、このような会話がどこかで話されているんじゃないかなっています。

頭中将「おい、光ちゃん、妹の葵の上とどうなんだぁ。上手くいってないのはわかるけど、まぁ、あんな妹を光ちゃんに嫁がせてごめんねだけど、家系を大事にしたいから、なんとか面倒みてよ^^!!」
って、話が最初にあったかどうかわかりませんが(おいおい^^)、義兄の頭中将は光源氏の手紙の山を見てしまいます^^。そこから、雨夜の品定めが始まります^^!

雨夜の品定め =====

季節は梅雨、御所に宿直の夜

頭中将「光ちゃぁぁぁん^^!!これは誰のラブレターだ!筆跡からみたら、あの姫か^^、おお、これはあの姫かぁ~~?それにしても山のようなラブレターの数だな!!」
光源氏「お義兄さんほどじゃないですよ^^!お義兄さんのも見せてくださいよぉ^^。」
頭中将「あははは、俺のは読む価値のない女ばっかりだよ^^。」

頭中将「でもな、完全な女なんていないって気づいたよ。乳母日傘で育って、身分が高くて顔がきれいという女だって、そうでない女だって同じだよ。何一つ才能がないし・・・まぁ、そうは言っても女にも上中下があるからな。」
光源氏「女性で、ひとつも才能もない人なんているんですかぁ!それに上中下ってどんなランク付けなんですか。いろんな境遇でそんなの変わっちゃうでしょ!」
頭中将「まぁ、そんなにごちゃごちゃ言わないでも^^。女が高貴なところに生まれちゃうとすべての欠点が消えてしまうこともあるでしょ^^!」

そこに左馬頭と藤式部丞がやってきます^^!

左馬頭と藤式部丞「なんの話をしていたんですかぁ~~^^。」
頭中将「どこかにいい女がいないかってね^^」
左馬頭「あははは、お二人のような貴公子にはそんな女いるわけないじゃないですか^^!
家柄もよく綺麗で性格もいい女を捜すんでしょ^^。私なんかの身分でもそう見つからないものですよ。だから、身分や器量なんてどうでもいいです。偏った性格でなく素直であれば^^」
藤式部「それって中流ってこと?」
左馬頭「そうだね。中流が一番だね。地方の県知事の娘とかのほうが、いい女がいるもんだよ^^。」
光源氏(心の中)「そっか、中流の女か~!(メモメモ^^)」

ここから昔の女の話が本格化します。

左馬頭「昔、とんでもない不細工な愛人がいましてね、少しは一緒になろうなって考えたこともあったんですが、でもね、この女、器量が悪いって知っているから、私になんでもしてくれるんですよ^^。私のためにここまでしてくれるかって思うくらい愛してくれて。それが疎ましくなって。そしたら指を噛まれた~~!
だから頭にきて、<手をおりて 相見しことを 数ふれば これ一つやは 君がうきふし・・・・(貴女との生活を振り返ってみて、指を噛まれることが一番イヤなことだった)>を詠って彼女を捨てました。彼女は<憂き節を こころ一つに 数へきて こや君が手を 別るべきをり・・・(今まで貴方の仕打ちに耐えてきました、でも、これでもう終わりなんですね)>と泣き出しましたがね。本当は別れる気はなかったのですが、しばらくしたら彼女は嘆いて死んだそうです。そんな思いで死んでいった彼女に冗談は言えないですけど。」

左馬頭「もう一人の女は、風流でちょっといい女でした^^。琴が上手くてね^^。そこそこの家柄と才女で、世話噛み付き女が飽きるとそっちに行っていたんですが、相手をしない間に同僚と出来ちゃって^^、それを口実に別れちゃいました。二人の女を比べると、風流な男好きの女には気をつけることですよ^^。」

頭中将「私の女は・・常夏の女で・・・。父親がいなくて、私だけに頼らなければと思っている女でね、でも、可憐な女で^^。そんな女だから、私の妻の家からの嫌がらせもあって、それは可哀想なことをしたと。私との間に子供もいて。いろいろ悩んだと思うよ。そしたら、女から手紙が来てね。」

光源氏「それは、どんな手紙でした?」

頭中将「大した手紙じゃなかったよ^^。<山がつの 垣は荒るとも をりをりに 哀れはかけよ 撫子の露・・・(山家の垣根は荒れていても時々は かわいがってやってください撫子の花を)>と書いてあってね。私のことはいいから、子供には可愛がってくださいね、だって。参っちゃったよ^^!!」

光源氏「それから、どうなったんですか!」

頭中将「歌を返したよ。<咲きまじる 花は何れと わかねども なほ常夏に しくものぞなき・・・(どんな花が咲き乱れても どれもが美しいかもしれないけど それでも私は唯ひとつ 子供よりも常夏の お前が好きなんだよ。)、ってね。撫子が娘なら、常夏は床を一緒にする意味の女と例えたのさ^^。女は何も言わずにそっと泣いてたよ。それからしばらくして私の前から消えてしまって。それから撫子と詠んだ子供も可愛かったので探したけど、未だに手掛かりはなくって。」

頭中将 「左馬ちゃんの二人の女も、私の女も良いところだけ取って、悪いところを捨てれば、でも、そんな女は何処を探してもいないし、もし居たとしてもそれはそれで、吉祥天女のような仏法臭い女になってしまう^^!
次は、式部丞!面白い話を^^。」

式部丞「えっ、下の下の身分の私に面白い話なんかありませんよ。強いて話すなら、教養のあり過ぎる元妻のことぐらいですかね。私が学生時代だったんですが、漢文の先生の娘で、とにかく教養をひけらかして。手紙もすべて女のくせに漢文なんですよ。かなは一字もなしで。まあ、学生の身の私はありがたかったんですけど。でも、寝物語も漢文で^^。 疲れ果てました^^。だから、しばらく通わなくて、数日経って言ったら、部屋に仕切りを作っていて、私は風邪で薬草の韮(にら)を食べたから臭いのよ、だからここから中に入らないでって言われて、素直にそれじゃぁって帰ろうとすると、韮の匂いがなくなったときに来てねと。そしたら走ってきて、<逢ふことの 夜をし隔てぬ 中ならば ひるまも何か 眩ゆからまし・・・(毎日逢っていたなら、韮の匂いなんて何でもないでしょうに)>と厭味な手紙を渡されて^^。もう、三史五経の学問を始終引き出されてはたまりませんよ。そのくせ社会常識には疎い。そんなに学問をわざわざしなくても、社会常識を身につけてほしいですね。」

頭中将「へぇ~~~面白い話があるもんだね。さぁて、最後は光ちゃんだよ~~^^!」

そのとき、光源氏は、原文には
『君は、人一人の御ありさまを、心の中に思ひつづけたまふ。「 これに足らず 
またさし過ぎたることなく ものしたまひけるかな」と、ありがたきにも、いとど胸ふたがる。』
と、あります。

「源氏は心の中でただただ一人の想いの女性のことで心が溢れていました。あの愛しい藤壼の宮は、足りない点もなく、才気の見えすぎる方でもなく、そてつもなく素晴らしき女性だとうなずきながらも、その人を思う気持ちで胸が苦しみでいっぱいになった。」
のです^^!!

この4人の話は、筋脈絡もなしに朝まで続きましたとさ^^!!


=====雨夜の品定め 終わり~~~~~~~~^^!!

この雨夜の品定めで、今までセレブの中のセレブ女性としか、夜を一緒にしなかった光源氏は、中流という女性に異常に興味を示します^^。
なによりも、この頭中将の愛人であった「常夏」にも興味を持つことがなったでしょうね。
「常夏」、この女性は光源氏の前に「夕顔」となって現れます^^!!
「第三帖 空蝉」と「第四帖 夕顔」は、「雨夜の品定め」の続編として、「帚木三帖」と呼ばれているものです。

皆さんが、彼氏や彼女のデートで源氏物語の話が出たとき、光源氏の関係のあった13人とこの「雨夜の品定め」さえ覚えておけば、もう安心ですよ~~^^!!(おいおい^^、ほんまかいな^^)!!!
でも、デートで「源氏物語」の話がメインなんてないですよね^^!!

「第二帖 帚木」は「光源氏17歳 夏」と多くの書物に出てきます。他の帖にも光源氏の歳が書いてあります。私も、ここで光源氏の歳を記してきましたけど、光源氏の歳は、その多くは推定なんです。
それぞれの帖に歳が書かれている書を見ますが、「源氏物語」には歳は、そんなに書かれてないんですよ^^。

最初に、「第一帖 桐壺」で、「十二にて御元服したまふ」と書かれた後、次に光源氏の年齢がわかるのは第一部の一番最後の「第三十三帖 藤裏葉」の「明けむ年、四十になりたまふ」という場所なんです。
すべて、「藤裏葉」の帖から逆算をしているに過ぎないんですよっ^^。

さて、ここでやっと「藤壺」から、やっと2人目の女性に話が進みます^^!!
「空蝉」でぇ~~す^^!!

空蝉との出会いは、「雨夜の品定め」の翌日です^^!!
この空蝉の出会いが「帚木」の主題に通じるのです^^。
「おいおい^^、その翌日かよ~~~^^!!」って、言いたくなっちゃいますよね^^。

翌日、久しぶりに妻のいる左大臣家を訪れた源氏は、その夜、方違え(帰る方向が悪いと方角を変えてどこかに一泊をすることです)のため紀伊守の別宅に行き、そこで伊予の介という老人の若い後妻「空蝉」と出会います。
光源氏は、みんなが寝静まったあと、その閨に忍び込みますが、空蝉は意外な抵抗を見せます。でも、若い光源氏に勝てるわけがありません。犯されてしまいました。そのあとも光源氏は若妻の身体を求めて言い寄りますが、拒み続けられます。光源氏は、そこで「自分を拒否する初めての女性」を知ることになるんです^^!!

本当は、空蝉は、光源氏が好きで好きでたまらなかったのですが、背も低く見栄えもあまり良くなく、なによりも身分が不相応であることを理由に逃げ回ったのです。

光源氏は、逃げ回る空蝉に歌を詠みます。
「帚木の こころをしらで 園原の 
           道にあやなく まどひぬるかな」と。
(帚木の木は、遠くから見るとあることは間違いないのに、近くにいくと見えなくなってしまう、そんな冷たいあなたに、帚木の木を探して迷ってしまったよ)

これに対して空蝉は、

「数ならぬ 伏し屋に生ふる 名の憂(う)さに 
             あるにもあらず 消ゆる帚木」と返します。
(粗末の所に生えている帚木のような身分のあばら家に住んでいる私には、あなたのような高貴な方とお付き合いできるはずもありません。ただただ消えるのみです)

涙涙ですよね^^!

ここで、「第二帖 帚木」も終わりとなります。

「源氏物語(3)」も終わりとなります^^(おいおい^^)!!

「源氏物語(4)」は、どうして空蝉が空蝉と呼ばれるようになったか、そして、そのあとに出てくる夕顔、そして夕顔の呪われ死と、「第三帖 空蝉」「第四帖 夕顔」と話を進めていきますね^^!!

お楽しみに~~~~~~~~~^^!!

「源氏物語(2)」

2010-02-01 13:00:00 | 文学サロン

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開設840日余りで、途中、5ヶ月と10ヶ月思いっきりサボっていたにも拘わらず、9万人の方にVIEWして戴きました。感謝ばかりです。
私の座右の銘の一つであります「継続は力なり」をこのブログでも実行していけたらと存じます。
お陰様でこの文学サロンだけで14話^^、1話1万字を目標にしてきましたので^^、約14万字となります^^。これからどれだけ増えるか私も楽しみなんです^^。
皆様の温かい励ましに応えるような、私なりに学んできた文学と仏教を精一杯これからも描いていけたらと思っています^^。ありがとうございます^^!!



源氏物語(2)

「源氏物語(1)」の続きからです^^!
(1)を読んで、この(2)に入っていくと、かなり読みやすくなりますよ~~^^(ほんまかいな^^)。

今回は、もう少し「源氏物語」の周辺と主人公が係わってきた女性を書く前に主人公について書いていこうと思います^^。「その女性たちとの出会いや遣り取りは、「源氏物語(2)」に満載しようかと思っています^^。」って、(1)で書きましたが、(2)の終わりと(3)で、その女性たちのことを書いていきますねっ^^(おいおい^^、またかいな^^)。

「源氏物語」は、「桐壺」の帖から始まります。

「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。(どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。)」
これが冒頭で、字数にして100万字(80万字とか書いているものもあります)、原稿用紙2500枚分の膨大な物語が、こうして始まっていきます。

物語は、光源氏という見目美しい皇子の両親の紹介、そしてその両親の悲恋から入っていきます。
そして光源氏にとっては、永遠の女性が紹介され、これからのままならない人生を暗示させます。

しかし、この「桐壺」の設定、これは、唐の詩人中国の有名な詩人である「はっけよい~残った残った」さん(おいおい^^違うだろ^^)、じゃなく白居易(はくきょい^^)の「長恨歌」にかなり似ているんです。
白居易は、白楽天とも言います^^。
「長恨歌」は、ご存知のように、安禄山の乱で楊貴妃を失った玄宗皇帝の深い悲しみの詩です。漢詩は、時代によって唐詩、宋詞、元曲とも呼ばれます。


白居易の時代の漢詩人は錚々たる人たちばかりなんですよ~~^^。
杜甫、王維、孟浩然、李白、その中に玄宗もいます。
聞いた名前ばかりでしょ^^。

その白居易の「長恨歌」を一部だけ出だしの部分を書いていきますね^^。

漢皇重色思傾國 
御宇多年求不得 
楊家有女初長成 
養在深閨人未識
天生麗質難自棄
一朝選在君王側 
回眸一笑百媚生 
六宮粉黛無顏色 

玄宗皇帝は美しい女性が好きで絶世の美女との出会いを願い、             皇帝になってからも長年探し続けたのに見付けられなかった。
楊家にいる娘もようやく一人前の女性となったが、
家の奥屋敷で育てられていたので、その存在は誰も知らなかった。
しかし天性の美貌は隠し果せるものではなく、
ある日見出されて皇帝の側で仕えることとなった。
瞳を巡らせて微笑むと何とも言えぬ艶かしさが生まれ、
後宮の美女たちも平凡な女性に見えてしまうほどだった。
    (訳は碇豊長氏「詩詞世界」から引用)

これから長々と続くのですが^^、「源氏物語」と「長恨歌」の共通点です。

いずれも愛した者は帝王(天皇)であり、楊貴妃も藤壺の宮も、絶世の美女であり、そして身分が高くなく、溺愛されます。そして、周りの嫉妬により、不遇の死を遂げます。残された者(皇帝・天皇)の悲しみは半端ではなく、日にちが経てば経つほど忘れられずに涙の日々を過ごしていきます。

ほとんど同じなんです^^。

少し専門的な話をしますと^^、この「長恨歌」は、玄宗と楊貴妃のことを題材にしていますが、実はもう一つの実話が存在します。
玄宗にはもともと武恵妃という美しい寵愛した妃がいました。しかし武恵妃は亡くなってしまいます。失意の日々を送っていた玄宗のまえに現れたのが楊貴妃だったのです。

紫式部がここまで知っていたかどうかは疑問ですが^^。
しかし、きっと、紫式部は、当時、他の女官の誰よりも漢詩に造詣が深かったことが、玄宗と武恵妃のことは知らなくても、玄宗と楊貴妃で十分だったんでしょうね^^。
紫式部が、仕えていた中宮彰子に白居易の詩を教授していたことは、「紫式部日記」にも書かれていますし、また清少納言の「枕草子」にも「白氏文集」の話題が出ています。白居易が、日本の文学に大きな影響を与えたことは確かなことです。

さて^^、この「長恨歌」だけでなく「源氏物語」は、いろいろな書物から転用していると言われています。

「玉蔓」の帖は「竹取物語」、「賢木」の帖は「史記・「魯周公世家」、「薄雲」の帖は「史記・后妃伝」などからです。
光源氏と藤壺の宮の恋が、あの在原業平と二乗の恋に似ていることから、「伊勢物語」からの拝借もあると言われています^^。

藤原道綱の母の「蜻蛉日記」がなければ、「源氏物語」は生まれなかった、書いたとしても味気ないものになっていたと、私は「源氏物語(1)」の最後に書きました^^。
これは、光源氏への嫉妬に狂う身分の高い六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が、相手の夕顔というさほど身分の高くない女を呪い殺す場面がありますが、藤原道綱の母と夫の身分の低い浮気相手のことであり、その相手を呪い続けた実際の日記を読んで、登場させたことは間違いないことだと思います。
「源氏物語」、この六条御息所の存在があればこそ、ひと際光る物語に仕上がっていると思います。

いずれ、「蜻蛉日記」も詳しく書いていこうかと思っています^^。

「桐壺」の帖だけでも、数々の論文が発表されているんですよ^^。

「源氏物語の視角 桐壺巻新解」の吉海直人を始めに、「源氏物語の始発―桐壺論集」の本の中では、日本を代表する国文学や「源氏物語」研究者の論文で犇(ひしめ)いています^^。

タイトルと著者だけでも抜粋をしますと

桐壺更衣の母性をめぐって─桐壺巻再説─ (宮崎 莊平)
高麗人の予言と虚構の方法 (金 鍾徳)
桐壺巻の構成と聖徳太子伝─「光君」命名記事をめぐって─(佐藤勢紀子)
右大臣の再検討─桐壺巻の政治構造─ (吉海 直人)
桐壺更衣と藤壺宮─聖代回復の物語から─ (袴田 光康)
「源氏物語」に見る藤壺宮入内の論理─「先帝」の語義検証と先帝皇女の入内について─ (湯浅 幸代)
桐壺帝の依頼表現 (森野 崇)

などなど、数百はあろうかと思います^^。
フィクションの物語に、ここまで政治や高麗人の予言などを真剣に論じて、それだけで生業としている人もいるから驚きです^^。
この「源氏物語の始発―桐壺論集」、時間があったら一冊いかがですかぁ~~^^!
14000円しますけど^^。もう、私なんか手が出ない書籍ですぅ~~^^。

その「桐壺」の帖から始まる「源氏物語」の主役から、お話ししていきます。
さてさて^^、「源氏物語」は主役が二人います。
まずは、光源氏、そして薫(かおる)です。

光源氏!
とってもローラースケートが上手くて、ジャニーズだったんですよ~~^^!
そして、メンバーの中には薬の常用者がいましたぁ~~~^^(おいおい^^、それは光GENJI^^、そして古~~~~^^)!

もちろん空想の世界の主人公ですが、この光源氏には幾人かの実在のモデルの存在が言われています。

藤原道長や左大臣源高明(みなもとのたかあきら)など、当時の実権公家や天皇も含み錚々たるものです^^。

藤原道長の説は、紫式部は道長の妾女であった可能性を否定できないことにあります。
「紫式部日記」にも、酔っ払った道長は夜遅く来たり、和歌をねだったり、扉を叩いたりしていたそうです^^。紫式部もきっとまんざらではなかったんじゃないでしょうか^^。

一番有力なモデルは、源融(とおる)です。
源融が「六条院」と呼ばれていたことで、光源氏の邸宅を六条院と呼んだのではないかということです。

この源融は、もう一つの顔を持ってました。能の世阿弥の「融」のモデルでもあります。
そうそう^^、この能、10年ほど前にNHKの番組で見たのですが、正直全くわかりませんでしたぁ~~~~~^^。と、いうよりも、私が能がわからないんですね^^。それもまったくと言っていいほど~~~~~~^^!!
「源氏物語」の源融がモデルと聞いたから観ちゃいました^^。静かに始まり静かに終わっただけのような^^。あれを幽玄と言うのでしょうか^^。どうも私の性格には合わないようです^^。
日本の伝統芸能である、歌舞伎もわかりましぇ~~~ん^^。

次に宇多天皇の第四の皇子であった敦慶(あつよし)親王も候補者です。
玉光宮と称され容姿端麗であり好色であり、絶倫だったそうです^^。
玉が光って、それだけでも凄そうですよね^^(おいおい^^)!
絶倫~~~~~って、羨ましいですぅ~~~^^(おいおい^^)!
宇多天皇に寵愛された歌人の伊勢との恋愛は、有名で一人子供を産みました。伊勢は宇多天皇の父親の子供も産んでいますから、複雑な関係ですよね。兄である醍醐天皇の女御だった藤原能子との恋愛もあり、異母妹の均子内親王を后にしました。
こうして書いていくと、お父さんの彼女であった伊勢を孕(はら)まして^^、お兄さんの彼女とも付き合い、あげくに妹と一緒になるって、当時の平安貴族の宮中の男と女の関係、今の感覚から言うと乱れまくってますよね^^。

あとモデルとして藤原高藤(たかふじ)と藤原高明(たかあきら)が有名です。

光源氏と明石の君との身分違いの恋は、「今昔物語」に見えますが、断然格上身分の藤原高藤と宮道列子(たまこ)の恋がモデルだということです。
高藤と列子は身分の差が大きいものの山科で結ばれ、高藤が列子と会えない間に胤子(たねこ)という娘が誕生します。そして、その胤子は宇多天皇の妻となりのちの醍醐天皇をもうけます。
宇多天皇、また名前が出ちゃいましたね。
もう、関係図を書くとドロドロでどうなっているのかわからなくなっちゃいますよね^^。

この列子(たまこ)、「たまのこし」の語源にもなっています。
「たまこが残した胤子のおかげで醍醐天皇の外祖母として従三位の高い身分を授かったことで、たま残し~~~に^^」
「玉の輿」と今では書きますが^^。あっ、でも「玉の輿」諸説ありますから、どこまで信用あるかですぅ~~~~~^^!!

源融が本命のモデルの候補者なんですが、源高明(たかあきら)説も有力で対抗なのかもしれません。
醍醐天皇の皇子ですが、母親が光源氏と同じく桐壺更衣の身分であり、光源氏と同じ年齢くらいで皇族から離され降籍されたことや、左大臣まで登りつめながら藤原氏に疎まれ失脚させられたことなど似たような経歴が見受けられるんです^^。

いったい本当のモデルは誰なんでしょうね^^。

その光源氏の素性を書いていきます。

桐壺帝の第二皇子で、母は正后ではなく桐壺更衣です。「光る君」と憧れの称号で呼ばれるくらいに小さいときからとにかく煌きを放ち、絶世の美貌と才能に恵まれました。
光源氏のこの母は、3歳のとき亡くなりました。桐壺帝の悲しみは、普通ではなく、その母の子である光源氏を、いつも傍に置いて、より以上可愛がりました。
しかし、この皇子の行く末を心配して、高麗の予言者に診せました。

その予言は、「国の親になって最上の位を得る人相であるけれど、国は乱れ、それがこの人の幸せではないですよ。帝王の補佐をする人と見てもそれもまた違うようです。」と。
もうひとつの予言は、占星術の宿曜(すくよう)で、光源氏は、「3人の子供をなし、ひとりは帝、ひとりは中宮、もうひとりは太政大臣になる。」とも言われました。小説だから何でもありの世界なのですが^^(おいおい^^)、この予言は見事に的中しました^^。
ひとりは冷泉帝と天皇になり、女の子は中宮となり、夕霧も太政大臣まで昇り詰めました。

天皇は、その予言を真剣に受け止め、母親の身分がそんなに高くない無印良品の我が子を、いつ自分が死ぬかわからないから無位の皇族、そんなところで腐らせたくないと思って、最良の方法を執らせました。
皇族から離れさせて、今もそうですが、天皇家には苗字はありません、そこで「源氏」の姓を与えたのです。それが、臣籍降下です。皇子を敢えて臣下の列に並べて存分に力を発揮させることにしたのです。

「源氏」の姓になり、それまで「光る君」とだけ呼ばれていたのが、ここに「光源氏」が誕生したのです^^。

この時代、占いは政治を左右する力がありました。
特に中国、韓国、そして日本においても、政治の行く道を易で占っていたんです。

中国に四書五経があります。儒教の中で特に重要とされる書物です。
四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記(らいき)」「春秋」となります。そこにある「易経」が、占いの源です。

その占いにより、光源氏は、皇籍から離れることになりました。
天皇と言えども、ただの占いと無視することができる時代ではありませんでした。

少し横道に逸れますが、「科挙」、中国の試験があります。
韓国やベトナムもこの科挙制度が導入されていました。日本も一時期行われていたのですが、すぐに中止となりました。中国では隋の時代の598年から1905年まで続いた官僚採用試験でもあります。今の日本に置き換えると、国家公務員のキャリヤになるための一番難しい試験を想像してもいいと思いますが、この「科挙」半端な難しさではありませんでした^^。

「科挙」を受けるのにも試験がありました。市試の次が県試、それに合格をしたら院試の歳試と科試、これに合格して初めて科挙の受験資格を得ることができます。その科挙も三年に一度しか実施されませんでした。
それから、「科挙」の一次試験「郷試」があり、そして都の北京で行われる「会試」、そして「復試」を合格して、やっと「殿試」が受けられるのです。この「殿試」に合格をして、やっと官職を得ることができました^^。

皆さん、よく「登竜門」と言う言葉を耳にすると思いますが、この「登竜門」は、都である北京の会試の会場に入るには龍門という名の門を通るので、会試合格者を登竜門と言ったのです^^。

それからも試験、試験の日々でした。
その「科挙」の試験が、四書五経から出題されたのです。全部で43万文字もある四書五経をすべて暗記しなければなりませんでした。
兵(つわもの)受験者の中には、逆さまでも暗誦できる人もいました^^。その上、司馬遷の「史記」まで暗記していた人もいたそうです。なんと、その文字数は、約53万字です^^。
いまさら役人などできる体力はない相当な高齢者もいました^^。
誰でもが頭が良ければ政治の中枢で役人となれるが謳い文句でありますが、実際には、当時かなり高価な四書五経などを買える財力がないとなれなかったのが実情のようです。

私も今年は「易経」に挑戦しようとamazon(アマゾン)で、中古の「易経 上巻」「下巻」をそれぞれ1円で年頭に買いましたが、最初の数ページでわからなくなっちゃいました^^。「なんじゃ!これ~~!!」って、もう気分は松田優作に~~~(おいおい^^)!そうは言っても、もったいないので少しずつでも齧っていきたいと思ってまぁぁす^^。
でも、きっと、四書五経のなかでも私には一番難しいのが「中庸」だと思います!
何故って^^?
「偏見」に染まりすぎている私には、偏ることなく調和がとれていることの意の「中庸」だからですぅ~~(おいおい^^)。

と、かなり横道に逸れちゃいました~^^が、これが、光源氏の大まかな素性です。

もう一人の主人公は、薫(かおる)です。

薫は、第三部の「宇治十帖」と呼ばれるところから主役を光源氏から引き継ぎます^^。
源氏の再婚相手正妻女三宮が母親です。光源氏が48歳の時にできた次男になっていますが、本当は、光源氏の正妻女三宮を無理やり犯した柏木の子供なのです。
高貴の出で、何不自由なく優雅な環境で育ちましたが、幼いころから自己の出生に疑念を感じて、内心は憂鬱なとした日々を過ごしていました。
父親の光源氏も表向きは可愛がっていましたが・・・・。

実の父親の柏木は、妻に迎えるなら皇女であり、とにかく若い頃から慕っている女三宮をと、自分の身分と不釣合いを忘れ、望み続けていました^^。この柏木、本当に女三の宮を愛していたのか、私にはちょっと疑問もありますが^^。なんか、身分の高い皇女だったら誰でも良かったのでないかって思うんです。
女三の宮の猫まで無理に預かるんですよ~~^^。そして、その猫を女三の宮と思い異常なくらい可愛がります。
女三宮が光源氏へ降嫁したあともその想いは捨てきれずついに想いを略奪という形で遂げます。
その結果、女三宮は薫を産むのです。

しかし、その代償はあまりに大きく^^!
柏木の恋文が、光源氏に見つかり真相がわかります。
柏木は、光源氏が恐くて床に伏し、耐え切れずに病死してしまいます。
女三の宮も、若くして出家します。
実の両親に見放され、さらに光源氏も死にます。しかし、幸運の星のもとに産まれたんでしょう^^!子のなかった冷泉院(表向きは桐壺帝の第十皇子、実は源氏の子)と秋好中宮に実子同然にかわいがられ育っていきます。
光源氏にとっては、因果応報、因縁生起、業感縁起なのかもしれません^^。

そんな自分の出生の秘密を知った薫は、仏道に帰依しだし、ある時宇治に俗聖(出家せず俗のまま戒律を守り仏道修行する人)がいるという噂を聞き、宇治の八の宮(桐壺帝の皇子、光源氏の異母弟)のところを訪れます。ここから始まるのがいわゆる「宇治十帖」なんです^^。

薫、これは生まれつき身体になんとも言えない芳んばしい香を帯びていたことから「薫」と呼ばれます。幼馴染に匂宮(においみや)がいます。匂宮も、この「宇治十帖」の大切な中心人物です^^。匂宮は薫への対抗心から自身をファブリーズします。もう、プンプンです^^。
この二人の香に世間の女性たちはメロメロになっちゃいます^^。もう、どの公家でも引っ張りだになっちゃいます。しかし世間とは別に、匂宮は、冷泉院の女一宮に好意を寄せていて、厭世観を強めている薫は思いの残る女性関係は持つまいとしています。

しかし、薫も恋をしちゃいますぅ~~~^^!
そして、ライバル匂宮と一人の女性を巡っての駆け引きが~~~^^

さて、どうなるか^^?????

あとは、このあと(3)の次に書こうと思っている「源氏物語(4) 宇治十帖」をお楽しみ~~~ですぅ^^!!

そんでもって^^お待たせ~~~~~~~~~~~~~~~です^^!!
そして、ここから、第一の女性の「藤壺」の登場となります^^。
ぎょぇ~~~今回、残りわずかだぁ~~~~~~~~^^!!

桐壺帝は、それから数年が過ぎても光源氏の母である桐壺更衣が忘れられずにいました。
側近は、あれやこれやいろいろな女性を連れていきますが、その悲しみは癒えないままでした。
あ・あ・ある日~~~~、桐壺更衣に極似している先帝の四女の話しを聞きます。
そして入内させます。それが藤壺です。14歳でした。光源氏9歳のときに、5歳年上の藤壺は、義理の母となりました^^。14歳とすでに中年の桐壺帝、このとき桐壺帝は「私の娘と同じように、実の娘のように育てるから」って言い放ちました!!
大ウソ~~~~~~~~~~~~~~~でしたぁ^^!(おいおい^^)!!藤壺とは、御所にある屋敷の名前であり、そこに住んでいて、庭に藤が植えられていたことから呼ばれていた別称であります。
「源氏物語」の中では、藤壺の呼称は3人でてきますので、混乱を避けるために普通は「藤壺の宮」とか「藤壺中宮」と呼んで区別しています^^。

桐壺帝は、メチャクチャ藤壷に惚れちゃって、常に藤壷の部屋へ行くようになりましたが、そこに光源氏もいつも一緒に連れて行ってました^^。これが、桐壺帝の間違いでしたぁ~~~~~~~~~~^^!!

光源氏の初恋の人になっちゃいました^^。

そして、思いが抑えきれずに、ついに光源氏は~~、藤壺と夜を共にします^^!!
その契りで、藤壺は妊娠~~~~~~~!!!
桐壺帝は、予定日よりも2ヶ月遅く産まれ、それも光源氏にそっくり~^^でしたけど、自分の子だと信じきって手放しで喜びました。桐壺帝は、死ぬまで事実を知りませんでした。
これが、のちの天皇冷泉帝なのです。
この事実を知っている光源氏は、それからも執拗に藤壺との関係を要求しますが、あの契り以外、生涯光源氏と一夜を共にすることはありませんでした。

光源氏は、その藤壺を忘れることはできないまま、また自分の生涯を閉じてしまうのであります。
でも~~、光源氏の最愛の人は、内縁の妻である^^紫の上だったのです。

と、いうことで^^
藤壺の続きから~~~「源氏物語(3)」は、女性の匂いプンプンで書いていきまぁぁす^^!
お楽しみに~~~~~~~^^!!

「源氏物語(1)」

2010-01-23 00:00:01 | 文学サロン

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源氏物語(1)
珈琲貴族が、「源氏物語」と出会ってもう20年が過ぎようとしています。

私の平安文学の入り口は、30歳過ぎての紀友則の一首の和歌からでしたが、「古今和歌集」、「新古今和歌集」などの勅撰和歌集からその読み手に関する人間を探っていくようになりました。
在原業平がモデルと書いてあったら「伊勢物語」を読み^^、清少納言がきれいだったって書いてあれば「枕草紙」、和泉式部が恋多き艶女だったと見れば「和泉式部日記」を読みで、1冊1冊を読むたびに平安文学に下心とともに吸い込まれていきました^^(おいおい^^)。
そして、清少納言や和泉式部に悪態を吐いていた「紫式部日記」を目にして、それからこの「源氏物語」にたどり着きました。
でも、紫式部は昔から、どうしても好きになれなくて^^、今もそんなに好きな女性ではありません。って、私に言われたくないですよね^^。

でも、この「源氏物語」は別です。読むたびに惹かれていって、次第に中毒になり^^、いろいろな人が書いた「源氏物語」やそれに纏わる書籍を読み捲くりました^^。

この「源氏物語」の最大の魅力は、読んでいるとそこが虚構の世界であることを完全に忘れさせてくれることにあるのかもしれません。
まるで平安史実、正史を読んでいるような錯覚に捉われてしまいます。
「あっ、そうかこれはフィクションだった^^。」とオーバーでもなんでもなく、本当に何度も経験したことなんです^^。

それから、光源氏や薫が出会い、そして重ねていく恋愛相手の数々に、もし自分が光源氏だったら、薫だったら、この女性は、誰々^^、この女性は誰々~~て、想像も掻き立ててくれます^^。
まるで自分が「源氏物語」の主人公を演じているようになっちゃうんです^^。

いったい光源氏は、何人の女性と肌や思いを重ねてきたのでしょうね^^。

3歳で別れた亡き母の面影そっくりな義母であり現天皇の妻である藤壺、12歳で政略結婚させられた4歳年上の葵の上、生涯愛し続けながらも正妻にしなかった紫の上、人妻で身分が低いために光源氏を拒み続けた空蝉、空蝉と勘違いをして抱かれた軒端萩、光源氏の政敵の娘である朧月夜、女の美貌と教養で虜にする天皇の弟の正妻六条御息所、すぐに男を受け入れる夕顔など、まだまだこれだけではありません^^。

その女性たちとの出会いや遣り取りは、「源氏物語(2)」に満載しようかと思っています^^。
それぞれの女性に贈った和歌、そしてそれらの女性からの返事の和歌、たまらないくらい素敵で切ないんですよ^^。
「まぁ、ここまで書くか~^^」て、照れるような和歌もいっぱいです^^。

本当に誰が一番~~って、選べないくらい魅了させてくれるんですよ~~^^!!

この艶かしさ溢れる物語が出来て一千年が経ちました。

私の枕元に9冊、そして机の隣の本棚に15冊以上の「源氏物語」関連の本があります。

半分は図書館の本ですが、延長延長、そしてまた延長ですでに5年以上借りっ放しの本もあります^^。あっ、もちろん更新更新していまぁぁす^^。
図書館は、私には欲しくても高価で手が出なかったり絶版になっていたりで、本当に図書館さまさまでもあります^^。

「現代訳源氏物語」 与謝野晶子
「現代訳源氏物語」 谷崎潤一郎
「現代訳源氏物語」 瀬戸内寂聴
「源氏物語を読む」 瀧浪貞子
「源氏物語カルチャー講座」 福嶋昭治
「源氏に愛された女たち」 渡辺淳一
「わかれば源氏はおもしろい」 瀬戸内寂聴
「寂聴源氏塾」 瀬戸内寂聴
「源氏の女君」 清水好子
「源氏物語の文体と方法」 清水好子
「源氏物語五十四帖」 清水好子
「紫式部」 清水好子
「源氏物語ハンドブック」 鈴木日出男
「宇治十帖は紫式部は書いていない」 西野正彬
「紫式部日記」 小谷野純一
「紫式部日記(上と下)」 宮崎荘平
「源氏物語」 日本古典文学全集

「王朝文学史」 秋山虔
「王朝の文学空間」秋山虔

昨年、そんな私に秋山虔(けい)の「王朝文学史」一冊の本のプレゼントがありました。
一冊6,200円で欲しくて欲しくてたまらなかった本です^^。
それを戴いた夜、嬉しさのあまり枕にして寝ちゃいました~~~。

もちろん、難しくて全くわからず途中で挫折したものは数知れません^^。30冊を悠に越えているんじゃないかと思います。
「源氏物語の基礎研究」岡一男、「源氏物語の史的空間」後藤祥子、「源氏物語の準拠と話型」日向一雅、「源氏物語の個人・家族・社会」工藤重矩などは、本当にチンパンジーでしたぁ~~^^、じゃなく、珍文漢文じゃなく^^、チンプンカンプンでした^^(おいおい^^)。
中でも、「源氏物語」を読むなら是非是非^^にと薦められた和辻哲郎の「日本精神史研究」と江戸時代の国文学者本居宣長の「源氏物語玉の小櫛」などは、あまりの難解さに怒りが爆発して、借りている本にもかかわらず思いっきり壁に投げつけてしまいました^^。

それでも、「源氏物語」に関する書はなんでも一度は触れてみたいと^^!
恐いもの見たさもあるのですが、それほど魅力が次から次に出てくる本当に不思議な魔法のような物語なんです^^。

そんな思いで、これから数回に分けて、「源氏物語」を書いてみたいと思います。(こらこら^^、どんな思いなんじゃぁ~~ですよね^^))!

あらすじを順番に書いていっても、それであれば、既に多くの方が書いていますし、面白くありませんので、珈琲貴族としていろいろな方向からみて、「源氏物語」の素晴らしさを表現できるようなものにしていきたいって思っています^^。

この「源氏物語(1)」では、「源氏物語」の周辺から書いていきたいと思っています^^。

「源氏物語」、それは世界最古の長編恋愛小説と言われているものであります。

この「源氏物語」を要約すると、平安の中期を舞台として、天皇の皇子(おうじ)として美と智の両方を欠けることなく生まれた光源氏が繰り広げる若い頃の数多(あまた)の華やかなそして哀しい恋愛と苦悩、宮中の於ける地位の明暗、最愛の女性を亡くした晩年の空虚、光源氏の死後の子孫の恋愛を綴ったまるで絵巻のような物語です^^。

一般的には、光源氏の女遍歴の物語だとの印象が強いのですが^^、この本を読めば、「人間の生き様と人間の本質」を作者が描こうとしたのではないかと思われるような物語です。

おそらく世界でこの手の小説としては、ナンバー1の売り上げではないでしょうか。
もちろん、本としては「聖書」に勝つものはありません^^。
すでに「新約」「旧約」を併せて4000億冊とも言われています。
一冊売れる度に「倍売る」と言われていますので^^ここまでなったんじゃないかって^^。
えっ、それは「バイウル」じゃなくて、「バイブル」~~^^!!(おいおい^^)!!

小説だけの分野であれば、世界一の売り上げは、サン・テグジュペリの「星の王子さま」になります^^。
平安の王子さまである光源氏はそれに肉薄しているのかもしれません^^(おいおい^^)。

翻訳の数も半端ではありません。
中国語「源氏物语」、ハングル語「겐지이야기」、英語「The tale of Genji」、フランス語「Le dit du Genji」、ドイツ語「Die Geschichte vom Prinzen Genji.」、イタリア語「Storia di Genji」、ロシア語、スペイン語、オランダ語と驚くぐらいまだまだ他の国でも多く翻訳されています。
どうして「源氏物語」はここまで世界中の人々を魅了するのでしょうか^^???

もし、紫式部が生きていたら、きっとあのビル・ゲイツぐらいの印税があるのかもしれません^^(ほんまかいな^^)。
そこまではいかなくても、少なくとも、J.K.ローリングの「ハリーポッター」よりは稼いでいるんじゃないでしょうか^^。
この「ハリー・ポッター」も全世界で4億部を売り上げで、これまで作者が得た印税は1997年に初巻が発売されてから12億ドル(約1100億円)に上るらしいです^^。

「源氏物語」は、全部で54の章から成っています。この章を「源氏物語」では「帖」と呼びます。

もちろん最初から読むことがベストなんですが、どの帖から読んでも楽しめます^^。

なぜ「帖」という括(くく)りなのでしょうか^^。
「帖」とは、折った本や帳面のことで、冊子の形になった紙をひとまとめにしてものを数える単位なのです。
ついでにぃ~~~~^^、「巻」という言葉は、「上巻・下巻」などに使われよく聞く言葉ですが、これはもともと物語に代表される紙というのは巻いたものでした。そこから「巻物」の単位が「巻」となって、今は少し違う使われ方をしているのです^^。

さてさて^^、「源氏物語」!
紫式部が作者だとされていますが、実際のところわからないのです^^(おいおい^^)!

紫式部自筆のものはもちろんのこと、平安時代に書写された「源氏物語」やそれの関するメモなど一切が現在までのところ発見されていません。

ただ、「紫式部日記」に自分が作者だと匂わすようなことを書いてあります。
一条天皇の「源氏の物語の作者は、日本紀をよく読んでいる」という述懐により日本紀の御局と呼ばれたことも肯定の材料になっています。

紫式部日記の中に、自分自身が周りの人からどのように見られているのかを書いている件(くだり)があります。
「いと艶に恥づかしく、人に見えにくげに、そばそばしきさまして、物語好み、よしめき、歌がちに、人を人とも思はず、ねたげに、見おとさむものとなむ、みな人々いひ思ひつつにくみ
しを・・・・」
直訳すると、「紫式部さんて気取り屋で、人を気後れさせて、近づきにくくてよそよそしくて、物語が好きで才女ぶって、何かにつけて歌を詠み、人のことを人とも思わず、憎らしげに見下す人だ。そんな人に決まっているって、みんなして思いもし、言いもして、あなたが来る前からあなたのことを嫌っていたの。・・・・」となるようです。
それを自分の日記に書く紫式部自身も恐い~~と、ちょっと後退りしてしまいますが^^。
まぁ、「紫式部日記」自体も本人の著ではないとも言われていますが^^。

ここに、「物語好み、歌がち」とあります。これがすでに「源氏物語」を執筆していて、そのことが宮中に知れ渡っていると解釈され、筆者は紫式部であると言われている第一点です。

二点目も「紫式部日記」の中にありますが、時の二枚目才人^^藤原公任(きんとう)が、1008年の11月1日の一条天皇の中宮(天皇の妻で皇后ではない)である彰子が産んだ親王の誕生50日祝賀宴で「あなかしこ、このわたりに、わかむらさきやさぶらふ(ちょっと聞きますがぁ~~~このあたりに「若紫」の巻に登場する姫君はいらしゃいませんかぁぁぁぁ。)」と紫式部のことを呼んだことも大きな要因になっています。

これに対して紫式部は「光源氏に似ていそうな人もお見えにならないのに、あの紫の上が、どうしてここにいらっしゃるでしょうと、聞き流していたわ」と無視をしたそうですが^^。

しかし、この呼び掛けからわかることは、 1008年11月1日の時点で「若紫」の帖まで完成していたということと、所詮は女の慰み読本とされていた物語が、藤原公任のような高官であり、最高文化人と称された人にも読まれていたことです^^。
きっと、紫式部はこの言葉に有頂天になって飛び上がらんばかりの喜びがあったと思われます^^。

日本紀の御局って??ですよね^^。

これも「紫式部日記」の中に綴られていますが、一条天皇が、「源氏物語」の「花の宴」にある文章が「続日本後紀」にある言葉を見つけて、「この人は日本紀をこそ読みためふべけれ。まことに才あるべし」と誉めたことにあります。これを耳にした下女が紫式部のことを「日本紀の御局」と渾名をつけたと記しています。

そして、紫式部が「源氏物語」の執筆者だと、決定的に位置づけたのが、藤原道長です。

藤原道長、時の最高権力者でもありました。一条天皇に長女の彰子を入内させ中宮とさせました。その彰子の宮仕えの一人として選んだのが紫式部で、これも道長の強い推薦からでした。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
道長が即興で詠んだ歌ですが、この歌は、道長の栄華を象徴する歌として、今も語り継がれているものです。
自分の娘を時の天皇の嫁にし、その娘の子供が成長して天皇となり、さらにその天皇にも自分の娘を嫁がせて、藤原家から3人もの中宮が出現した祝いの席での歌でした^^。
人生の絶頂期だったのでしょうね^^。

道長の負けん気は、何よりも藤原公任への思いが面白い場面があります。
それは日本四鏡の一つ「大鏡」の中に、道長が若い時に、父親の兼家が藤原公任を羨んで、息子たち三人に「お前たちは、とても公任には敵わないだろう。公任は何をとっても天才に値する人物であり、到底、影を踏むこともできるわけがないだろうな」って嘆いた時です。道隆と道兼はただ黙るしかありませんでしたが、道長は、即座に「影を踏むことはできないでしょうが、その面を踏んでやりましょう」と答えました^^!!
凄い自信家ですよね^^。

その道長、「源氏物語」の一番目の読者であり、紫式部の部屋まで来て原稿を催促していたようです^^。「源氏物語」の手稿本が藤原道長の命によって持ち出され、次女の妍子(きよこ)に贈ったとの記録も残っています。

藤原道長と藤原公任が、そして一条天皇が、「源氏物語」の作者は紫式部だと言っているのです。

しかし、この状況証拠だけでは紫式部が「源氏物語」を書いていないとする説に根強いものもあります。
理由は数点あって、まず先に書いた藤原道長を始めとする当時の何人もの人物がもてはやしたとされる作品であるにも関わらず、伝聞だけであり記録が一切存在していないこと。
次に、女性が書いたはずなのに、女性特有の言葉が一切出てこないこと、また、藤原家一族である紫式部が、当時の政治的に敵対している源氏を持ち上げるのは不自然極まりないなどが挙げられています。

紫式部は書いてはいるが、他の人間の手助け加筆があったとか途中から作者が代わったとの説も根強く今も論議されています。当時の物語は、「伊勢物語」然り、「宇津保物語」「竹取物語」然りで、全編を一人で書く事がなかったことがその前提にあります。

紫式部の父である藤原為時が原案を考えて大筋を書いた物を紫式部に渡して、細かい作業をさせた。藤原行成が、藤原道長が書き加えるところを見たなど、当時からさまざまなことが言われてきました。

「宇治十帖」と言われる最後に書かれた十帖は、完全に紫式部の筆ではないと、これは、広く多くの文学者や研究者の間で言われていることです。

一番有力なその執筆者は、大弐三位と呼ばれた紫式部の娘の藤原賢子(かたいこ)と言われています。^^。賢子も親に似て文才があり、百人一首の58番目の歌人として「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする」が入首しているんですよ~~~~^^。

「宇治十帖」と言う言葉が出てきます。
「宇治十帖」とは、なんなんでしょう~~^^。

「源氏物語」の構成から由来してきた言葉なんです。
「源氏物語」の54帖は、三部作とか四部作と言われていますが、私も多くが支持をしている三部作だと思っています^^。まぁ、私が思っても屁のツッパリにもなりませんけど~~^^。

「帖」のそれぞれの名前や分析については、あらためて今後の「源氏物語(2)」や「源氏物語(3)」などで書こうと思ってますので、ここでは大雑把に説明します^^。

第一部が、光源氏の前半生を書いている初帖の「桐壺」から「藤裏葉」までの33帖で、第二部が光源氏の晩年が書いてある「若菜 上」から「幻」までの8帖、そして光源氏亡き後の「匂宮」から最後の「夢浮橋」までの13帖です。ただ、42帖の「匂宮」、43帖の「紅梅」、44帖「竹河」は繋ぎ3帖で、最後の10帖、京都宮中から離れた宇治でのことが書かれているから「宇治十帖」と呼ばれています。

「源氏物語」において、この「宇治十帖」の評価は他の帖よりも評価が一段も二段も高くなっています。もちろん、紫式部が「一帖から書き上げていって、次第に見違えるほど上手くなったのよぉぉぉ~~」って言えばそうかもしれません^^。

この件で、文部科学省も検証を行ったんですよ^^。
1帖から41帖までと42帖から54帖までの名詞・助動詞の使用頻度をコンピューターで分析した結果が1998年に発表され、編に「あきらかに差がある」という分析結果が公表されました。

他にも、源氏物語はその前にすでにあったとされる説まであります。
現美智子皇后の教育係りであり和辻倫理学を確立させた日本を代表する哲学者の和辻哲郎によると、第一部と言われている33帖は、物語形成の上で、矛盾や不自然さが拭い切れなず、実は「源氏物語」以前に「源氏物語の原書」が存在をして、それに紫式部が新しい帖を作り上げたと言い切っています。
それくらいしか和辻哲郎の書は、やっぱりぃ~さっぱりぃ~~理解できませんでしたぁ~~。

ここで、梅原猛の随筆「思うままに」で、実在しない光源氏と実在した在原業平の恋の違いを書いたものを紹介します^^。

“源氏にも藤壺との間の恋のように危険な恋があったが、処世の知恵をもっていた源氏はその関係を用心深く秘した。藤壺の場合を除けば源氏と女性たちとの関係は、葵の上との場合のように政略結婚によるものか、権力も財力もある源氏との庇護・被庇護を前提とするものであろう。行きずりの恋之相手の夕顔とはもちろん、源氏が自ら育てた紫の上とも後者の関係であろう。 ・・略・・ 一夫多妻を原則とする貴族社会において光源氏が理想の男性として称えられたには、彼が一度関係をもった女性は全て一生庇護したからであろう。未摘花は世にも醜い女性であったが、源氏は暗闇の中でそうと分からずに関係を持った。にもかかわらず源氏は彼女を一生庇護した。”

“昔男、在原業平の恋の場合は全く違う。やがて清和天皇の皇后になった二条后や文徳天皇の皇女の伊勢斎宮との間の世間をもっとも騒がせた業平の恋は、まったく身分や境遇を越えた恋であった。 ・・略・・ それは裸の男と女の間に燃えた恋であり、世間的な利害打算も庇護・被庇護の観念もまったくなかったといってよい。奔放な恋愛遍歴によって東国へ追放になった業平は、東国でもさまざまな女性と関係を持った。それらの女性の中には多少身分の高い女性もいれば、まったくしがない女性もいたが、どの場合もまったく利害打算、庇護・被庇護の関係を離れた裸の男と女の関係、しかも優美な恋の関係であった。” 

あくまでも計算と打算での男と女の関係を作り上げていく光源氏と、見境なく惚れた女にのめり込んでいく在原業平^^。そう分析しています。
その辺も触りながら、次回は書いていきたいと思っています^^。

これから、「源氏物語」を読む方へ、ですが^^。
現代語訳は、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴で読むことができます。
そして今泉忠義がいます。ほかにも、玉上琢弥、中田武司、秋山虔、舟橋聖一などがいます^^。これから読むのであれば、瀬戸内寂聴をお奨めします^^。
実にわかり易く書いています。ただ、瀬戸内寂聴の思い込みが強いことを除けばですけど^^。

谷崎は、女が描いた小説を男の気持ちで訳しているから無理があるのと、やはり当時の戦時下での言論統制も重なって面白さを半減させています。
その点、明治の女傑与謝野晶子の訳は、さすがだと唸らせてくれますが、文体が古く馴染めないところも多々あるんです。

この回、最後の最後になっちゃいましたが、「蜻蛉日記」があります。「蜻蛉日記」作者は、右大将道綱の母です。
嘘のない、ありのままの日記を「かげろうのような人生」と言う意味を込めて作者自ら名付けた日記です。藤原兼家の次席妻です^^。そして藤原道綱の母です。兼家の首席妻には、すでに時姫がいました。この時姫は、藤原家の栄華を絶頂にした藤原道長の母であります。
「蜻蛉日記」は、隠すことなく赤裸々にその次席妻の悩みや恨みつらみを書き綴った誇り高い女性の21年の日記であります。いつかこの「蜻蛉日記」も詳しく楽しく書いていきたいと思います^^。
同じ日記である「更級日記」の作者菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)は姪っ子になります^^。

えっ、「源氏物語」に「蜻蛉日記」が関係あるの~~ですよね^^。

「蜻蛉日記」がなければ、紫式部は、あの「源氏物語」は書けなかったのかもしれません。
おそらく書いたとしても味気ないものになって、1000年も読み継がれていかなかったかもしれません。
それは、「源氏物語」の登場人物、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)と夕顔にあります^^。

と、気になるところで今回は終了~~~~です^^(おいおい^^)。

次回は、その辺も併せて書いていきますね^^。
「源氏物語2」、2月には公開しようと思っていまぁぁぁぁす^^。

平安時代の生活と性考証~~^^文学番外編^^

2010-01-18 00:00:01 | 文学サロン

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「小野小町(1)」から約10ヶ月もサボってしまいましたぁ~~。

そして、その上~~今回!「小野小町(2)」でなく、「平安時代の生活と性考証」という文学とはちょっと懸け離れた題材をテーマにしています。
なんて、いい加減な奴なんでしょうね、珈琲貴族って^^。
あっ、性交渉じゃないですよ~(おいおい^^)!

それに、次回からはどうしてもなにがなんでも書きたかった^^紫式部の「源氏物語」を続けて数編書いていこうと思っています^^。
そのあとぐらいに「小野小町(2)」をって^^(おいおい^^)。
本当にいい加減な奴ですね^^!!

今回どうしてこのテーマにしたかと言いますと、次回からの「源氏物語」が宮中を中心としたお話しであり、私の平安文学のお話やあの時代の文学を皆さんが読むに当り、少しでもその時代の背景がわかれば、もっと面白くなるんじゃないかって思いましたぁ~~~^^。

受験生もこれは、必読です^^!
これを読めば、平安時代がすべてわかっちゃいますぅ~^^!!(こらこら^^、ほんまかいな^^)

さてさて、平安時代とは!

「なくよ(794) うぐいす ホ~ホケキョ~(おいおい^^)」でなく、「鳴くよ 鶯 平安京」ですよね。794年に京都が都になります。
でも、実際は、平城京(奈良)のあとがすぐに平安京じゃないんですよ。
その間に長岡京が10年くらいあったんです。平城京から北へ約40~50kmで今の京都府長岡京市辺りになるんですけど。でも、教科書には載っていません。
桓武(かんむ)天皇のときですが、不吉なことばかり起きるので、桓武天皇も降参して、その長岡京から平安京へ遷都し直しました。それからは何も起らずに天皇は、桓武天皇だけに感無量~~だったでしょうね^^(おいおい^^)。
それから約390年、鎌倉幕府が開かれるまで、時代は続きました。

私たちは平安時代の400年を「平安時代」と言う言葉で一緒くたにどうしてもしてしまいがちになります。
390年もの長さです。
今世でも、現代でくくりながら、明治、大正、昭和、平成の約150年が一緒でないのと同じです^^。

武家勢力同士の争いも大きな変化があり、390年後には源氏による鎌倉時代が開かれます。
都が京になり、天皇を中心として藤原氏、源氏、橘氏、菅原氏、清原氏などの地方豪族が台頭してきて、それぞれの地方を任される国司となりました。
中でも、その政治の中枢は藤原氏となり、栄華の栄華を極まるようになりました。
1140年頃まででしょうか。その栄華の陰に清原氏と菅原氏が没落して、また、藤原氏も衰退していき、出てきたのが平氏(平家)です。ここから源氏と平家の闘いが始まります。そして1140年から50年後の1192年には源氏の鎌倉幕府が出来て、京の天皇はただのお飾りとなっていきました。

和歌で言えば、飛鳥から奈良の万葉集から平安末期までの有名歌人としては、
飛鳥時代(万葉集)
天智天皇、持統天皇、柿本人麻呂
奈良時代(万葉集)
山部赤人、阿部仲麻呂、山上憶良、大伴旅人、大伴家持

平安前期(古今和歌集編纂)
小野小町、在原業平、菅原道真、紀友則、紀貫之、喜撰法師、伊勢
平安中期(後撰集、後拾遺集編纂)
藤原道綱母、藤原公任、紫式部、清少納言、和泉式部、藤原道長、藤原実方、赤染衛門
平安後期(千載集編纂)
西行、法然、後白河天皇、藤原定家、建礼門院右京大夫、寂蓮
達になるのでしょうか。

この時代、本当に庶民も含めて雅(みやび)な社会だったのでしょうか^^?
平安時代以前万葉の世も含むSEXは、いったいどんなものだったんでしょうか^^(おいおい^^)。そんなことに焦点を当てて書いていきますね^^。

昔のSEXにまず私が興味を持ったのは、万葉集の「浦島太郎」でした^^。万葉集巻9の1740に出ています。御伽噺の「浦島太郎」は、最初は万葉集の高橋虫麻呂作の長歌から始まったのです^^。
1741には、「常世辺に 住むべきものを 剣大刀しが 心から鈍(おそ)や この君は(長寿の世界で楽しく住んでいられたものを、自分の心からとはいえ、こいつは何とマヌケな浅慮な人なのだろう)」と返歌されています。

あの竜宮城は、実はセックス三昧を意味しているんです^^。
男と女の交わりは、当時、不老不死の薬と思われていました。子作りもその不老不死に繋がるものだとして。平安時代に書かれた「浦島子伝」、「続浦島子伝」には性愛の秘術が詳しく描かれているんですよ~~^^!

少し話は横道に逸れますが、それらの本を紐解いていくうちに、韓国の女史の李寧煕(イ・ヨンヒ)「枕詞の秘密」という本を見つけました。
万葉集は、枕詞を使ったエロ歌^^と暗号歌^^に他ならないと言い放っています。まず、枕詞のほとんどが韓国からの輸入言葉であることを断定してからから始まります。
日本の最初の万葉集は実は韓国人が作り上げたもので、日本人が勝手に解釈をして意訳していると書いてあります!
このことは、少しだけ私の
万葉集から新古今和歌集までの流れ^^←クリック^^
に書いていますが、遥かに私の予想を遥かに上回るものでした^^。

「枕詞」って、意味がないままに伝承された和歌の修辞語です。「あをによし」「にわたずみ」「しらたまの」「たらちねの」などで幾つあるのかは特定されていません。
わかりませんが、100近くになるのかもしれませんね。主に万葉集の4500首に多く見られる言葉なんです。

韓国の百済が滅びたときに、優秀な人材20万人が日本に上陸をして漢字を広めたとあります。それが、西暦660年ごろです。万葉集の成立がだいたい760年くらいです。
ご存知のように万葉集は、万葉仮名という今で言う当て字の漢字ですべて書かれていたんですよ^^。

例えば額田王(ぬかたのおおきみ)の有名な和歌で書くと
「茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流」と言うふうに。
「茜(あかね)さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る」と読みます。

「あかねさし」は、李寧煕(イ・ヨンヒ)女史によると「赤いマラ(おチンチン)でセックスしよう」と読むそうです^^。

詠み人知らずの「たらちねの 母が飼(か)ふ蚕(こ)の 繭(まよ)隠(ごも)り いぶせくもあるか 妹(いも)に逢(あ)はずして」の枕詞「たらちねの」は、「垂れたマラ」と解釈されます^^。

(男)『「垂れたマラ」をこうして押し込んではいるけど怨んではいけないよ』
(女)「でもね、あなた、そんなに荒々しくしたら、私のが痛くなっちゃいます。かわいそうだと思いませんか」と訳するそうです^^。
ぶっ飛びますよね^^。私は、ぶっ飛びましたぁ~~^^。

他にも、「おみなえし」は「女を征服する」、「うまどりの」は「おチンチンを押す」など、もう好き勝手です^^。

この書と「もう一つの万葉集」でいけば、日本人は、万葉集の本質をわかっていないそうです^^。そして万葉集は日本人が勝手に作り上げた綺麗な妄想だと言っています。

しかし、ありえないと日韓の文壇と学者たちから論破否定されました。
私は、その時に何故かとっても安心をした記憶があります^^。
ただ、ここまでのことを研究させる「万葉集」っていうものは、「枕詞」って言うものは、ある意味、化け物書物であるし、化け物言葉なんですね^^。

さぁぁて、本筋に戻って、平安時代の考証をしていきますね。

ほとんど、平安時代というと貴族社会ばかりが全面にでて、実に優雅に見えちゃいます。
でも、そんな生活をしている人は、極、わずかでした。

「貴族」は、701年の「大宝律令」のもとでの朝廷を支える役目として生まれました。
三位以上を「貴」と呼び、四、五位を「通貴」と呼びました。「貴」は上流貴族として、「通貴」は中流、下流貴族に位置づけられました。「位」とは、今の世にも叙勲などに見る階級です。十位まであり、そのそれぞれに正従があります。韓国では「品」となります。正一位は、関白や太政大臣あるいは征夷大将軍(江戸幕府の将軍など)で、将軍の生母や明治初期の公爵などが従一位でした。今は、正一位はなく、従一位からのただの名誉位となっていますが、戦前までは、相当の格式をもった厳格な階級を顕していました。

人口は、550万人から650万人に推移していきましたが、平安京には20万人くらいしかいませんでした。
貴族は、全国で1500人くらいで、平安京では1000人くらいなのでしょうか。
しかしその貴族の中でも本当に優雅な暮らしが出来た貴族は、300人にも満たなかったようです。

それでは、その貴族さんと庶民さん、食事は、住まいは~~ですよね^^。

庶民は、肉を食べていました。肉と言って猪や兎や鹿などです。貴族は、仏教思想からなかなか肉を口にすることはありませんでした。お酒は、どちらも濁酒(どぶろく)だったようですが^^。

庶民の献立なんですが、それでも肉は、ご馳走の中のご馳走で普段は、玄米(粟・ひえ)の主食・漬物(わらび・瓜)・青菜汁・粗塩のみです。
粗塩は主食の上にのせて食べることになっており、無味の主食に塩味をつけておかずの代わりにしたんですよ~とにかく、味が付いていないのです。それは、貴族の食事も同じでした。

貴族の食事は、白米の主食・魚の干物・漬物・ゆでわかめ・吸い物となっており、他に塩・味噌を主食にのせて食べるということになっています。
平安時代は食事は10時と4時の2回だけでした。食事が1日3回となったのは室町時代からですなんです。
こんな食事なので、特に貴族は平均寿命も35歳に行かなかったんですよ。

どうして貴族は短命だったかは、ほとんどが座位で肥満の貴族が実に多かったようです。
宮中に住んでいる高貴の女性も同じで、立つことがあまりなかったんですよ~~。
十二単なんか重いものを着ているから、どこにいくにも膝で歩いていました。信じられないようですが、事実なんです^^。だから、平安美人はデブっちょだったんですぅ~~^^。

貴族と庶民の住まいは、これも雲泥の差がありました。

都から少し離れた庶民でさえ、平安初期のそのころまだ竪穴(たてあな)式住居だったんですよ^^。本当~~でぇす^^。
このころの竪穴式住居は50~100cmほどの縦穴を掘り、その四隅に支柱を立てて壁や屋根の支えとするのが一般的でした。もちろん、玄関などなく、草とか木の板で表を覆っていました。炊事は晴れは外、雨の日は中で作っていました。
都の住まいにしても、土塀になんとか屋根つきで、土間と台所と座敷一部屋が一般的でした。
平安の中期には、地方へ普及して、竪穴式住居から、土塀茅葺屋根の家に変わっていきましたけど。

それに対して、貴族は、っていうと、六位以下の役人は約1100坪でしたが、三位以上の役人は最低でも約2200坪もありましたし、正二位以上の最上級貴族の邸宅は、4400坪を基準にした広大なものでした。120mの四方の正方形を考えてくださぁぁい^^。
物語ではありますが、35歳の時に「源氏物語」の光源氏が建てた館は、20000坪ありました。250m四方になります^^。
因みに今の皇居は、 約35000坪です^^。340m四方となります。 坪~~ってわからない方もいるのでは^^、1坪は3.3㎡でだいたい畳二枚(二畳)です^^。

寝殿を中心にして、対屋、泉殿、釣殿、雑舎、車宿、総門、中門、築山、池、遣水などからなる邸宅でしたぁ^^。これを寝殿造と言います。
南面して造られ、中央に寝殿があり、その北、東、西にそれぞれ北の対(部屋)、東の対(部屋)、西の対(部屋)があり、東と西は、子供たち、北は夫人の部屋となっていました。
だから、時代物の小説やドラマに出てくる北の政所(まんどころ)とか北の方(かた)などの「北」は正夫人を意味しているんです^^。

でも、平安時代に公衆衛生という概念はありませんでした。貴族の屋敷にも、庶民の家庭にもトイレはなかったんですよ~~~~^^。貴族は砂を敷いた箱に用をたして、その後、蓋(ふた)をして、係が外に砂ごと捨てていました。さすが貴族で箱は豪華。大型の重箱みたいで便器とはとても思えなかったみたいです。また、屋敷に流れる川はトイレの替わりでもありました。
庶民は、女も男ももちろん野糞。道路でも平気で尻を出して用をたしていました。町はずれにはゴミ捨て場兼死体置き場があって、そこも公共トイレとして利用された。ゴミも死体も大小便も片づける人はいなかったそうです。
正式に便所と言う物が出来たのは、日本に於いては室町時代からだったのです。

もう、街中が臭くてたまらなかったでしょうね^^。

それでは、平安時代の公家や武家の結婚とはどんなものだったのでしょう^^。
信じられないですよ~~~、きっと^^!

女性は人目を避けるのが嗜(たしな)みであって、男性には顔を見せなかったんです。
上流家庭にいくほど、それは極端になって、女性が結婚するまで顔をみせるのは、両親だけの家もあったそうです。だから、男兄弟がいる家では、妹や姉の顔を知らないこともあったそうです。まず、第1のぎょぇ~~ですよね^^。

だから、男性と知り合うのは、傍にいて世話をしてくれる人たちの噂を聞いて、御簾や塀の隙間から異性をちらっとみるくらいでした。もちろん、すべての女性ってわけではありませんが。
幼馴染(おさななじみ)との恋愛はちょっと違うのですが、男性も同じで、直接顔を見てはいないのですから、いろいろな人の噂が最大の情報源でした。
そして、意中の女性だと思ったら、「懸想文」という恋文を贈りました。
その恋文は、女性に渡される前に乳母や女房(身の回りの世話をする人)、母親によって読まれ、
その男性に対する評価がされました。もう、男性の教養が物を言う世界です^^。
評価が良しとされれば、その手紙は、やっとこさで意中の女性のもとへ渡されました。
なんと~~~~、手紙の返事は、最初、女房(身の回りの世話をする人)が代筆し、交渉の進展によって、女性の自筆のものを送ったんですよ~~~~^^。
これって、ぎょぇ~~~~2でしょ^^。

そして、いよいよ恋愛が始まります。
女性から承諾の手紙をもらい、お互いの身内の同意が得られると、男性は、女房に手引きを頼んで、吉日の夜に女性の部屋へ行き、契りを結んだんです。所謂、公認の夜這いです^^!
ぎょぇ~~~3ですよね^^。

そして、夜這い男(おいおい^^)がその一夜を過ごした女性を気にいったら、男は「後朝の手紙」を送ります。好きという証です。

ほとんどが和歌になります。返事も和歌で返します。

「後朝」は、「ごちょう」や「こうちょう」とも読みますが、「きぬぎぬ」と読みます。
いろいろな意味がありますが、男女が共寝をして過ごした翌朝。また、その朝の別れが、一般的な意味だと思います。
その日から、三晩にわたって、男性が女性のもとに通うのが、結婚の意思表示とされ一晩二晩で通わない場合は、単なる浮気とみなされたんです。中にはどうしても娘の夫にと履物を隠す親もいました^^。
その三日目の夜は、三日夜の餅を供え、夜が明けて、「露顕(ところあらわし)」という、女性の両親や親類知人との対面があり、祝宴が行われました。披露宴です^^!!夫の親族は出席をしませんでした。これで二人は、晴れて夫婦になりました。とっても変ですよね^^。

そして、しばらくは通い婚です。ある程度それが続くと、同居などあったようですが、普段は同じ敷地内の別棟で寝起きするという生活が当たり前でした。

とにかく平安時代は、強姦や夜這いがどこか当り前の世界でもありました。女性もそれを待っていた節もいろいろな書物から窺えます。
だから、顔を見ずに、噂だけで夜這いに行ったり、間違って隣の部屋の女性としたり^^。
朝、お互いの顔を見て幻滅したりと、本当にミステリーでもありました。
キスは、くちすひ(口吸い)といって、あまり和歌では詠われません。
キスは相当な変態行為だったと言われています。
キスからでなく、いきなりとは、いやはやと呆れるばかりですよね^^。

「医心方」という書があります。これが、公家や武家のセックス教本でした。
丹波康頼が編纂しましたが、これが日本最古の医学書なのかもしれません。
丹波康頼は、912年(延喜十二年)に生まれ、995年(正暦六年)に83歳で亡くなりました。この「医心方」を朝廷に献上したのが、984年(永観二年)で72歳のときでした。

その「医心方」の全30巻なんですが、その28巻「房内篇」がSEX教本でした^^。

編纂してから1000年経った1907年に改めて印刷をして発刊した書店があったのですが、発売と同時に発禁になりました。そのあとも何度も発禁処分となりました。
理由は、過激な「HOW TO SEX」でした^^。
この書は現存しており、戦後、国宝になり、東京国立博物館に保管されています。京都の仁和寺にはその写しがあるそうです。

「房内篇」は房内での養生法(ようじょうほう)についてまとめたもので、次の30章からなります

1.至理-道理にかなったセックス
2.養陽-男性のための房内術
3.養陰-女性のための房内術
4.和志-心の融合
5.臨御-前戯について
6.五常-ペニスにそなわった五つの道
7.五徴-女性の性反応の五つの徴候
8.五欲-女性の性反応での五つの欲望
9.十動-女性の性反応での十の動作
10.四至-ペニスの勃起の四つの過程
11.九気-女性の気のてがかり
12.九法-九つの技法
13.三十法-三十の体位
14.九状-ペニスの九つの技法
15.六勢-ペニスによる六つの攻め方
16.八益-八つの利益をうけるセックス
17.七損-セックスによる七つの損傷とセックスによる対処法
18.還精-精液をもとに戻す
19.施写-射精について
20.治傷-セックスによる損傷の治療法
21.求子-子どもがほしいとき
22.好女-男性を長生きさせる女性
23.悪女-セックスでのよくない女性
24.禁忌-セックスを避けなければならないとき
25.断鬼交-亡霊や妖怪とのセックスを断つ方法
26.用薬石-性欲を強める薬と弱める薬
27.玉茎小-ペニスを大きくする
28.玉門大-ワギナを小さくする
29.少女痛-バージンの痛みを和らげる
30.長婦傷-成人女性のセックスによる損傷の治療法

凄いですよね^^!!
こんなものが、もう平安時代にあったんですから^^。

これは、中国の「洞玄子」から多くは抜粋をしているそうです。
しかし、この中国の「洞玄子」の原書はすでになく、「洞玄子」の完全版は「医心方」にだけ存在するそうです。「洞玄子」は、もともとは、セックスを通して、「不老不死」 という目標を実現させることを主張したものです。
そのセックスのやり方まで指南しています。それが13.三十法です。
これは、平安宮中はもとより江戸徳川家の将軍の性の教科書としても使われていました。
そして、今の世にも十分に通用するそうです。
25.なんか読みたくなっちゃいますよね^^。

その一つですが、先ズ坐ス → 女ハ男ノ左ニ臥ス → 女ヲシテ正面ニ仰臥セシメル → 玉茎ノ堅キヲ以テ~~って、あ~~~~これ以上は書けましぇ~ん^^!!

このようなやり方が30も書いてあります^^。
よく今は、48手と言いますが、これは、江戸時代初めに絵師菱川師宣が「医心方」と相撲をヒントに作ったものです。

どんな技か知りませんが、一つ一つに素敵な名前、面白い名前が付いてますよね^^。(おいおい^^)

時雨茶臼(しぐれちゃうす)、 窓の月(まどのつき)、燕返し(つばめがえし)、乱れ牡丹(みだれぼたん)、立ち花菱(たちはなびし)、鯉の滝登り(こいのたきのぼり)、仏壇返し(ぶつだんがえし)、碁盤攻め(ごばんぜめ)、抱き地獄(だきじごく)、二つ巴(ふたつどもえ)、理非知らず(りひしらず)、やぶさめ、鶯の谷渡り(うぐいすのたにわたり)、深山(みやま)
千鳥の曲(ちどりのきょく)、松葉くずし(まつばくずし)

何がどんな体位って、正直私は、ほとんどわかんないんですけど、何か面白そうですよね^^。
今度、どなたか一緒に調べて珈琲貴族と試しませんかぁ~~(おいおい^^)!!

最後になっちゃいますが、日本最古のポルノ絵画って知ってますかぁ~~^^??

あの法隆寺の屋根裏で見つかった「女上位性交図」なんですよ^^!
奈良の唐招提寺や宇治平等院の鳳凰堂にも性画が解体修理の時に確認されいて、当時は魔除けの意味があったそうなんです。
720年に完成した日本最古の正史「日本書紀」にも、「二羽の鶺鴒(せきれい)という鳥が飛んできて交尾をした。それをみて、性行の方法を知りまねてみた。」と書いてあります^^。
その時の体位は、鳥を見てしたからバックであり、バックが世界的に見ても、最も古い体位とされているそ~~~~~~~です^^。

と、いうことで~~~~~~~~~~~~~^^、今回は終わりです^^。

次回、「源氏物語(1)」をお楽しみでぇ~~~~~~~~す^^。

「小野小町(1)」

2009-03-06 00:00:01 | 文学サロン

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今回は、絶世の美女小野小町について、話を進めていきまぁぁす^^。
一話完結といきそうにありませんので、(1)と次回(2)で進めていきますね^^。

2009年「蒼夜伽具夜物語」という歌を作りました。
小野小町と在原業平の一夜を描いたものです^^。近日公開しますねっ^^!!

私は、小野小町こそが、伽具夜姫だと思っています。月からの使者、そして月天女だと。

在原業平との恋はあったのでしょうか^^。さぁて、どうなんでしょう^^。
そのお話しは「小野小町(2)」でしていきたいと思っています^^(おいおい^^)。
勿体つけてどうすんねんですよね^^。

小野小町がどれほど美人であったかと言えば、世界の三大美女として、今も語られているほどです。クレオパトラ、楊貴妃、そして小野小町です。
ただ、この小町三大美女説って、日本だけなんですけど^^(おいおい^^)。
元々、世界の三大美人は、「クレオパトラ、楊貴妃、ヘレネ」の三大美人になっています^^。

クレオパトラは、ご存知のとおり、紀元前のエジプトの何とか王朝^^(調べたらプトレマイオス王朝でしたぁ~~)、最後の女王で、あのオクタビアヌスとの戦争に負けて、コブラに自分を噛ませて39歳で自殺した女性ですよね。
ある本で読んだのですが、そのときの死を直面しての悶絶しているクレオパトラが一番美しかったとか。いったい、その悶絶を誰が見たのでしょう^^。

楊貴妃は多くの皆さんはご存知ですが^^、それでは、ヘレネって?
あまり知られていない女性なんですよ^^。ギリシャ神話やローマ神話に出てくる女性なんです^^。
私は、高校時代にギリシャ神話が好きで、いったいこのヘレネってどんなに美しかった女性なんだろう~~って、よく想像しながら読んでました^^。
ヘレンじゃないですよ~~^^。ヘレンさんは西川きよしさんの奥さんですから!(おいおい^^)

大まかな話は、「パリスの審判」ってあるんですが、アテナ・ヘラ・アフロディーテの三人の女神のうち誰が一番きれいなのかを選ぶことになり、その審判を羊飼いのパリスに任せたんです。三人の女神は、パリスを買収して一番になりたいって争いました。
アフロディーテがパリスに「最も美しい女性を与えるね」って約束をしたことで、勝敗はアフロディーテへ^^。
その女性が、ヘレネでしたぁ^^。
アフロディーテもとんでもないですけど、パリスってただのスケベェな審査員ですよね^^。
それも、なんと、ヘレネはある国のお后だったんですよ~~すでに人妻~(おいおい^^)
これが、原因なのか、トロイア戦争の引き金になりましたぁ~~^^。いつの時代も女性から、争いは起こるのかも~~^^。

この「パリスの審判」のそのときの模様が、ルーベンスやロラン、そしてルノアールによって絵になっちゃっています^^。

私の平安文学は、紀友則の和歌に惹かれて入っていったのですが、基本的には、そこに小野小町、和泉式部、清少納言がいたから、色追い男のスケベ珈琲貴族は、熱中したのかもしれません^^。お会いしたら、挨拶よりさきにハグしたいって^^(おいおい^^)。パリス以下かも~~^^。

紫式部は、どうしてもどうしても好きになれなくて^^、でもあの紫式部が書いた「源氏物語」は、日本、いあや、世界の文学遺産だって言い切るくらいのファンなんですけどね^^。

近いうち、いよいよ、その「源氏物語ぃ~」を書いてみようかって思っています。
「小野小町(2)」「在原業平」のあとぐらいに^^。
何故、「源氏物語」は愛されるのか、何故、光源氏と珈琲貴族は似ているのかって^^(おいおい^^、似てない似てない^^)、宇治十帖がどんなに素敵なのかって。きっと(1)で終わらなくて、「源氏物語(1)、(2)、(3)」になっちゃうんでしょうね^^。

と、いうわけで、それで、やっと小野小町です^^。

古今若衆に、おいおい^^!ヤクザじゃないって^^。
古今和歌集の552に、
「思いつつ 寝ればや 人のみえつらん 夢と知りせば さめざらましを」
とあります。

訳すると、「恋しく思いながら寝入ったので、その人が現れたのだろうか。夢だと知っていたら、目覚めたくはなかったのに。」

私にとって小町の歌の中で一番好きな和歌(うた)です^^。
私が愛して止まない女性なのかもしれません。
小町の恋歌は、夢に見る歌が実に多いんです。

そのどれもが切なくて、どこか恋に恋するあどけなさを感じてしまいます。
これが、他の女性の歌人とは違う、容貌だけではなく、才女と伝わる知の美しさを醸(かも)し出している所以(ゆえん)なのかもしれませんね^^。

古今集553に「うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふ物は たのみそめてき」

訳は「不意に落ちたうたたねに、恋しい人を見ました。その時から、夢という頼りないはずのものを、頼みに思うようになってしまいました。」

古今集の657では「かぎりなき 思ひのままに 夜もこむ 夢ぢをさへに 人はとがめじ」

訳「果てしないあなたへの思い――この「思ひ」の火のままに導かれて、暗い夜だって、あなたのもとへ行きましょう。夢路までも人は咎め立てしないでしょう。」

新千載集には「恋わびぬ しばしも寝ばや 夢のうちに 見ゆれば逢ひぬ 見ねば忘れぬ」

訳「恋しさの果てに疲れきってしまいました。しばらくだけでも眠りたいかな。もし夢にあの人を見れば、逢えたということになるのでしょうか。夢に見なければ、せめて眠っている間は忘れることができます。」

古今集の554「いとせめて 恋しき時は むばたまの 夜の衣を かへしてぞ着る」

訳「どうにもならぬほど恋しい時は、夜の衣を裏返して着るのです。」
昔の言い伝えに、寝衣(寝間着)を裏返しにして眠ると、愛しい人の夢が見られると言われたことから、描いた歌になります^^。

私も裏返しによく着て寝ます^^。やっぱり、夢は見たいじゃないですかぁ~~^^。効果はありませんけど、私も恋に恋するうら若きジジイですから^^(おいおい^^)。

と、愛しい人を心のそこから恋しがる女性像が見えてきます。そして、えっ、あの小町がって意外性も^^。

でも、多くの皆さんの選ぶ小野小町の代表作と言えば、百人一首になり、古今和歌集の113として収められている

「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
になるのでしょうね。

小野小町ほど、謎の多い女性はいないかもしれません。
それは、彼女の記したものが少ないことと突然のように宮中から姿を消したことで、記録が残っていないのでしょう。
出生に関しても、本当に多くの諸説が今も飛び交っています。小町という名前に関してもです。

さて、小町~~~~~~~~^^、出生から、わかっていることを書いていきますね^^。
生まれは、秋田県雄勝郡雄勝町、福島県小野町、滋賀県彦根町、熊本県鹿本郡根木町とさまざまです^^。

福島の小野町は、有力ではないのですが、全国へ伝承に力を入れている所です^^。小野篁(たかむら)がこの地に左遷され、そのときに土地の娘と出来た子が小町になったと伝えてますし、滋賀県彦根町は、小野好実が通りがかって、宿の美しい娘を養女にして、成長して小町になったとしていますし、熊本県鹿本郡根木町は、小野良実(よしざね、良真とも書く)がこの地へ流され、長女・龍子と次女・小町がここで生まれたということになっています。ここには、小野小町が浸かったとされる泉まであるんですよ^^。秋田県雄勝郡雄勝町に至っては、「あきたこまち」というお米まで作りました^^。そして小野小町が生まれた秋田は美人揃いと。「秋田美人」の発祥は、小野小町だったのです^^。

まぁ、どれが本当なんでしょうね^^。

わかってないじゃん^^(おいおい^^)。

小野家の系図には、小野篁の孫となっています。先に書いた土地の娘と出来た子にはなっていません。ただ、この小野篁には、良実という息子がいて、その娘ではないかということです。小野良実には、二人の娘がいました。
「小野町」が姉さんで、その妹だから「小野小町」と呼ばれていたらしいのです。

それでは、「町」や「小町」は名前なんでしょうか?
これは、宮中に奉仕する官女や部屋を「町」と呼んでいたことに由来します。
小野姉妹は、采女(うねめ)として一緒に奉公していたために、区別して「小野町」「小野小町」と呼ばれるようになりました。

采女って、何?ですよね^^。
これは、13歳以上で各地方から特別きれいな女性を宮中に差し出して、天皇や皇后の傍で食事など身の回りの雑事をさせる女性のことなんですが、身分的には高くはないのですが、父親の階級はある程度以上でなければならなかったようです。
人質の意味もあったのでしょうね。

一番有力な説は、秋田県雄勝郡雄勝町かもしれません。小野篁、その息子良実も出羽の守として任じられていますから。

だったら本名は^^?
比右姫(ひゆひめ)だったと古今和歌集の目録にはあります。
でも、可笑しいのは、妹の小野小町が有名になり、お姉さんの小野町さんは、「小町の姉」の名前で古今和歌集に和歌が載っていることです。さぞや、お姉さんは悔しかったことでしょうね^^。
それだけ、妹の小町の才覚が抜きん出ていたこともあるのでしょうが^^。

小野小町は、気位が高く、淑女とされています。
数千人いた美女の集まりの宮中で、小野小町に振り向かない男性がいなかったとも言われています。どこまで美しかったのでしょうかぁぁ~~^^。

ただ、のちの伝説にもなりましたが、小野小町は、男性を受け付けない身体だったと今も学説として存在しています。
裁縫に使う「待ち針」は「小町針」とも言います。穴のない針のことです。
これは、小野小町が男を受け付けない穴(膣)のない女性だったから、この名前が付いたようです。
それにしても、凄い命名をしたものですね。「小町針」って、けっこう残酷かも~~~~~~~~~^^。
ただ、当時の資料もなく、死後解剖などが出来ない時代でしたので、その検証は、今となっては永遠に不明で終わるのでしょうね。

しかし、幾つかの恋をしていることも確かなようです。

在原業平とは、どうだったんでしょう~~^^。それは次回で~~~~~~^^(おいおい^^)。

私は、小野小町は、本当に一途に愛する男性にためだけに生きた女性だったのだろうなって思っています。
女性の貞淑が、まだ求められる時代ではなかった平安時代には、珍しい女性だったのかもしれませんね。

本当に気のない男には痛烈です。

「小町集」の中に
「ともすれば あだなる風に さざ波の なびくてふごと 我なびけとや」があります。

訳「ともすれば、ちょっとしたさざ波が立つこともあるでしょう、でも、実のないあなたの言葉に、靡(なび)けるわけないじゃないですか!」

と、小町に恋文を渡した相手を一撃しています^^。

「結びきと 言いけるものを 結び松 いかでか君に 解けてみゆべき」
は、もっと露骨に拒否をしています^^。

訳「私の心はすでに結びきっているって何度も申し上げているじゃありませんか!松に固く結んだものをどうしてあなたのために解かなければいけないのですか」

そして、この和歌の詞書(前書き)には「怪しきこと言いける人に」とあります。
小町に思いを馳せる男に「怪しき人!」です^^。
「妖しき」なら、いいのですが^^。

ただ、本当に本当に小町は、そんな身許の固い好かれる女性だったのでしょうかぁ~~^^。
「古今著聞集」という書に、「小野小町が若くて色好みしころ、もてなし有様、たぐひ無かりける・・・・・・・」と書いています。
「古今著聞集」は、鎌倉時代に編集された「噂の真相本」です^^(おいおい^^)。
今昔物語と宇治拾遺物語と日本三大説話集と言われているものです。

この本には、小町はクソミソに書かれています。

「衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍をととのえ、身には蘭麝(らんじゃ=蘭の花とジャコウの香り)を薫じ、口には和歌を詠じて、よろずの男をばいやしくのみ思いくたし」って。

「童蒙抄」なんかもメタクタですが、「小野小町盛衰絵巻」には、小町の死亡直後から、遺体が腐敗し、犬やカラスに食い荒らされていく小町の姿が冷酷なまでにリアルに10コマの絵に描かれているのです。

しかし~~~~~~~!!
江戸時代の国学者・本居内遠による「小野小町考」という詳細な考証があります。
この書によると、これらの伝説は、「玉造小町壮衰書」という書物から作られたものであり、実際の小野小町とは無関係なこじつけである、と書いてあります。

どっちが本当なのかわかりませんが、いまは偽者説の方が強いようです^^。あ~~よかった^^って思っている珈琲貴族でしたぁ!
ただ、死んで300年、500年、そして1000年経ってもいろいろな伝説で語り継がれる女性って、凄いですよね。只者じゃないですね^^、小野小町って^^。

それでは、小町が一途に思う相手は誰だったのでしょう。
小町は、文屋康秀、安倍清行、小野貞樹らと歌のやり取りをしています。
でも彼らではないようです。

ちょっと、話はそれますが、小町は「六歌仙」の一人でした。小野小町、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰、大伴黒主の六人です。
「六歌仙」、古典とかの授業や和歌の世界でよく聞く言葉ですよね。
この「六歌仙」は、あの紀貫之が、「古今和歌集仮名序」の中で、<近き世にその名きこえたる人>と評した六人のことなんです^^。「六歌仙」という名前は、後世に付けられました。

ただ、面白いんですよ。

紀貫之は、「古今和歌集仮名序」の中ではその六人を褒めてないんです^^。
その部分だけを抜き取りますと、
すなはち僧正遍昭は、歌のさまはえたれども、誠すくなし。たとへば絵にかける女を見て、徒に心を動かすが如し。
在原業平はその心余りて詞たらず。しぼめる花の色なくて、にほひ残れるが如し。
文屋康秀は、詞たくみにてそのさま身におはず。いはば商人のよき衣着たらむが如し。
宇治山の僧喜撰は、詞かすかにして始め終りたしかならず。いはば秋の月を見るに、曉の雲にあへるが如し。よめる歌おほく聞えねば、これかれかよはしてよく知らず。
小野小町はいにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめる所あるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。
大伴黒主はそのさまいやし。いはば薪を負へる山人の花の陰にやすめるが如し。
と、けっこう酷評しています^^。
では、何故?これが褒めたことになるのでしょうか^^。疑問ですよね^^!

紀貫之の中で、柿本人麻呂と山部赤人の2人は特別です。もう、神様に近いくらいの存在でした。その2人に比べたら、遥か下界に存在する歌詠みに過ぎなかったのですが、紀貫之は、六歌仙以外の人たちは、歌詠みにも値しないと言っているのです。
そのことから、今、「六歌仙」への高い評価があるのです^^。

「六歌仙」の簡単な覚え方があるんですよ~~~~^^。

「変なりぃ~~小町の黒きフン」で覚えちゃうんです。
変=僧正遍照、なりぃ~=在原業平、小町=小野小町、黒=大友黒主、き=喜撰法師、フン=文屋康秀

ねっ、一発でしょ^^。これで、試験も大丈夫ですよ~~^^。

少し軌道修正~~~して^^、
それぞれが、下心見え見えの珈琲貴族のような背筋が寒くなるくらいの歌を贈っています^^。

そのひとつです^^!
安倍清行は、京都の鴨川にあったお寺で法事のあと、坊さんの法話を自分なりに歌にして小町に贈りました。その法事に出ていた小町の美しさにただ見惚れていました。

「包めども 袖に留まらぬ 白玉は 人を見ぬ目の 涙なりけり」と^^。

法話を心に包もうとしても、袖に溜めることができずにこぼれてしまう白玉は、あなたに会えなくて悲しんで流す涙なのでしたあ~~って。

これに対して、小町ちゃんは、

「おろかなる 涙ぞ袖に 玉はなす 我が堰(せ)きあへず 滝つ瀬なれば」と返しました。

あなたは女のことを考えて疎(おろそ)かに説法を聴いていたから袖から溢れるほどの涙しか流せなかったんじゃないですか、私は雑念なく聴いていたので滝のような涙が流れています、そんなあなたっていい加減な人ですね。だって~~^^。
これもまた、きつい一発ですよね。

だったら、本命は誰だったのでしょうね。

小町、恋物語と言えば、なんといっても「深草の少将の百夜(ももよ)通い」になるのでしょうか^^。
物語は、小野小町に思いを寄せる深草の少将に、小町ちゃんが、「私の所に100夜通い続けたら、思いを遂げさせてあげる。」と言っちゃいます。
この深草の少将は、小町の言葉を信じ、深草から小町の住む山科・小野の里まで5km、毎晩通い続けたのです。

深草の少将は架空の人物だと言われてもいますが、良峯宗貞とも言われています。良峯宗貞、これはあの六歌仙の僧正遍照の出家前の名前です。
しかし、どうも百夜通いの主ではないようです。それでは、誰か?架空なのか?ですよね^^。

私は、実在の高貴な人ではなかったと推測しています。公家の中でも、それ相当の位にある天皇の血筋により近い人ではないかと。ある文献では、当時の天皇だということが載っていましてけど、いくらなんでもそれはないんじゃないかと思っています^^。理由は、天皇には決まられた幾人もの側女、妾がいたこととその身分での毎夜のお出かけは無理があったと考えられるからです。
ただ、それに近い位の人であったのかとは推測しています。だから、身分を少将などとして実際の名前を出せなかったのではと。
「深草」は、京都の地名なんですよ。

その小町、最初は、相手にしてなかったのですが、次第に気になり始めて、いつもの時間に来なかったりすると心配になったりしてきました。次第に、深草の少将の実直さに惹かれていき、小町自身が、「あと何日、あと何日」と数えるようになったそうです。
その深草の少将、そして、99日目、明日で100日目と言うときに雪の中で死んでしまいます。本当に不運です。

こんな笑い話があります^^。

小町が99日目の夜、少将の誠意にあと一夜が待ちきれずに、「もういいの、ここまでで。あと一日はおまけしてあげる。お願いだから少将さまをここに連れてきて」と侍女に言い伝えます。
侍女は、門先で見える少将に声を掛けます。
「小町さまが、あなたの気持ちは十分に伝わりましたとのこと。どうか、あと一日を残しますが、お入りください。小町さまと思いを遂げてください。」と。
その御仁が慌てて応えます。
「えっ、あっ、その~~~、僕はアルバイトなんです^^」
(おいおいですよね^^)

これを読んだときは、もう笑い転げました^^。

ただ、小町の恋もここでひとつ終わってしまいます。
ただ、そんな高貴な御仁が、百夜も通うわけはないと言われていますが、そのことは、おそらく古今集の詠み人知らずの歌から伝えられたのかもしれません。

「あかつきの 鴫(しぎ)の羽がき 百羽(ももは)がき 君が来ぬ夜は 我ぞ数かく」

新千載集には、
「つらかりし 百夜の数は 忘られて 猶(なお)たのまるる 榻(しじ)のはしがき」とあります。

榻(しじ)は、牛車(ぎっしゃ)から牛を外したとき、車の轅(ながえ)の軛(くびき)を支え、乗り降りに際しては踏み台とする台で、はしがきとは、思うようにならない恋のたとえのことです。
百夜はかなりオーバーなのかもしれませんが、実際にあったのではと思っています。

小町が残したものは、本当にわずかです。古今和歌集の18首と後撰集などの数首にすぎません。その上、詠んだときに書く詞書(ことばがき)がないから、想像でしかなくなってきます。

先に書きました代表作と言われている「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」は、読み手にはリズムがあり覚えやすく奥行きがあって、しかも百人一首の歌ということで代表作となってきたのでしょうね。

ただ、この作品は、哀しい歌だと思っています。

「世」は男と女の仲ことを指します。そして、「ながめは眺めと長雨の掛詞で、花(小町自身)の色は褪せてしまった、我が身をこの世に置いて、じっと眺めて物思いにふけっている間に。その間、春の長雨が降っていました。」と続きます。老いていく小町が、気持ちが薄れて離れていく男性への思慕の歌なんだって、私は読んでしまいました。

この歌と前後して、小町は、
「はかなくて 雲となりぬる ものならば 霞まむ空を あはれとは見よ」
「はかなしや 我が身の果てよ 浅みどり 述べにたなびく 霞と思えば」など、どこか昔の美貌を失くし、将来への不安を詠むようになっちゃいました。寂しいものです。

と、今回はここまで~~~~です^^。

このあと「小野小町(2)」に続きます^^。
今回は、小町をすぅ~と紹介したブログになっちゃいましたが、少し掘り下げてみたいと思います^^。


つづくぅ~~~~~~~^^。


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「史記(2)」 全体構成や内容の概ねな把握

2009-02-10 00:00:01 | 文学サロン
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史記(2)

前回の続きです^^。
「史記(1)」とこの(2)を読めば、世界遺産と言っても過言ではない「史記」という偉大な書物がどんなものかってわかると思います。

でも、ごめんなさ~い。元来のさぼり性で、「史記(1)」から半年も~~~開いてしまいました^^。

この「史記」然り、「三国志」も然り、いったい中国にはどれくらいの傑人、賢人、謀人、悪人がいたのかって言いたいくらいのスーパーマン、スーパーウーマンが溢れています。そのひとりひとりにスポットライトを当てているのが、「史記」の特徴でもあります。「三国志」は「史記」よりも時代はずっとあとで、いつか「三国志」も書いていこうと思っています^^。

今回の「史記」は、前回よりも少し柔らかくしてみようかなって^^
それと、秦の始皇帝のことを書いていきたいと思っています。
はてはて、横道ばかりで行き着くことができますでしょうか^^。

受験生のいるご家庭は是非、(1)と(2)印刷して通読をお勧めします。合格まちがいなしですぅ^^(おいおい^^)。

先に予告でぇぇ~す(おいおい^^)。
この「史記(2)」の次は、いよいよ、小野小町~~ちゃんの巻になりまぁぁす^^。在原業平ちゃぁぁ~んも出演予定です^^。
世界の三大美女のひとりと名高い小野小町ちゃん、いったいどんな女性だったのでしょうね^^。
乞う、ご期待です^^。

本題に入る前に^^、「上善如水(じょうぜんみずのごとし)」と言う言葉があります。
これは、老子の言葉なんです。

きっと、新潟の酒、「上善如水」のほうが有名かも^^。素敵な名前のお酒ですよね^^。新潟のお酒は、美味しいですよね^^。「越乃寒梅」「雪中梅」「八海山」と超有名なお酒よりも隠れた美酒銘酒がたくさんありますよね^^。なかでも「緑川」大好きなんです^^。
私の好きな好きなお酒、他には、伏見の「松の翠」、秋田仁賀保の「飛良泉」、福井「黒龍」そして愛媛の「梅錦」、東京の「澤の井」なんですけど^^、名前を聞いただけでも、のどが鳴ります^^。
だって、純米吟醸でも本醸造でも美味い~~んですもん^^!
あ~~、冷で、すぐに飲みたい~~って思います^^。

今の私は、ソファーにゆっくりと座って、バーボンの氷の音と素敵な音楽があればいいんですけどね^^。って、なんか、珈琲貴族ってお洒落みたいですよね^^。
良い子のご婦人方、どうか騙されませんように^^(おいおい^^)。
ただのジジイでぇ~す^^。

さぁ~~て、少し話を戻して、この「上善如水」は、老子の記した道徳経 第八章にあります。

上善如水。水善利万物、而不争。処衆人之所悪。故幾於道。居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。夫唯不争、故無尤。

英文にすると
The best of men is like water. Water benefits all things,and does not compete with them.・・・・(おいおい、ほんまかいな^^)。

意訳すると
上善とは最上の善であり、その最上の善は“水”の姿であると。
水は善く全ての生命の為になって、そしてなにものとも争わない。水が無くては生きていられない。なにものとも争わないと言うのは、水は四角い器には四角く、丸い器には丸い姿になり、その場その場にすっかりと和しているのだということ。
しかも水は、常に高い所に止まっている事はせずに、低い所低い所へと自らを一番低い所に置こうとしている。謙虚に生きる、それこそが、人の道である。水は、人間、それは、「柔軟」「謙虚」「秘めたるエネルギー」である。になるのでしょうか。                                  

司馬遷は、百家争鳴のあとに生まれています。孔子の儒教を学び、そして老子の道教を学んだ上で、司馬遷が見た思想を「史記」に記しています。おそらく、老子についての人物記は、この「史記」が一番詳しく書かれているでしょう。
老子自体が、本当に実在したのか、とにかく不明な宗教家です。その弟子と言われる荘子の資料は、多く残っているのですけど^^。
孔子を慕い思いながらも、考え方は儒教でなく、道教に近いものがありました。
その根底に、「上善如水」思想があったのではないかと、私は思っています。
その思いを、「史記」に随所、私は読み取ることができたような感じがします。

さてさて、やっと「史記」に入っていきますが、まず、「史記」の構成から書いていきます。

「史記」は、大きく分けると、本紀・表・書・世家・列伝の五項目からなっています。「史記」は紀伝体で描かれています。紀伝は、本紀の紀と列伝の伝を取ったものです。最後の最後の列伝の最後に^^、司馬遷自身が自身を描いた「太史公自序」があります。
どんな気持ちで自分を描いたのでしょうか。書き終えたときの司馬遷を傍で見ていたかったです。

1.本紀
十二あります。五帝から漢の武帝までの帝王の記録です。帝王になれなかった項羽の事跡を記した項羽本紀を設けたり、そして史上まれにみる悪女と言われる女帝呂后本紀を置いたことが、今も問題になっていますが。

五帝、夏、殷、周、秦、秦始皇(始皇帝)、項羽、高祖(劉邦)、呂后、孝文、孝景、孝武

2.表
十あります。表とは古い王朝の系譜・東周期や漢代の諸侯の年表・漢王朝の官吏の在職年表等を記したものです。

三代(世表)、十二諸侯、六国、秦楚之際(月表)、漢興以来諸侯、高祖功臣侯者、恵景間侯者、建元以来侯者、建元已来王子侯者、漢興以来将相名臣

3.書
書は八つ。音楽・天文・治水・経済など古代の文化史・制度史をまとめた部分です。

礼、楽、律、暦、天官、封禅、河渠、平準

4.世家
三十あります。周代から前漢に至る諸侯の国の歴史を、本紀と同様に書いています。周代の部分は、「春秋左氏伝」をそのまま転用している箇所が多くみられますが^^。
ある意味、列伝とそんなに大きな違いはありません^^。

呉太伯、斉太公、魯周公、燕召公、管蔡、陳杞、衛康叔、宋微子、晋、楚、越王句践、鄭、趙、魏、韓、田敬仲完、孔子、陳渉、外戚、楚元王、荊燕、斉悼恵王、蕭相国、曹相国、留侯、陳丞相、絳侯周勃、梁孝王、五宗、三王

5.列伝
列伝は七十。
個人の伝記を集めた部分で「史記」の一番面白いところです。
これがなければ、読み物としてはここまで伝えられなかったと私は思っています^^。(おいおい、お前の意見かよ^^ですよね^^)。

伯夷、管・晏、老子・韓非、司馬穰苴、孫子・呉起、伍子胥、仲尼弟子、商君、蘇秦、張儀、樗里子・甘茂、穰侯、白起・王翦、孟子・荀卿、孟嘗君、平原君・虞卿、魏公子、春申君、范雎・蔡沢、楽毅、廉頗・藺相如、田単、魯仲連・鄒陽、屈原・賈生、呂不韋、刺客、李斯、蒙恬、張耳・陳餘、魏豹・彭越、黥布、淮陰侯、韓信・盧綰、田タン、樊・レキ・滕・灌、張丞相、レキ生・陸賈、傅・キン・カイ成、劉敬・叔孫通、季布・欒布、袁オウ・チョウ錯、張釈之・馮唐、万石・張叔、田叔、扁鵲・倉公、呉王ビ、魏其・武安侯、韓長孺、李将軍、匈奴、衛将軍・驃騎、平津侯・主父、南越、東越、朝鮮、西南夷、司馬相如、淮南・衡山、循吏、汲・鄭、儒林、酷吏、大宛、遊侠、佞幸、滑稽、日者、亀策、貨殖、太史公自序

以上が、「史記」の構成となります。

面白い説があります。関西学院大学大学院研究員の金鳥工房@長春氏の説ですが、「史記」そのものは、父親司馬談から、引き継いで書こうとしたもので、天人相関説を、つまり、天が常に人間の行いを監視し、因果応報良い行いをした者には福徳を下し、悪い行いをした者には罰を与えるという因果応報の思想を明らかにしていこうとしたのに対して、司馬遷は、天道是邪非邪説を、天道は是か非か?と、天人相関説に対して疑問を投げかけていると言っています。

気になるのは、この「史記」後世の評価はどんなものだったのでしょうか^^。

「史記」を実録、史実と評するのは、ひとつの根拠があります。

前漢の揚雄(ようゆう)がこんな言葉を遺していました。揚雄は、その時代の文人として学者としては名のある人でした。
その揚雄の著「法言」に「或は曰く、周官<周礼・・・周礼(しゅらい)とは、儒家が重視する経書で、十三経の一つで、「儀礼」「礼記」と共に三礼の一つ。>は、立事と言い、左氏(春秋左氏伝・・・中国の儒学古典の一つ)は、品藻、品定めと言い、太史遷(史記)は、実録と言う」とあります。

この評価によって、「史記」は実録としての信用度が高いものとなりました。

もちろん、秦始皇本紀における「始皇帝は自分の墓に近衛兵三千人の人形を埋めた」という記述についても、西安市の郊外の兵馬俑抗の発見で記述の正確さが証明されていて、司馬遷の自己都合による脚色もところどころに見えますが、かなりの正確度の高さでの史実本なのでしょう。

中国最大の文豪と言われる魯迅(ろじん)も、「漢文学史綱要」の中で、「史記」を「史家の絶唱」とその史実とともに文学性をも賛美しています。

もちろん、絶賛があれば、批判もあります。
後漢の班固(はんこ)のように、「史記」に見られる武帝批判を、腐刑という屈辱の怨念をはらす代償に書いた汚物と切って捨てる人も多く出てきました。

班固と言えば、「漢書」。汚物と言いながらも、「史記」の紀伝体の形式を踏襲して、「史記」からも引用した箇所が多々見ることができます。反抗と言えば、「史記」は「春秋左氏伝」と同様に扱われて、史実扱いでなく歴史本扱いをされていることでしょうか^^。

漢の武帝も「史記」を否定した一人です。司馬遷と同じ時代にいました。その武帝は、司馬遷が「史記」を執筆しているという噂を聞き、父の景帝と自分の本紀を取り寄せて読みましたが、武帝批判の怒り心頭で、自分と父親の本紀を抹消させました。
だから、「史記」の本紀には、景帝と武帝がありません。替わりに呂后が本紀に加わったとされています。

他にも、儒教を軽く扱った、女帝が本紀になどと、批判の対象になっています。


「史記」は、この日本で今でも愛用されていることわざが実に多くでてきます。
えっ~~、これも「史記」なの~~って^^思われるはずです。
Wikipediaから引用しますが、下記のことわざ・成語、聞いたことや使ったことがあると思います^^。これが、もちろんすべてではありません。きっと、400以上は楽にあるでしょうね。


・ 「王侯将相いずくんぞ種あらんや」陳渉世家
・ 「唇破れて歯寒し」晋世家
・ 「狡兎死して走狗煮らる」越王句践世家、淮陰侯列伝
・ 「寧ろ鶏口となるとも牛後となるなかれ」蘇秦列伝
・ 「先んずれば人を制す」項羽本紀
・ 「将に将たり」淮陰侯列伝
・ 「忠言耳に逆らい、良薬口に苦し」留侯世家、淮南衡山列伝
・ 「天道是か非か」伯夷列伝、老子韓非列伝
・ 「桃李もの言わざれど下おのずから小径(こみち)をなす」李将軍列伝
・ 「匹夫の勇、婦人の仁」淮陰侯列伝
・ 「臥薪嘗胆」越王句践世家 ただし「嘗胆」のみ。
・ 「管鮑の交わり」管晏列伝
・ 「完璧」廉頗藺相如列伝
・ 「鴻門の会」 項羽本紀、高祖本紀、留侯世家、樊噲列伝
・ 「国士無双」 淮陰侯列伝
・ 「屍を鞭打つ」伍子胥列伝
・ 「鹿を馬となす」(「馬鹿」の語源という説がある)秦始皇本紀
・ 「四面楚歌」項羽本紀
・ 「酒池肉林」殷本紀、大宛列伝
・ 「宋襄の仁」晋世家
・ 「背水の陣」淮陰侯列伝
・ 「刎頸の交わり」廉頗藺相如列伝、張耳陳余列伝、淮陰侯列伝
・ 「右に出ずる者なし」田叔列伝
・ 「流言蜚語」魏其武安侯列伝
・ 「曲学阿世」儒林列伝
・ 「士は己を知る者のために死す」刺客列伝
・ 「雌雄を決す」項羽本紀
・ 「傍若無人」刺客列伝
・ 「満を持す」越王句践世家
・ 「立錐の余地なし」留侯世家
・ 「百発百中」周本紀
・ 「鳴かず飛ばず」淳于髠列伝

うへぇ~~ですよね^^。

やっぱり、エロ珈琲貴族に、外せないのが、傾国の美女たちです^^。佳人、麗人、別嬪(べっぴん)、美人、並・・・・・・・・へチャムクレ(おいおい^^)の順で中国は呼んでいたそうです。

日本ではよく、「美人薄命」といいますが、正確には「佳人薄命」と言います。あっ、「パンツ穿くめい」じゃないですよ~~~(おいおい^^)。

「史記」が出来るまでにいったい幾つの国が、その佳人、麗人、別嬪(べっぴん)、美人の女性たちによって傾国(滅び)したのでしょうか^^。
女性の名前と、そのときの王を思いつくままに列挙してみますと、

妹喜(ばっき)夏の桀王。BC18世紀頃
妲己(だっき)殷の紂王。BC12世紀頃
褒姒(ほうじ)周の幽王。BC8世紀頃
驪姫(りき) 晋の献公。BC7世紀頃
夏姫(かき)いっぱいの王。BC6世紀頃
西施(せいし)呉王夫差。BC5世紀頃
虞美人(ぐびじん)楚の項羽。BC3世紀頃

楊貴妃(ようきひ)は、8世紀頃で唐の玄宗皇帝のころですから、「史記」には関係ありませんが、彼女も立派な傾国の美女でした^^。

中国史上の4大美女は、楊貴妃、貂嬋(ちょうせん)、王昭君、西施ですが、西施は、世界3大美女と詠われている楊貴妃を凌ぐ美女だったそうです^^。
ちなみに、中国三大悪女は、呂后と唐の武則天(則天武后)、清の西太后です^^。

西施、「史記」には、名は見えませんが、「史記」の成語に「臥薪嘗胆」とあります。この言葉の元になった越王句践(こうせん)と呉王夫差の確執もこの西施がもともとの原因だったのです。越王句践は西施に呉王夫差の好むすべてを教えこみ、和と偽って呉王夫差に献上として嫁がしました。好色で快楽的な夫差はその美貌についにおぼれ国を滅ぼし、その悔しさを薪(たきぎ)の上で寝ることによって句践に復讐を誓います。その復讐に句践は破れ、苦い肝(胆)を毎日嘗めては、今度は夫差への憎しみを忘れないようにして再起を誓うというものです。
一国の王と王が、一人の美女に左右されたのです。
この西施は、あの芭蕉の「奥の細道」の句にも詠われているんですよ^^。
「象潟や 雨に西施が ねぶの花」って、意外でしょ^^。

「顰(ひそみ)にならう」とか「西施捧心」って聞いたことはありませんか^^。
西施は、少し病弱だったようで、苦しみに眉をひそめても、それがまた得も言われぬ美しさがあると評判になって、これを醜女が真似たのが「顰にならう」です。また、胸に手を当てて悲しむポーズ「西施捧心」も、今の世でも模倣されてますもんね^^。

しかし、やはり佳人悪女は、なんといっても妲己でしょう。残酷さも並外れていました。民衆からの過酷な税で、池を酒で満たし肉を林のように吊るしての贅沢三昧の「酒池肉林」の言葉は、この紂王と妲己から生まれました。

それだけでなく、妲己の一番好きなこと、酒池肉林の中の余興で炮烙の刑を楽しんだことです。炮烙の刑とは、銅柱に油を塗って、炭火の上に設置して、犯罪人を綱渡りのようにその上を歩かせて滑って落として、火の中にいれ炙り殺すというものです。
渡りきれば、無罪放免らしいですけど・・・・・・渡りきった人っていたんでしょうかぁ~~。

どんな性格の悪い女でも、そこまできれいだったら、珈琲貴族はいいかも~^^。
だって、珈琲貴族も性格悪いですもん^^(おいおい^^)。

ちょいと、横道に逸れますが、楊貴妃は、唐の六代皇帝玄宗の妃でした。息子から奪い取ったのです。時に玄宗61歳、楊貴妃は21歳でしたぁ^^。玄宗皇帝が安録山の乱に敗れ、縊死したことが定説になっていますが、密かに中国を脱出して日本に漂流したとも言われています。山口県の何処かに楊貴妃の墓があるそうです。

貴妃は、名前ではありません。妃の順位を表します。姓は楊、名は玉環です。だから楊貴妃です^^。
后妃にも順位がありました。楊貴妃は、玄宗皇帝の第二夫人だったのです。皇后がトップです。もちろん正婦人ですから。あとは妾妃です。四妃(貴妃 淑妃 徳妃 賢妃)、九賓(昭儀 昭容 昭媛 脩儀 脩容 脩媛 充儀 充容 充媛)、二十七世婦(婕、美人、才人×各9名)、八十一御妻(室林 御女 采女×各27人)、下級宮女(その他数百人~数千人)が宮女の順位となります。
この大奥の世話をしていたのが、宦官となります。すべて、皇帝の女性ですから手を出すことはできませんでした。一回も皇帝との交わりもなく、もちろん他の男性と交わることなく死んでいく女性の数は半端ではありませんでした。

実に実に実に~~~~もったいない話しです^^。(おいおい^^)。

今回もあとわずかな字数となりました。どこまで書けるのかが心配に^^。
また、横道がたくさんになって^^。

「史記」は、本紀から、そして、五帝、夏、殷、周、秦、の王物語から始まります。
「礼記」「淮南子」「易経」など読み物によって五帝は、違いますが、「史記」に於ける五帝は、黄帝、顓頊(せんぎょく)、嚳(こく)、尭(ぎょう)、舜(しゅん)の五人であり、これらは実在のしない聖人としての架空のことを事実のように「史記」は最初に記しました。そこに司馬遷らしさ、「史記」の意義があるのかもしれませんが、この架空物語があるから、「史記」は、史実書としての価値を下げていることも事実のような気がしてなりません。禹から始まる夏王朝から中国は、おそらく始まったのでしょう。

「史記」を、中国を、もっと知りたいのであれば、絶対に外せない人がいます。
始皇帝です。「史記」では、秦始皇という名前で本紀に出てきます。
この始皇帝がいたから、項羽、高祖劉邦、劉邦の細君呂后が世に出てきました。

次の「史記(3)」には、劉邦と項羽と悪女、そして列伝のことわざなどを中心に列伝でのエピソードを書いていきたいと思いますが、始皇帝に関しては、この「史記(2)」で書いておこうと思っています。

中国の歴史は、始皇帝から、始皇帝ありきなんでしょうか。私は、あまり始皇帝は好きではありませんが、そのような気がしています。

姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)、紀元前259年1月 に生まれて、 紀元前210年7月に崩れました。現代中国語では、始皇帝(シーホワンディー、Shǐ Huángdì)と言います。「史記」には、鼻が高く、目は切れ長で、声は凶暴な山犬の如く、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主と書かれています。
出生については、始皇帝の父、子楚(後の荘襄王)は趙の人質から大商人呂不韋の力を借りて脱出し、秦の王になり、呂不韋からもらった愛人との間でできた子供が政(始皇帝)となっていますが、実際のところ、父親は呂不韋のようです。愛人が身ごもっていたときに子楚は、その愛人を貰い受けたそうです。

万里の長城を築き、焚書坑儒を行ったことは後世、今の時代も伝えられています。大事業と大失策として。
始皇帝が遺した物まとめて記しておけば、始皇帝は、民間人の武器所持を禁じ没収し、中国が一つになったことを宣言するために、それを溶かして巨大な像を作りました。さらに度量衡<度(長さ)量(体積)衡(重さ)の単位>、貨幣、車の幅を統一しました。また文字では、秦で使われていた漢字を全国で使うように定めました。
今の世が、整然としているのは、始皇帝のお陰なのかもしれません。すべてが、大改革と言っても過言ではないものばかりです。

焚書坑儒についてですが、儒教の本を燃やして、儒者を生き埋めにした事件です。生き埋めにされたのは儒者だけでなかったのですが、460数名が土の中に生きたまま埋められました。この焚書は、始皇帝の一存でなく、それを指示した人間がいます。
そのもっとも大きな背景は、始皇帝の礎を作った商鞅(しょうおう)の存在と李斯(りし)の存在です。法家思想が、焚書坑儒を行ったのです。

始皇帝になくてはならない側近、平民から丞相(首相)に上り詰めた李斯(りし)。あらゆる手を使い時の丞相呂不韋に取り入り、始皇帝に近づきました。そして丞相に。法家の荀子の門下生でもあったにもかかわらず李斯は、諸子百家の思想を嫌い、なかでも儒教をもっとも嫌いました。そのような立場から、史官が所蔵している書籍のなかから,秦の記録でないものをすべて焼くこと、世の中にある諸子百家の書すべてを荀子の法家思想書も含めて集めて焼くこと、それでも詩書について論ずる者があれば死刑にすること、古い時代をよいとして現代を批判する者は一族皆殺しの刑にすることを進言しました。李斯の直言、それを始皇帝は、そのまま実行したのです。

李斯が、最期までいい思いをしたのかと言えば・・・・どうなんでしょうか^^。
こんな史実が残っています。

李斯が自宅で宴会を催しました。文武百官千官のものが次々に祝辞を述べ、門前に集まった車馬は、数千に及びました。李斯は、荀子の教えを思い出し、「必要以上の繁栄は悪」と嘆きましたが時はすでに遅しでした。或る日の始皇帝の巡幸でそんな李斯に従う数千の車馬を見ていた始皇帝が側近にそのことをボヤキました。側近は、そのことを李斯に告げると李斯は怖くなり、急いで車馬をその場から散らせました。それを見ていた始皇帝は、「私の言葉を李斯に漏らしたのは許せない」と、側近を皆殺しにしました。そのあと、始皇帝から疎まれ、最期の最期は、始皇帝の死後、悪名高い宦官趙高や李斯たちの策略で皇帝にした二世の胡亥から見捨てられ、罪を着せられ、李斯一族は一人残らず殺されました。

その始皇帝の最期は、行幸の最中でした。

晩年は、あの鋭さは影を潜め、占い師や仙人まがいの人間、太鼓持ち宦官趙高などを傍に置き、不老不死の薬を本気で求めるようになりました。その占い師が持ち込んだ魔法の水で死期を早めたとも言われています。その魔法の水は、水銀でした。

70余万人の受刑者を使い、美女三千人を集め首都咸陽に築いた世紀の大御殿 阿房宮 (未完成のまま、後年焼失)が「アホウ」の語源になっているのは、単なる皮肉なのでしょうか^^。

と、いうことで~~、これで大体の「史記」の概要が掴めたのではないかと思います^^。

次回は、ついに~「小野小町と在原業平」の巻^^。
繊細かつ艶やかな和歌で、お会いしましょう~~~~~~^^。

「史記(1)」・・・まずは中国の当時の情勢^^

2008-08-09 00:00:01 | 文学サロン
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北京オリンピック開催記念^^とかでなく、少し日本で知られている中国の文学に触れたいと思います。でも、タイミングは、GOODでしたね^^。

40歳を過ぎて、私は、初めて「史記」を開きました。司馬遷や「史記」というものは、学校の授業に出てきましたから知っていましたが、読んでいくに従って、もう虜になってしまいました。
男性は、「三国志」などのゲームに没頭するくらい覇権とかというものに興味津々なんですが、女性にモテたいっていう一途な思いから書いていってるブログですから^^(おいおい^^)、女性は、どうなんでしょうね、今回のテーマ^^!
それでもなんとか飽きが来ないように筆を進めていきたいと思っています。

「史記(1)」としていますが、間違いなく今回の文学サロンで「史記」全体を描ききれないと思っています。(2)(3)と続編がぁ~~です^^。

今回は、その(1)ということで、中国という広大な土地での覇権争いや当時の情勢などを書いてみたいと思います^^。
それを知っていると、本当に中国文学や中国の歴史小説や歴史書がわかるし、もっともっと面白くなると思います。どうか、お付き合いくださいませませ^^。

珈琲貴族の「史記」のきっかけは、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を読んだことから始まりました。司馬遼太郎の日本の歴史物を読み切り、その中で高杉晋作に心酔して^^、そして「街道を行く」を読んでいる途中に「項羽と劉邦」に出会いました。司馬遼太郎さんは、司馬遷から名前を戴いたそうであります。わかるわかる気がしました。それから、中国の歴史書から、「正史三国志」「三国志演義」、中国の歴史人物を日本人作家が描く書物などを、本当に読み漁りました^^。むさぼるようにして読んだというのが正解かもしれません^^。

「史記」・・・さて、どこから入っていけばいいのでしょう。司馬遷の生誕、「史記」の歴史的意義、司馬遷が「史記」を書いた理由、宦官(かんがん)について、当時の時代背景など迷ってしまいます。

また、中国の歴史から日本人はいろいろな言葉を学びました。
「四面楚歌」「完璧」「傍若無人(ぼうじゃくぶじん)」「逆鱗(げきりん)」「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」「蛇足」の熟語だけでなく、「刎頚(ふんけい)の交わり」「管鮑(かんぽう)の交わり」などの意味をこの「史記」から実に実に多く学ぶことができます。「鳴かず飛ばず」という言葉も日本にありますが、「史記(2)」・・・の中でそれらを紹介していきたいと思っています^^。その言葉の語源、由来をゆっくりと書いていきたいと思いますから^^。(おいおい^^、もったいつけちゃって^^)。

さて、「史記」は紙に書かれて残っていたんじゃないんですよ^^。あとで出てきますが、蔡倫(さいりん)という人が紙を発明する前の時代です。それが残っているなんて凄いですよね。

竹で板のような竹簡というものを作って文字を書いていました。書いては竹に穴をあけてバラバラにならないようにヒモで繋いでいきます。ここから、「書を編む、編集」という言葉が生まれました^^。また簡をヒモで束ねたものを「1冊」とする。冊は板(簡)をヒモで束ねた象形文字なんです^^。【册】、ねっ、そんなように見えちゃうでしょ^^。

ちょっと、それに付随をして横道に反れちゃいますが、裁縫の「縫」の字は、「逢う」に「糸」です^^。一期一会^^を糸でしっかりと縫い合わせて解けないようにした漢字なんですよ^^。

「史記」、中国最古の歴史書であります。全130巻あります^^。作者司馬遷は、BC145(紀元前145年、違う文献によればBC135)に生まれました。今から2,153年前です。そのころの日本は、弥生時代であり、イザナギの命(みこと)とイザナミの命が日本を創って間もないころでした。その子供が、天照大御神です^^。イザナギちゃんとイザナミちゃん、やりますねぇ^^(おいおい^^)。
それから、350年くらいのあとの230年頃に卑弥呼(ひみこ)が邪馬台国に出現しました。日本最古の歴史書は、「史記」から遅れること850年の712年の太安万侶の「古事記」となります。

中国の正式な歴史書は、現在「二十四史」あります。これを最初として、これも聞いたことがあるかもしれませんが、「漢書(100巻)」「後漢書(120巻)」「三国志(65巻)」などが生まれました。

中国、皆さんはきっと悠久の4000年を感じていると思いますが、中国は常に略奪の国家であり、現在の国としての存在は歴史的にはまだ数十年なんです^^。漢にしろ、唐にしろ、隋にしても、その時代その時代の国家でありました。その国家には、日本のような全くの連続性がないんです^^。中華人民共和国も略奪で造られた国でしょ^^。

流れとしては、夏(か) → 商 → 西周 → 秦 → 漢 → 三国 → 晋 → 南北朝 → 隋 → 唐→ 五大十国 → 北宋 → 金 → 南宋 → 元 → 明 → 清 → 中華民国 → 中華人民共和国 となります。
夏族、周族、秦の始皇帝の甘粛民族、そして漢民族、突厥族、ツングース系民族、女真族、満州族と次から次に国家統一をしてきた民族が変わってきました。
いろいろな民族の戦いの歴史であります。漢民族が使用していた字が、漢字であり、中国、日本、そしてハングルとの併用の南北朝鮮で現在に至っています^^。

実は、日本がこの世界で現存する最古の国家なんですよ~~^^。
歴史学的に見た場合、皇室成立は4世紀前後ですし、国号としては、7世紀後半に確立されてます^^。もちろん、立憲君主国としてもです^^。
伝記からは、今から約2700年前の紀元前660年、神日本磐余彦命(かむやまといわれびこのみこと)という人物が大和の地に国を造ったのが、日本国の始まりとされています。この人物こそが最初の天皇で、後に「神武(じんむ)天皇」と呼ばれることになります。

立憲君主?? 
天皇や王や女王や帝を中心とした国家のことで、このごろ日本に関しては異論もありますが、世界では立憲君主国としての日本国があります。
イギリス(正式名 グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)やスペイン、デンマーク、ノルウェイなど世界では約五分の一が立憲君主国なんです^^。
その中には植民地時代の名残りでイギリスの統治国が幾つもあるんですよ^^。カナダ、ジャマイカ、オーストラリア、ニュージーランドなど、そして信じられないでしょうけど、これらの国ではイギリスの国王に任命された総督が実質的に元首を務めることになっているんです^^。
まさに「ウソぉ~!」でしょ^^。でも、本当の話なんですよ~~^^。

司馬遷は、宦官(かんがん)でした。

これからしばらく、この宦官の話しを進めますね。少し気持ち悪くなるかも~~^^。

「宦官」って、なんでしょう。これは、おチンチンを切り取られ、宮中で働く役人のことを言います。ペニスと睾丸を切除(去勢)された男のことです。
宦官は、死刑に次ぐ刑罰で「宮刑」と呼ばれ、この制度は、中華人民共和国になる前の清、ラストエンペラー溥儀(ふぎ)の時代までありました。しかし、この宦官が力を持ち、国の陰の実権をも掌握したこともありました。後漢、唐、明の時代の専横は目を覆うものがあったそうです。王朝を滅ばしたのもまた宦官でした。

宦官の主な仕事は、もちろん宮中の大奥ハーレムのお姫様たちの雑用でした。ある時代には、宮中に数万のお姫様がいたそうです。その誰もが、皇帝以外との接触を禁止されていました。おチンチンがないから、皇帝は、安心してお姫様の管理や雑用を任せられるのです。この宦官の世界は、それこそ階級絶対主義で、どんなに苛められても、そこから抜け出して一般社会へ戻ることができないので下層級の宦官は地獄の日々だったようです。

宦官が反乱を起こしたり、皇帝の血の関係がある外戚(がいせき)や一般の一揆などで、王宮が攻められます。敵味方は、すぐにわかりました。宦官はヒゲがないんです。おチンチンがないから、ヒゲが生えてこなかったそうです。中国の男は、ヒゲの逞(たくま)しさがプライドでした。どこまで立派に生えているかで、出世にも影響をもたらせたそうです。

宦官のなり方、3分クッキングです^^(おいおい^^)。
ただし、3ヶ月ほど安静が必要ですけど^^。
良い子は決して真似しないでくださいねぇ~~^^。

ここは刺激が強いので飛ばしていいですよ。本当にですよ^^。こんな話に弱いかたは、ワープ開始からワープ終了までスクロールしてくださいね^^。


ワ~プ開始~~~~~~^^!


去勢は、古代エジプト、トルコ、インドなども行われていました。目的は、奴隷とするためにがほとんどでした。

古代エジプトの切り落とし方は、細い糸でおチンチン一式を結び、カミソリで一気に切り取る方法でした。出血は灰や熱い油で止められ、尿道に金属の棒を入れる。その後、臍の辺りまで熱い砂に埋められ5~6日おかれたそうです。なんと半分以上は死んでいったそうです。
インドは、去勢の前にアヘンで身体を麻痺させたようです。それでも、かなりの数の人が死んでいきました。「宮刑」というより、死刑より残酷な「極刑」と言ってもいいのかもしれません。生きていても、奴隷として働かされるのですから。

さてさて^^、中国、この時代、麻酔はありません。でも、中国医術なのでしょうか、死亡者は極端に少なかったと記録に残っています。
まずおチンチン全体を胡椒湯(こしょうゆ)でよく洗い、刃物で竿と陰嚢を一気に切断(ぎゃ~~~~~!)、尿道に栓をして傷口を冷水で浸した紙で覆いました。それが終わると2.3時間歩かされたのち、横にやっとなれるのです。血液と一緒に毒素も出す目的があったのでしょうか。切り落としたあと、3日間水が飲めませんでした。それは、乾きと痛みで苦悶・煩悶・懊悩するようです。3日後、栓を抜くと尿が噴水の如く出るそうです。これで成功、傷は100日ほどで癒えるそうです。
でも、失敗すると傷口にウジが湧いたり、化膿したりで高熱が続き、そのまま死んでしまうこともありました。ただ、中国には「おチンチン切り落とし屋さん」が、職業として店を構えていましたので、最初に書いたように他所の国よりもずっと死亡率は低かったようです。

もちろん、女性にも「宮刑」はありました。幽閉です。生涯狭いひとつの部屋で明かりを閉ざされるか、女性の陰道を塞ぐ刑でした。後者は、幽閉が「閉じる」と解釈されていた節もあるそうですが。
いずれにしても、「宮刑」恐るべしですよね^^。


ワープ終了~~~~~~~~~^^。


さてさて、その切り落としたものは、「宝(パオ)」と呼ばれ、「パォ~~」と鳴く象じゃないですよ~~~~~~~^^、防腐加工を施し容器に密閉して保存されました。その理由は宦官であることの証に、階級が上がるとこの「宝」を見せなければなりませんでした。そのため、所有していても盗まれる事があり、その時は友人から借りて代用する程なので、まさに「宝」の価値があったそうです。
私なんか、切り落とされなくても一番の宝物ですぅ~~~~~~~~~(おいおい^^)。

「оАоζ 羌」(оАоは、本当はおチンチンの絵なんですが、ここでは描けなぁい~~^^)というような象形文字が、中国の古代殷(いん)王朝の遺跡から発見されました。
これは、敵民族である羌族(きょうぞく)を宦官にして奴隷にすることを神に伺った文字であることが判明しました。「ζ」のような文字が、切断を意味していました。殷王朝ということは、4000年も前のことで、その時代から宦官は存在していたことになります。

韓国にも宦官はいました。それでは何故、日本は宦官が輸入されなかったのでしょうか。
「宮刑」自体を知らなかった説や大奥における女性の存在位置によるという説があります。そして、そこまで女性に潔癖を求めていなかったことにあるそうです。

社会の授業で必ず出てくるあの世界で最初に紙を発明した蔡倫(さいりん)も宦官でした。
蔡倫は、植物繊維から紙を作りました。この紙は、樹皮、麻などを原料にして、ドロドロにして薄く広げて乾かしたものでした。司馬遷の時代の200年あとになります。そして、改良されてイスラム世界に伝えられて、パピルスになりました^^。紙がペーパーと呼ばれるのは、パピルスが語源なんです^^。

蔡倫の場合は、志願して宦官になりました。貧しさから抜け出すため、親を助けるための覚悟でした。15歳のときでした。儒教の影響で、まず親を子どもが助ける思想です。それと、宮中に入り、出世して一攫千金を夢見ていました。
蔡倫のような志願宦官は、あとを絶ちませんでした^^。おチンチンも立ちませんでしたが(おいおい^^)、政府としては、それは役に立ちました^^。(おいおい^^)。

それでは何故、司馬遷は宦官になったのでしょうか。司馬遷の場合は、完全にとばっちりなんです。
司馬遷の親父さんは、司馬談で歴史記録の志を持っていましたがその夢を果たせないまま世を去りました。その父親の遺志を継いで一代通史の編纂を一生の課題としました。そして国家公務員に^^。そのころは、まだおチンチンはありました。
武帝の漢の時代です。そこに李広利将軍が他国に遠征をして数千頭の駿馬を引き連れて凱旋してきました。武帝は、その駿馬をもって李広利将軍に、今度は天敵である匈奴に攻撃を発令しました。その中に李陵という名将がいました。その部下に裏切り者がいて敵の匈奴に内通して情報をすべて流され、李陵は降伏を余儀なくされました。武帝は怒り心頭、そして周囲もそれに倣いました。司馬遷は、その中でその李陵を庇い弁明をしたのです。
その罪でした。死刑を言い渡される前に、どうしても歴史記録を完成させるという目的の前に、自ら「宮刑」を申し出て、生き永らえることを選んだのでした。その2年後に大赦がでて獄から出て秘書として武帝の側近になりました。司馬遷はその人生の二転三転に「人間とは何か」を心に秘めて描き続けたのが「史記」なのです。

そして、その司馬遷がそこまでして「史記」を書いた理由ですが、司馬遷は、そのまま誰も手をつけないのであれば、その時代までに生きてきた素晴らしい人たちが消えてしまう。とにかく後世にその人間たちの生き様を遺していきたいと考えたのではないかと珈琲貴族は思っています^^。そして、それから二千年以上も経った現代に、司馬遷の命は、今も輝いているから、本当の偉業を成し遂げたんだなぁって、なんか、不思議と感動を覚えてしまいます^^。

中国物の書物、日本の作家によって中国が書かれた歴史小説も含みますが、「字(あざな)」というものが出てきます。日本である「あだ名」だと思っていても構わないと思います^^。
中国では、つい最近までもその「字」が活きていました。日本と違い、姓と名と字を持っていました。名は、「諱(い)」とも言いますが、これは、誰もが使うことはできませんでした。「諱」を本人に呼べる人は、両親やかなり目上の人たちだけでした。「諱」で呼ぶことは無礼だったのです。だから、有名な諸葛孔明も、本当の名は、「亮(りょう)」でした。字が「孔明」なのです。
あの蒋介石(しょうかいせき)にしても字はありました「中正」です。
三国志に出てくる劉備玄徳(りゅうびげんとく)などは、稀(まれ)で、姓は劉、名は備、字が玄徳、本来は三つ揃って呼ぶことはありませんが、リズムでも考えたのでしょうか^^、そのような人は、幾つかの史書に出てきますが^^、本当に珍しい人です。
そして字は、成人したら自らで付けてました。人に呼んでもらいたいものを^^。
えっ、成人~~!そんなに遅くって思わないで下さいね。当時の成人は、おそらく10歳くらいだったと思います。なにしろ10歳くらいから女性と同床することも不自然ではなかった時代ですから^^。

ついでに、その王朝毎に、玄宗やら明宗やら武宗、武帝、文帝とか、中国を読んでいくと、やたらめったら、玄とか明とか武とかが出てきます。哀や幽などもありますよね^^。これらは、その皇帝が死んだあとに付けられる諡号(しごう)なんです^^。贈り名です^^。
だから、賢帝には、それなりの明るい名前が付けられますし、愚帝には、どうでもいい名前が贈られます。有名な「光武帝」の「光」はまたちょっとちがう意味があり、その前の皇帝とは血の繋がりが薄いとの意味合いが込められています^^。

「光」と書けば、神々しい輝けると、日本人は思いがちですが(おいおい^^、お前も日本人^^)、中国と日本の漢字の意味が異なるのってけっこうあるんですよ^^。
大笑いなのが、「手紙」という漢字、中国では、トイレットペーパーという意味になるそうです。でも、今、冷静に意味を見てみると、中国のほうが合ってそうな気がしないでもないですね^^(おいおい^^)。「汽車」だって、日本語では「自動車」という意味になるんですよ^^。

当時の中国の生活を「史記」の中の「貨殖列伝」に見ることができます^^。当時を知る文献としては、かなり、面白いですよ^^。この時代に、すでに貨幣はありました。五円玉のような形です。当然ですよね^^、あの始皇帝が貨幣の統一も行いましたから^^。

司馬遷の経済感覚は、今でもきっと通用するかもしれません^^。
「富豪への王道 史記・貨殖列伝を読み解く」という書物が売っているくらいですもん^^。

この「貨殖列伝」は、あれこれ、富豪になった人をひとつひとつ列挙して書いています。
「富者、人之情性、所不學而倶欲者也。」
この意味は、「富を求めるのは人の本性であり、教えてもらわなくても誰もが欲するものなのである。」となります。今も昔も一緒なんですね^^。
中には、「醫方諸食技術之人、焦神極能、為重 也。吏士舞文弄法、刻章偽書、不避刀鋸之誅者、沒於賂遺也。農工商賈畜長、固求富益貨也。」のような文も。意味は、「医者や技術者も、集中し能力の限りを尽すのは報酬が欲しいからである。官吏が法をうまく操り、印や筆跡を真似て偽造まで行い、打ち首や鋸引きの極刑を恐れないのも賄賂に目がくらんでいるからである。このように農工商人・畜産業などに関係のない者ですら金のために動くのである。」というような手厳しく批難しているところもありますが、珈琲貴族なりに集約すると、「富豪になった人たちは、法を曲げ悪事を働いて富んだのでもない。いずれも物の理法を見抜き、時勢にうまく歩調を合わせたから富豪になったんですよ。お金に執着することよりも、頭を使いなさい、そうすれば、お金は向こうからやってきますぅ~~~」って^^。
ホントかいな^^。

当時の千銭で買えたものです。今の時代に直すと、1銭が30円ぐらいとありました^^。
ということは、3万円で何が買えたかになります。
穀物が124 リットル、酒は甕(かめ)1瓶(24 リットルくらいかも^^)、牛や羊の肉1匹分、ふぐ260g、そのほかの魚30kg、竹ざお10本と文献にありました^^。ふぐは、今も昔も高価ですよね^^。
そのほかは、馬車1台30万円、牛車1台30万円、銅器7.8kg30万円、そして奴隷も1人30万円でした。

それじゃぁ、当時の給料は^^。今の日本円で換算してみますね^^。
司馬遷の時代から約100年経っていますが、役人の月給が記録されています。
位は、候、尉、士吏・・・・候吏と呼ばれていましたが、最高位の候は、60リットルの食料と180万円くらいになります^^。現在の日本で、官庁の事務次官クラスとほぼ同じか少し高いくらいかも^^(だって、この時代ボーナスはありませんもん^^)。士吏で、60 リットルの食料と36万円、最下級の候吏で、60 リットルの食料と18万円くらいでした。
本当はその下に、雑役の戌卒(じゅそつ)がいました。いわゆる兵隊さんです。彼らは、60 リットルの食料と衣服と2~3万円くらいだったみたいです。
もちろん、大きな時代のズレはありますが、先に書いた物価と比べてみると、どれだけの生活をしていたのか、わかるのではないでしょうか^^?

この「史記」、政治経済、社会のあり様、そして当時の秩序を保つ制度など、歴史的価値は、金額に換算すると、億でなく兆になるそうです^^。
今ごろ、司馬遷が生きていたら、印税だけで、ビル・ゲイツと並びそうですよね^^。そして、司馬遷自身を「貨殖列伝」の富豪のひとりで1巻ぐらい書いちゃいそうですよね^^。
でも、司馬遷自身、そのあとの「太史公自序」で、この「史記」を書いた経緯をしっかりと書いています^^。そして、それが、「史記」の最終章となって終わります。
その字数、526,500 字です。
これは、もちろん中国ですから漢字だけです。日本語にするとその10倍以上になってしまうでしょうね。

そろそろページも満タンになってきました。
やはり、当時の中国の情勢を書くだけで終わってしまいました^^。

この回の最後に、この雄大な中国を舞台に、日本の作家たちが実に多くの中国歴史小説を書いてきています。

もちろん、私の大好きな作家の一人でもある浅田次郎の宦官を書いた「蒼穹の昴」や「中原の虹」、もう必ず1冊は枕元に置いている宮城谷昌光の数々の書を、一人でも多くの方に読んでいただきたいと思って、幾つか作家と書名を書いてみますね^^。

もちろん、他の作家も書ききれていませんが、特に、陳舜臣、宮城谷昌光は、全集で何度も何度も今も読んでいます^^。

井上 靖    「楊貴妃伝」「敦煌」「孔子」「桜蘭」
海音寺 潮五郎 「中国妖艶伝」
司馬遼太郎   「項羽と劉邦」「戈壁の匈奴」
芝 豪     「太公望-殷王朝を倒した周の名軍師」
柴田連三郎   「毒婦四千年」
陳 舜臣    「秘本三国志」「諸葛孔明」「曹操残夢」「小説十八史略」「儒教三千年」「中国五千年」「耶律楚材」「チンギス・ハーンの一族」「実録・アヘン戦争」・・・
渡辺 精一   「諸葛孔明の憂鬱」
伴野 朗    「中国の群雄 乱世の英雄」「呉・三国志 」・・・
南條 範夫   「煬帝艶史」
魯迅      「故事新編」
宮城谷 昌光  「孟夏の太陽」「花の歳月」「晏子」「楽毅」「三国志」「春秋の名君」「春秋名臣列伝」「戦国名臣列伝」・・・

それでは、次回、いよいよ「史記」の中に入っていきます^^。
ただ、描き手が横着&暑がり^^ですから、次回は今月の下旬ころになるかもしれません^^。
皆さん、待っていてくださいね~~~~~~~^^。


清少納言と紫式部(1) 女性(おんなさが)^^

2008-07-09 12:00:00 | 文学サロン
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平安文学をずっと追っかけてきました。
この編を書き終えたら、文学のジャンルを少し中国に飛んでみようかなって^^。
「史記」「三国志」「唐詩/宋詞/元曲」「書聖 王羲之について」などで烏龍茶で一服して^^。
そして、また、万葉集から、平安、鎌倉に戻ってこようかなって思っています。
そしてそこに仏教の編も入れながらになりますけど^^。
まぁ、気儘に、好きなときにって^^、そんな「戯れ綴り屋^^」なんですよね、珈琲貴族って^^。

今回は、清少納言 VS 紫式部 のオンナの確執についてです^^(おいおい^^)。

第一回の文学サロンで、「日記」について書きました。
それも女性が描いた「日記」、右大臣道綱の母の「蜻蛉日記」、菅原の孝標(たかすえ)の娘の「更級日記」、そして、珈琲貴族が大好きな和泉式部の「和泉式部日記」です。

しかし、やはり平安の女流文学には、清少納言と紫式部を欠かすことはできません。なにより、珈琲貴族が書かないと恨まれてしまいますから~~(おいおい^^)。
文献や風聞でちょっと異なりますが、世界の三大美女の一人と噂された小野小町は、ゆっくりと在原業平なんかと交えながらいずれ描いていきますので、こちらは、こちらで楽しみにしていただきたいと思います^^。

だから、この回は、「枕草子」の清少納言と「源氏物語」の紫式部、その女性としての生き様(よう)となります^^。
もう、女性にはたまらない話題ですよね^^。ワクワクドキドキですね^^。

その「枕草子」と「源氏物語」、それと二人の和歌については、別の機会で詳しく描いていければって^^。ごめんなさいです^^。

彼女たちの残してきた文学は、国宝世界遺産と言っても過言ではありません^^。
「枕草子」、「源氏物語」、「紫式部日記」、そして数知れない和歌の数々を、それに纏(まつ)わる文献を何度も、何冊も、ヒマに任せて読んできた珈琲貴族論として書いていきますね^^。

なにかと清少納言と紫式部は、平安の女絵巻として必ず比べられてきましたし、おそらく、これからも比べられていくのでしょうね。もちろん、その優れた才は然りですが、その他でも話題に事欠きません^^。
まぁ、ふたりとも根性の悪さでは双璧、似たもの同志なのかもしれません^^。女性の中には意地悪があって当然なのかもしれませんが、さぁて、清少納言と紫式部、どちらが、意地悪だったか、そして読者の皆様は、果たして自分自身はどっちなのかって、心に聞いてくださいね^^。おいおい^^、みんな、そんなに意地悪じゃないって^^。

作家酒井順子さんの書に書いてましたが、清少納言は、「自分が意地悪だと自分で理解している意地悪さ」で、紫式部は、「自分が意地悪だと思っていない意地悪さ」、なんだそうです。
でも、その言葉を読んで改めて二人を読んでいくと、もう本当に的を得ているんですよね^^。

ただ、平安時代という完全な男性社会の中では、そのような生き方をしなければ、立場を確立した生活ができなかったのかもしれませんね。
おそらくでなく、彼女たちは、紛れもない今の社会で言えば、キャリアウーマンでしたから^^。

清少納言と紫式部は、それぞれが、皇后のお仕えをしていました。今で言えば、宮内庁です^^。
清少納言は、藤原の定子。紫式部は、藤原の彰子に。ある文献には、定子は「ていし」、彰子は「しょうし」が正確な呼び名だと記してありましたが、私は、「さだこ」と「あきこ」でいいと思っています^^。
その定子と彰子は、第66代一条天皇のお后(きさき)でした。
お后の宮中とは、ほかにすることがないのか、遊びが主流のサロンを作っていました。
定子には、清少納言がいて、彰子の方は、より華やかで、紫式部、和泉式部、そして「栄花」物語の作者でもある赤染衛門が在籍^^していました。

清少納言と紫式部の確執は、ある意味、この定子と彰子が作りだしたものであり、そこには彰子を宮中に入れ、いずれ天皇を産ませて権力を為すがままにしたい父親である藤原道長の思惑も絡んで、それこそ、本当に宮中を二分する勢力だったようです。
二時間ドラマの「陰湿ぅ」では足りない時代絵巻が存在します^^。それこそ、お正月のTV東京系の12時間ドラマになりそうな陰湿さ~~~^^。
ここに、その藤原道長の思惑どおりに天皇史では有り得なかった「一帝二后」が誕生するのです。

ここで、定子と彰子ですが、
定子は、14歳で入内しました。今の社会なら100%児童福祉法違反^^、一条天皇も淫行となって逮捕されますが、この時代では当たり前でした。そして、それからあとの武家社会になっても政略婚として10歳そこそこで嫁いでいくことは珍しくもなんともないことでした。

定子は、風雅を重んじ、機知を喜び、清少納言が「枕草子」で書いているように実に聡明な生き生きした女性でありました。

定子の死に臨んで書き残したとされる
「夜もすがら 契りしことを 忘れずは こひむ涙の 色ぞゆかしき」
は、「百人秀歌」にも入っている秀作とされています。

意味は「一晩中私と契りを交わしたことを忘れないでウッフン^^(おいおい^^)、私の死んだあと、あなたが流す涙はどんな色なんでしょう。それが知りたいのです。」です。
詠んでいても、泣けてきますよね。その定子は、24歳で亡くなってしまいます。定子の死後、お家は没落の一途を辿って、定子が儲けた敦康親王は、一条天皇の第一子でありながら、即位をすることはできませんでした。
しかし、定子が君臨していた時代、その名にふさわしい平安王朝サロンを宮廷に根付かせた功績は多大なものがありました。そして、その風潮をどの后も受け継ごうとしました。歴史的意義としてもかなりのものだと思います。

そして、彰子。
彰子は、なんと87歳まで生きたんですよ~~~~~~~^^。
入内は、12歳、嫁ぎ先は、従兄(いとこ)である8歳年上の一条天皇。
その時の后、定子は、11歳年上でした。
彰子の聡明さは、赤染衛門の「栄花物語」などで垣間見られ、「賢后」として、大女院と呼ばれるくらいに尊崇されていました。
定子のそのサロンを引き継いで、より華麗なサロン世界を繰り広げていきました。

そして、68代・後一条天皇と69代・後朱雀天皇となる実子を儲け、父親藤原道長を念願の関白とした親孝行娘でもありました。その間に、少し父親を恨んだりをするのですが^^。

ただ、定子は難産で帝より先に死去しましたが、彰子は、帝、そして息子である後一条天皇に先立たれ、彰子の和歌には、その悼みの胸中の作品が多いのが特色なのかもしれません。
「逢うことも 今がなきねの 夢ならで いつかは君を または見るべき」
夫の一条天皇が崩御したあとに詠んだ和歌です。
「逢うことももう今はない。泣いて寝入って見る夢ばかりなの。またいつかあなたに逢えるのでしょうか」
もう、ここまで言ってもらえれば、男として本望ですよね^^。

そして、愛息子である後一条天皇が崩御。

その時の和歌は、今でも通じる母子の愛なのでしょうか。
「ひと声も 君に告げなん ほととぎす この五月雨は 闇にまどふと」
意味は「一声だけでも、亡き我が息子に告げてほしいのです。私はこのさみだれの夜に、子を思う闇に惑っていると」になります。

息子だけでなく、長生きをしたためでしょうか孫までも先立たれました。

これが、定子と彰子です。

清少納言も紫式部もそれぞれのお后の女房として遣えてきて、何処からか紫式部に敵意が生まれたのでしょうね。

女房???
今でさえ、この言葉は、日常は奥さんや妻として使われていますが、それは江戸時代に入ってからだと思われます。
もともとは、宮中で高い官位の女性の部屋のことを「房」と言ってました。そこで世話係りをして遣える女性を女房って呼んだんですよ^^。貴族の子女の教育係りも女房の役目でした。

でも、ここまで読んで、ちょっとオカシイとは思いませんかぁ~~~~~~~~~^^。

定子と彰子、実際には、同じ宮中で過ごしたのは、一年余りなんです。
彰子を基点とすれば、一条天皇より8歳年下で、定子は11歳年上の時に嫁いで来ました。
12歳で嫁いで来て、そのとき、定子は23歳。そして、翌年の24歳で亡くなります。

そうなんです。そのたった一年のことなんですよね^^。帝を巡る敵対関係も。
だから、一説には、清少納言と紫式部は一面識もないと言われています。それも、決して、嘘ではないかなって、最近思えるようになってきました。

さぁて、清少納言と紫式部の宮中におけるそれぞれのお仕え后の位置を書いたので、これからは、いよいよ二人にスポットを当てて、本題に移りたいと思います^^。

まず、どうして清少納言と紫式部の確執と言われるようになったか、からですよね。
それも、お互いがもしかしたら顔も会わせていないかもしれないのに^^。

以前にも書きましたが、やはり「紫式部日記」の一説が最大の原因でしょう。
原文を書くと長くなり、読みつらくなりますので、現代語訳で^^。

「清少納言というクソオンナ!は、得意顔でひどく嫌な鼻持ちならない人でした。枕草子では、あれほど利口ぶってどんな男たちにも尾を振って^^(おいおい^^)、漢字を書き散らしていますが、その知識のレベルは、みんなが感心するほどでもなく、私から見れば、たいしたこと全然無く、嘘の教養で、十分ではないことが多く目に付くだけです。このように、ちょっと知ったかぶりの漢文の知識を引用したりして、他の人とは格別に優れていようと好んで思う人は、必ずホントは見劣りし、自然に、そうあってはならない誠実でない態度になってしまうに違いありません。こんな不誠実なオンナの最後は、悲惨でしょうね。嗚呼、楽しみ~~!」

ぎょぇ~~~~~~^^!珈琲貴族がかなり脚色をして、すんごい現代訳になってしまいましたぁ~~~~~~~^^。でも、ほぼ、このような感じで書かれてました^^。

漢字漢文に紫式部は拘っていますが、当時、藤原公任(きんとう)の「三舟の才」にもあるように、漢詩は学問の最高峰で、殿方で漢詩が出来ることは上流貴族の間では当たり前でした。清少納言は、その男がすなる漢詩というものにも造詣が深いことを思わせていたことに紫式部は、「坊主憎けりゃ、今朝も早い!(おいおい^^)」って心境だったんでしょうね^^。

「三舟の才」、以前にも説明しましたが、ほとんどの方がお忘れかも^^。

復習~~~~^^!再度、ご説明させていただきます^^。原文は「大鏡」から引用しますね^^。

昔むかし、藤原の公任ちゃんという自分がとにかく今の世を謳歌しているお坊ちゃまがいました。
ある日、当時の陰の最高権力者藤原の道長ちゃんの舟遊びの招待を受けました。その舟は三艘あって、一つ目の舟は「管弦丸」、二つ目は「和歌丸」、三つ目は「漢詩丸」でした。道長ちゃんが、「さぁて、公ちゃんはどの舟に乗るんだろうね」って、女性を侍らせて笑いながらいいました^^。もちろん、周りの女性たちもワクワクでぇすぅ~^^。自意識過剰の公任ちゃんだって、注目されているのを知りすぎるくらいに知っています^^。
そして、公任ちゃんは、「エィ~~!」って、「和歌丸」に乗っちゃいました。
そして「をぐら山 あらしの風の さむければ もみぢの錦 きぬ人ぞなき」(意味=小倉山や嵐山から吹く風が寒いので、美しく紅葉した葉が人々の体に散りかかり、誰もが錦の着物を着ているよね^^それがまた風情があるね^^。 )、って一首を苦もなく詠み上げ、その宴の人たちを唸らせました。もちろん皆が唸ることはわかっていたのですが、舟から上がった公任ちゃんが「嗚呼、漢詩の舟にすれば、もっともっと名声を博したのになぁ」とため息交じりに言いました。

と、これが「三舟の才」の藤原公任のイヤラシイ^^物語なんですが、それくらい漢詩というのは、才人の才人による才人のため^^の文学でした。

これからすれば、あの定子サロンから彰子サロンに時代が移ったときの会話が容易に推察されます^^。
ここからは、あくまでも迷探偵珈琲貴族での脚本です^^。


時  平安時代
場所 クラブ宮中 今の京都御所^^

彰子「あらぁ~~藤原の実(さね)ちゃん、ここへ遊びに来ていたの?また、歌留多????だめよ~~~~ん、私の可愛いお嬢さんたちにお手付きしたら^^。もう、彰子、妬いちゃうから~^^」
実方(さねかた)「あははは、中宮殿、この実方は紳士でおじゃる。それにご婦人方には不自由してないでおじゃるまする」
紫式部(胸の中で)「すてきぃ~~~~!」
実方「今日はここに唐詩の杜甫と白居易を少し話したくなって、ここに来たでおじゃる。おっ、紫とやら、そちは、どうじゃな。」
紫式部(真っ赤になってしどろもどろで)「ほぇ~ほぇ~~~ほぇ~~、ワチキは、漢詩が出来ないでありんす」
実方「紫は花魁(おいらん)でおじゃるかぁ、あははははは」
彰子「もう、実ちゃんたらぁ、紫ちゃんを苛めて~~~いけずやなぁ」
実方「定子中宮が生きていたら、あっちのサロンには清(せい)がいたのにおじゃるぅ。何でも話せたいい女房だったでおじゃる。定子中宮が逝ってしまって、清もどこかに潦(にわたずみ)になってしまったでおじゃる。つまんないサロンになったでおじゃる。」
と、言い残し実方は、仙台に去っていってしまったのであったぁ~~~~^^。

と、この大嘘^^舞台を見る限り、紫式部は、女性として慕い続けている実方にバカにされ、尚且つ、突然いなくなった清少納言を未だに思い続ける実方に嫉妬したのかもしれません。そして、それが、「清少納言!憎し!!」になったと^^。(おいおい^^)。なにしろ藤原実方は、あの「源氏物語」の光源氏のモデルと言われています。

でも、紫式部が漢詩ができないことはありませんでした。父親の藤原為時などは、その漢詩の教養に男に生まれなかった娘を嘆いたほどでしたから。「教養は、人前で決してひけらかさない」これが根底にあったから、サロンでそれを知っているものがいなかったのでしょうか。積もりに積もったのかもしれませんし、清少納言がある意味、哀れだったのかもしれません。

ちなみに、清少納言は、「せいしょう・なごん」ではなくて、「せい・しょうなごん」が正式な読み方です^^。大納言、少納言と位を意味しています^^。なぜ、そう呼ばれるようになったのかは、未だにわかっていません^^。だって、本名は、清原諾子(なぎこ)なんですよ^^。

藤原実方と清少納言の男と女としてすでに出来上がってた証拠の意味ありな和歌交換は、「平安のイケメン」ですでに書いていますが、その文章をそのままここに再度貼り付けますね^^。

磔(はりつけ)~~~開始ぃ~~(おいおい^^)

実方と納言、あんなに愛し合ったのに別れてしまい、久しぶりに宮中で会って、納言ちゃんが「あなたは、もう私を忘れたのね」とひと言。すかさず実方は、
「忘れずよ また忘れずよ 瓦屋の 下たくけぶり 下むせびつつ 後拾遺 707)」で返します。
「忘れないよ 忘れないよ 瓦を焼く小屋で、煙に咽ぶように声を殺して泣いているんだよ。あなたのこと忘れたことなんてないんだよ」って^^。
すると納言もすかさず
「葦の屋の 下たく煙 つれなくて 絶えざりけるも 何によりてぞ」
って返します。「表には燃えているように見えなくて、でも消えてしまわないって、それは本当なの?」
この実方と清少納言の未練の駆け引き、凄さを感じますよね^^。

貼り付け~~~終了~~^^

あっ、PR^^!
脚本の実方の最後に「潦(にわたずみ)」と出てきますが^^、「行方知らず、行方知れず」の意味で、珈琲貴族の歌の作品にも出てきます^^。

これ以降は、その楽曲とともにお楽しみくださいね^^(おいおい^^)
潦(にわたずみ) ←クリック^^
尚、この楽曲と清少納言は一切関係ありません^^。

ただ、これだけで紫式部は、逆上したのではありません。清少納言に、夫を貶されたのです。
夫である藤原宣孝を「枕草子」の「あわれなるもの(115段)」中で、御嶽参詣に普段着で参拝すればいいものを藤原宣孝なるものはキラキラしてド派手な装束で参拝する誰もが首をかしげる呆れかえった御仁でしたと書いています。それに、紫式部の従兄弟のこともボロクソでした。
紫式部もやり場がなかったのでしょうね。

清少納言は、とにかく人に負けることを嫌いました。女勝負師とも言える執念がありました。「嬉しきもの(258段)」にも見えますが、「職の御曹司におはしますころ、西の廂に(83段)」が、もう傑作です。それも自分で書いているから、凄いのかもしれません^^。

十二月の中旬に京都に雪がたくさん降り積もりました。そこで皆で雪山を作ることとなり、中宮定子の命として本当に大勢で数日がかりで大きな大きな雪山を作っちゃいました。札幌の雪祭りみたいに自衛隊まで出動させちゃったみたいに^^。でも、皆が「ここまで作っちゃっても今年中に溶けちゃうんだろうね」「せめてお正月くらいは持ってほしいはね」など言い合いました。定子も「ちょうどひと月あとの1月10日位までは・・・」って。でも、それは無理だと皆が思っていたところ、清少納言が「いえいえ、それ以上大丈夫ですよ」と言い切りました。でも、本当は言い過ぎたかなって。さぁ、ここからが清少納言です。撤回は絶対にしない性格です。普段は、身分の低いものには見向きもしないのに、下男を呼んで、お菓子などを差し入れ、「守ってね、ウッフゥ~ン」とねぎらったりして、必死そのものでした。なんとか10日も過ぎて、約束の日が明日になったときに、まだ一塊が残っていてそれが決して溶けないって報告もあって、「わぁ~~、明日それを持って中宮様に褒めてもらおっと」と有頂天で寝てしまいました。もう、勝ちに勝った清少納言でした。こんだけ負けず嫌いだったんですね^^

でも、この話しにはオチがあります^^。翌日、その最後の雪が溶けてなくなっていたので呆然としました。もう、泣きそうで「えっ、どうして~~」と嘆き悲しむ清少納言に中宮定子が「私が棄てました」と一言。これは、定子が、清少納言が図に乗ってしまわないようにとの計らいでした。それは、逆に定子がこれ以上清少納言がテングになって他人との軋轢を起こさせないようにとの配慮だったみたいですけど^^。
早世しましたけど定子中宮はなかなか人を見る目があったようです。

「枕草子」を読んでいきますと、清少納言の異常なくらいの気位の高さ、その好き嫌いを誇るように書き連ねています。身分の低きもの、方言を含む言葉の汚いものへの攻撃は凄まじいものがありました。
「うつくしきもの(145段)」などは、幼児の顔、人形遊びの道具、ヒヨコ、カルガモの卵、瑠璃で作った壺(香水壜)などと書いてあり、「あてなるもの(40段)」にも、高貴なものと鮮やかに表現しています。

気の強さはいつまでも健在でしたが、35歳で宮中を去っていきました。それからは、詳しいことはわかっていません。

一方の紫式部を見ていきますと、ネチネチ派です。それも自分には火の粉が降りかからないように裏で慎重に動くタイプなのでしょうか^^。

紫式部日記の中の「11/22<いじめ>」の記述の中にイジメのひとつが披露されています。
宮中行事の「豊明節会」の舞の宴のことです。紫式部の日記を現代訳でちょこっと^^、もちろん珈琲貴族の意訳文ですが、それに伴う文献もほぼ同じことで訳されています^^。

「若い身分の低い人がする介添役に、ババァの左京馬がいた。昔は宮中に住んで偉そうにしていたくせに。いまでは、落ちぶれてざまぁみろってところね。よし、みんなで皮肉ってやろう。と、不老不死の意味を持つ蓬莱山を描いた扇に、『バァさん目立つわね、いつまで生きるつもりなの』という歌を添えて送ってあげたの。中宮は「同じならちゃんした形で贈らなければいけないわよ」と言われたけど、『ほんのいたずらですから』で済ましちゃったわ」とあります。

一時は飛ぶ鳥を落としていた花形だったスターが、数十年経って「あの人は今^^」でやつれて、それでも生活費を稼ぐために出演したのでしょうか。それにしても、度を越したイジメですよね。
それは、単なるイジメではなく、「私は、あんなふうにはなりたくない」と自戒もあったのでしょうか。

和泉式部にも「なかなかいい和歌は詠むって評判で、そうも思うけど、別に際立って才能があるってわけじゃないわ、それにけっこう男関係はふしだらな女性だし、周りの男たちが持ち上げているだけじゃない。」と辛辣です。この二人は、同じサロンの仲間でした。
ただ先輩の赤染衛門には一目置いていたようですが、これは、純粋な動機でなくって、和泉式部より可愛がってもらいたい一心で擦り寄っていったようにも読めます。

それに今いる彰子のサロンが一番である誇りと、そして人から言われる悪口には敏感で、「1/3<左衛門の内侍>」のところには、私の悪口を言いふらしているバカがいるけど、私は帝からも道長様にも可愛がってもらっているのに、知らない左衛門はあとで吠え面をかくわよ」と一撃を食らわしています。

自分の性格は、みんなお高く止まっているって見てるけど、本当は「人見知りなだけなの」と言い放ち^^、「あまり目立つことをしたくないの、だって、みんなに避けられるでしょ」と。

唖然、呆然の紫式部の連続ですが、本当に世間知らずのお嬢様が為せる技だと思えば^^。

最初に確執と書きましたが、実際は紫式部一人がキリキリしていたみたいですね^^。清少納言は、どこかで高みの見物でもしてたのでしょうか^^。

こんな二人ですが、あれから1000年経っても、その名と書は燦然と輝いています。
紫式部日記から、ちょうど1000年。
来年、横浜美術館で、「源氏物語1000年展 王朝ロマン」が開催されます。そこに二人が、実在でいてくれたらいいのですけど^^。


「枕草子」「源氏物語」など学校で教えられたつまらなさを払拭して、今一度、「こんなに面白いんだ」って、是非読んでもらいたいです^^。
「枕草子」「源氏物語」研究、後日しっかりと描いていきたいと思います。

「女傑とは意地悪なりぃ~~~~~」、昔からの定説なんでしょうか^^(おいおい^^)

西行法師「無常」ということ

2008-06-28 00:00:00 | 文学サロン
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今回は、また文学に戻ります。西行法師についてです。
平安時代の僧侶歌人です。平清盛と同じ誕生年です。

予告していました「仏教その七…付録」は、今、古い珈琲貴族が作った昔のワープロの資料から書き写し中ですぅ^^。
その上、珈琲貴族の秘書がぁぁぁ^^怠けていますぅ~~~~。(おいおい^^いないって^^)。
ただ、その付録はあくまでもハンドブックとした仏教用語を数字で集めたものですから、読むというよりも閉じてファイルですぅ^^。
ページが予想よりも多くて、2回に分けての投稿になりそうなんですが^^。
付録はあくまでも付録でぇす^^。

実に実に実に・・実に~~~多くの方が、西行法師のことは名前と「山家集」ぐらいは知っていても、「誰?」「だから?」って思うような人だと思います^^(おいおい^^)。

それでは、どうして今回の珈琲貴族の文学サロンは、「西行法師なのか?」ですよね^^。

やはり、「無常」という言葉に尽きます。西行法師の和歌の中にみる美意識なのでしょうか。
この「無常」をどこかで皆さんにわかっていただきたいのかもしれません^^。

しかし、西行法師の、この「無常」ということが、「今の日本の文化と純粋な文学の流れを作った。」といっても過言ではないかもしれません。その意味では、西行法師は、今の世では文化功労賞&国民栄誉賞になるのかもしれません。一度は、その人物に触ってもいいんじゃないかなって^^。

「無常」は、もともとは、中国から伝わってきた仏教用語です。ただ、この西行法師の「無常」、実に日本的に解釈をされて、「心」を描いていっています。その影響がどこまで及んだのか、それは今の日本に脈々と生きていると考えたからです^^。

さぁて、珈琲貴族は、そんなことをいつ考えるのでしょうか^^!
それは、寝ている夢の中で、ですぅ、起きているときは、生活に追われてて^^(おいおい^^)。

今回も多々眠くなるかもかもしれませんが、これを読めば、きっと現在の皆さんの立っている一人一人の位置が確認できるかもしれません。(そんなオーバーな^^)

この西行法師は、どうしても珈琲貴族の「文学サロン^^」を書いていくには欠かせないものなのです。そして、「仏教サロン^^」とも切り離せない接着剤の役をしてくれています。

あっ、「にしゆきほうし」じゃないですよ~^^、「さいぎょうほうし」ですぅ^^。

「無常」とは、広辞苑で引くと、「一切のものは生滅、転変をして常住でないこと」、「人生のはかないこと」と載っています。

この「無常」を平安、鎌倉時代の文学で紐解くと、三作品、すぐに浮かんできます。紐解いてくださいね~~^^。読めばきっと、「ああ、知ってる、知ってる^^」と頷くはずです^^。

まず、そのものズバリの「無常」が出てくるものとしては、「平家物語」なのでしょうか。源氏に敗れた平家の栄華衰退没落を描いた軍記です。
盲目の琵琶を弾く僧侶がこれを歌のように読むことで、皆さんは知っていると思いますよ^^。この「平家物語」の作者は、未だに数人の候補がいるとは言え、不明なんですよ^^。

読み応えはありますよ、登場人物1000人以上、「祇園精舎」から始まり、「女院死去」までの182編、それは涙涙です。びぇ~~~~ん^^。
珈琲貴族は、途中で飽きましたけどぉ~~~^^(おいおい^^)。
それでも、根性で読み終わりましたぁ^^、でも、やはり最後の巻は、グゥってこみ上げるものがありましたもん^^。

根性で読む!!!!!!読書って、もしかしたら、「好き+根性」なのかもしれません^^。
山岡荘八の「徳川家康 全26巻」を2ヶ月で読み終えたときは、大きな声で「よっしゃぁ~~~!」て叫んだのを覚えています^^。28歳の時でした^^。ただ、さすがに2年前に漫画の青山剛昌の「名探偵コナン」を一気に50巻読み終えたときは、叫び声よりもヘトヘトでしたけど^^。灰原哀が、好きなんです^^(おいおい^^)。

また、寄り道ぃ~~^^。ハンドルを右に廻して、ちょっと大通りに戻らなきゃ^^。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりを現す。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のどとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

さてさて、「祇園精舎」って、何かわかりますか^^。
都が京都にあって、その地名の祇園祭などを想像して、京都にあるお寺って、多くの方は思っています。この祇園と京都の祇園祭りの祇園とは、まったく異質のものなんですよ^^。

もちろん、珈琲貴族は、京都祇園町の南側花見小路の茶店の一室で、舞妓はんと芸妓はんと遊びたいのはやまやまなんですけど^^、一見さんお断りで、紹介があっても一晩百万円近く掛かる遊びは、びんぼ~~没落貴族には、できまへん^^。そやけど、先斗町(ぽんとちょう)にしても、ええとこどすなぁ、お金持ちには~~~~~~~^^(おいおい^^)。

さてっと、「平家物語」の祇園!
これは、インドにある釈迦が説法をしたお寺なんです。
祇園は、祇樹給孤独園の略で、釈迦の為に寄付をした樹木とその土地のことです。精舎は、その中に建てた修行宿舎なんです。
だから、沙羅双樹というインドの木が出てくるんです。

ついでだから、現代訳を、してみますね。
「祇園精舎にある鐘の音は、諸行無常の教えを唱えるかのように鳴り響いています。釈迦入滅の時に白色に変じたとうい沙羅双樹の花の色は、あたかも盛者必衰の道理を表しているのでしょう。

驕り高ぶった人も、いつまでも驕りにふけっていることはできません。それは春の夜の夢のように儚いものです。勇敢なものでさえ、いつかはついには滅びてしまいます。それは、あたかも風の前の塵のようなものです」

「風が花を散らすように、無常が人の命を奪い去ること」を「無常の風」と言います。そこに通じているのかもしれません。

どうですか、なかなかでしょ^^。

もうひとつ余談を、ついでですぅ^^。
琵琶法師って、琵琶法師さんという名のお坊さんじゃないんですよ^^。琵琶法師って一人じゃないんですよ^^。勘違いしないでくださいね~~^^。
昔、琵琶という楽器を弾きながら、お経や平家物語を街中で唱(うた)ってお布施を頂戴していた盲目のお坊さん全員のことなんですよ^^。平安時代からいて、鎌倉時代が主流だったんですが。
今で言うところの、盲目ではありませんが、ギターを駅前で弾き語っている人たちに似ているかもしれませんね^^。ギターケースが、お賽銭箱でぇ~~~^^。

次の「無常」が、鴨長明の「方丈記」
「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と住みかと、またかくのごとし。」

そして、吉田兼好の「徒然草」です。
「あだし野の露消ゆる時なく、鳥辺山の煙立ちも去らでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからむ。世の定めなきこそいみじけれ。
 命ある物を見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどにだに、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢のここちこそせめ。」
この場合の「あだしの」は、墓地。「鳥辺山」は、埋葬する山を意味しています。

この3作品の頭の部分だけでも、覚えていて損はないと思いますよ~~~^^。

この「無常」は、おそらく、こんなことを書くと欧米の方に失礼に当たるかもしれませんが、日本人にしかわからない世界観なのかもしれません。
日本人が「桜」を「はな」と呼び、散る儚さを満開に見てしまうのは、生きているものの常無き様を感じるからであって、だからこそ、その満開の盛りの時に、より美を感じていたいという刹那無常の美意識なのかもしれません。

西行法師がもしこの世に出ていなかったら……松尾芭蕉も世阿弥も世に出ていなかったかもしれません。

さっき「刹那無常」という言葉が出てきました^^。
この言葉に、私は、まず「世阿弥(ぜあみ)」を思ってしまいます。
父親が「観阿弥(かんあみ)」の能楽師です。立原正秋の文学には欠かせない「秘すれば花」。
これは、世阿弥が書き残した「風姿花伝」または「花伝書」にある言葉です。
「秘すれば花、秘せねば花なるべからず」、この言葉は、空理空論でない、今を生きていることの実感を書に認(したた)めて、後世に伝えていきたいとの喘ぎなのかもと思ってしまう力があります。世阿弥の能の世界は、その当時の世相や風刺や夢物語でなく、「平家物語」など昔に遡って時代を移しており、そこに世阿弥なりの「無常」を演じていたのではないかと思います。
この「風姿花伝」は、「花を知ること」と「花を失ふこと」が最大のポイントです。自分自身を「風」に例えて、そして生きている間は、「花」でありたいことを望むのでしょうか。私は、この「風姿花伝」を読んで、世阿弥の「刹那無情」を感じてなりませんでした。

でも、能楽師って、今でさえ陽を浴びていますが、卑しい身分でした。もちろん、公家武家には出入りができ、可愛がられていましたが、身分の高いものには、所詮、宴会時の余興軍団に過ぎない存在でした。
それを観阿弥と世阿弥が、芸を確立させたことにより今日があります。彼らなしでは、能はとっくに死んでいたかもしれません。その世阿弥の最後は、宮中から見放された惨めなものでしたが。

横道から、わき道に入って、なかなか大通りには出られなくなっちゃいましたが^^(おいおい^^)、本当に多くの作家の全集を読んだ中で、特に立原正秋、三島由紀夫を読み終えたときにも、やはりこの美意識は感じました。私にとっては、坂口安吾もですが^^。

立原文学の基点は、日本人、そして世阿弥。朝鮮半島で生まれた人間が、この日本に根を付け、誰よりも日本人らしい日本人として生きた姿は、彼の中に「世阿弥」が、そして「無常」への凄まじさがありました。
三島由紀夫も立原正秋とはちがう刹那美意識なのでしょうか。最後の書になる「豊饒の海」では、彼には珍しい「金閣寺」のような強い仏教感でなく、縋(すがる)る仏教感を書き綴っているように思えてなりませんでした。そして、自分自身の最期、いかに綺麗なまま死んで行くかを予告しているかのような。私たちが異常と思えたあの行動は、彼の中では、最高の美だったのでしょう。
そしてそれは盛りであり続けたいという渇望だったのでしょう。だからこそ、三島文学の「無常」へのこだわりを感じるのかもしれません。
坂口安吾の中にある「無常」は、弱いものを弱いと認める美意識、その弱さを自分で知ることが一流の証だと信じている美意識なのでしょうか。

いつかまた、現代文学に触れるときがあれば、太宰治、中原中也、宮本輝なども含めて、書いてみたいと思います^^。
いったい、いつになることやら^^。

西行法師は、俳句は描きませんでしたが、これまた、強い影響を受けている天才がいます^^。
えっ、珈琲貴族じゃないですよ~~~~~~~^^!おいおい^^!

先にちょこっと名前を出しましたが、松尾芭蕉です。
芭蕉は、西行法師の「無常」を十七文字に活かし続けました。

芭蕉の「奥の細道」の前に書かれたと言われている未完?の「笈の小文(おいのこぶみ)」があります。
笈(おい)とは、背中に背負う荷物の意味ですが、正確には、仏門修行者が仏具や日常の生活物を収めて背負う箱のようなものになるのかもしれません。

珈琲貴族が良く使う「おいおい^^」とは大きくちがいますぅ(おいおい^^、わかってるって^^)。

その一節に「西行の歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫道するものはひとつなり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。」とあります。
「四時」は、この場合「しいじ」と読んで、1年の四つの季節、四季を意味します。
「四時」は、もうひとつの意味があるんですよ^^。
一日に4回座禅をする時間を表します。午後8時、午前4時、午前10時、午後4時です。そして午後8時は、黄昏(こうしん)と言います。
皆さんが、今使っているちょっといい言葉^^!の「たそがれ」と同じです^^。意味は同じなんですが、仏教ではなんでも難しく読みますから^^。

あっ、どうして「たそがれ」って言うか?知ってますかぁ~~~~~~~~~^^。
「誰(た)そ 彼(かれ)は??」と、誰かの人の見分けがつきにくい時間だからなんですよ^^。

珈琲貴族は、「しいじ」でなくて「ジイジ」ですぅ~~~~~~~~~~^^。

芭蕉は、俳諧を当初、出世、世に出る小道具ぐらいにしか考えていませんでした。しかし、西行法師の和歌で、人生が大きく変わりました。37歳で深川の草庵で起居し、そして漂泊と庵住の日々を過ごしたわけは、西行法師の出家を範としたものでした。それまでの芭蕉は、遊び風刺を交えての作風でした。それがイヤになり自分の心の動きをありのままに絵として文字で書きたいと思い始めたときに西行法師の書に出会いました。それからの芭蕉は、西行法師に心酔して生涯の師として、なによりも目標としました。

ここから、珈琲貴族が西行法師自身を語っていきます。

まず、西行法師とは!(おいおい、いまごろ紹介かよ^^)

西行法師は、俗名を「佐藤義清(さとうのりきよ)」と言いました。藤原家の末裔です。武士として22歳までトントン拍子の日々だったのですが、23歳で突然、出家します。法位は「円位」でした。そのころから和歌により一層打ち込み始めました。

私の大好きな人、高杉晋作も西行法師に心酔していた一人なんです。
晋作は、『西へ行く 人を慕うて 東行く 我が心をば 神や知るらむ』と歌って、東行を号にしました。ここでいう西へ行く人とは、他ならぬ西行法師のことでした。
そして東、江戸幕府の討伐を目指して、東に行きました。おもしろいでしょ^^。

さて、その佐藤君(おいおい^^)、西行法師ですが、いろいろな人間に影響を与えているにも関わらず、出家の理由は不明で、出家の際に「パパ、行かないで~~~」と泣き叫ぶ4歳の子供を蹴飛ばして出家したそうです。本当かどうかは、わかりませんが。
でも、そこまでして、それなりの裕福な武家を捨て、恋女房を捨て、なによりも「パパぁ~~」と泣き叫ぶ子供を捨て、何を求めようとしたのでしょうか。
出家と行っても、寺で修行三昧でもなく、気が向けば放浪の旅、そして和歌を詠む、坊さんにしては、実に位(くらい)の低い僧でした。

西行法師は、勅撰和歌集(天皇の命によって編纂される和歌集)に最初に出てきたのは、詞花集に1首、このときは、なんと!「詠み人知らず」だったのです。そして、千載集では、「円位法師」の名で18首。

詞花集の詠み人知らずでの登場の記念すべき1首です。
「世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ」
でした。34歳の時の初入選でした^^。

この1首は、時宗の開祖である一遍上人を生んだ和歌と言えるかもしれません。亡くなってから、「捨聖(すてひじり)」と尊称されるようになりました。「捨てる」ことを自分自身に問うて、そして説いていきました。一遍上人の歌にも強く西行法師が見えています。
「世を中を 捨てて捨て得ぬ ここちして 都離れぬ わが身なりけり」と、「自分自身では世を捨てたと言いながら、都を忘れることができない自分が、世間の人たちに捨てよと説法できるのだろうか」と揺れ動く心を苦悩として西行法師は詠いました。それに対して一遍上人は、「世の中を 捨つる我が身も 夢ならば たれかを捨てぬ 人と見るべき」を詠い、「捨てるを意識するから、それが不安にもなってくる。捨てる自覚があればそのままで世を捨てたことになるのですよ。」と、自らの先導者にエールを贈っています。
西行法師と一遍上人の関係を書くと、また難しくなってきます^^。それにしても一遍上人の西行法師への求道もまた、芭蕉に通じるところが同じなのかもしれません。恐るべし!西行法師ですぅ^^。

珈琲貴族が、「無常」ということ以外で、興味を持ったのは、やはり新古今和歌集でした。
西行法師は、なんと94首も入選しています。 ダントツです^^!
この編纂の勅命を下した後鳥羽院の西行法師への思いに驚きました。WHY?って^^。
後鳥羽院が言葉に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあります。
後鳥羽院は、西行法師のプライドが高さの中にある静寂な美と色を歌い続けたことに魅力を感じていたのかなって思うと、もっと西行法師を知りたいと思ったのかもしれません。

西行法師の和歌の中で、「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」があります。
「願うなら、桜の花の咲く下で、春に死のう。お釈迦さんが入滅した、二月の満月のころに」が意味です。

西行法師は、73歳で入寂します。その日は、釈迦が入滅した日です。
その歌の通りの往生でした。享年73の当時では大往生だったのでしょう。
あっ、「享年73歳」って言い方は、間違いですよ~~^^。享年のあとには歳はいらないんです^^。
TVのワイドショーのコメンテーターの言葉に対しての無関心さには、呆れてしまいますよね^^。

西行法師は、和歌について、実に面白いことを話しています。
「和歌は麗しく詠むべきなり。」
「歌を詠むは、遥かに尋常に異なり。花・ほととぎす・月・雪、すべて万物の興にむかひても、凡そ所有相皆是虚妄なること、眼に遮り耳に満てり。又詠み出すところの語句は、皆是真言にあらず。花を詠めども実(げ)に花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月と思わず。ただ、この如くして縁に随(したが)い興に随い詠み置くなり」
そしてさらに「一首を詠むのは仏像を作るに同じ、その気持ちが揺らいで、この胸中に至って作らないと邪路に迷うだけなり」と続けています。

西行法師は、イコール「桜」と言っていいくらい「桜」を「はな」と言い続けて愛して止まない歌人でした。歌には、吉野山や平泉、京都では大原野の勝持寺の桜でしょうか。この桜は、西行桜と呼ばれています。
嵯峨の法輪寺南にある桜も有名です。この桜は西行が、「詠(なが)むとて 花にもいたく 馴れぬれば 散る別れこそ 悲しかりけれ」と詠み、新古今の一首ですが、「散るときの別れが一層辛い」って詠んでいます。

あの「願わくは・・・」にも、続く歌があります。
「仏には 桜の花を たてまつれ 我がのちの世を 人とぶらはば」です。
意味は、「もし私が成仏をして誰かがその冥福を祈ってくれるならば、どうか桜の花をお供えしてください」となります。
西行法師が帰依した真言宗は、即身成仏ですぐに悟りを開き仏になります。だから、死んだらすぐに桜の花をってオネダリなのかもしれません^^。

本当に「桜」を唯一の「はな」として愛して死んでいった人でした。

そんな西行法師は、見てきた景色を、目覚めなき己の心の風景とダブらせて、悟りきれない心の嘆き、葛藤をそのまま吐露して、それゆえにいつまでも僧侶として果たすことの出来ない人間への救済を、あえて書くとしたなら、その宿命を詠ったのかもしれません。

さてさて、こんな西行法師ですが、恋もしています^^。
珈琲貴族がそれを見たわけじゃないんですが、和歌を詠んでいて、「この坊さんも、なかかやるじゃん^^」って。
僧侶になっても恋をしてはいるのですが、出家も女房以外の誰かに恋をして、その悩み上の遁世、不倫ゆえの逃避行^^なのかなって、勝手に想像しています。
西行法師は、出家をしても、わかっているだけでも濃厚な^^「恋」と「月に寄せる恋」を数百描いています。

「しらざりき 雲居のよそに 見し月の かげを袂に 宿すべしとは」
この意味はかなりのもので、おそらく宮中などの高貴な女性と一夜二夜三夜を過ごしたことではないかと思われるものです。
「あのときは、雲居(高貴な方)をただ憧れとして、遥か彼方の月の光として見ていたのに、今はその人との別れで泣き濡れている」

また「弓はりの 月にはづれて 見しかげの やさしかりしは いつか忘れん」では、「弦月の光から外れて見ていた優美なあの人をいつ忘れることができようか」と。これは、逆に読むと「今まで月の光の中でしか見てこなかった高貴なあなたを、その光が外れる寝屋で見てしまった。その艶やかな姿、忘れたいけど忘れられない」と読めてしまいますよね^^。

その極め付けが「あはれあはれ この世はよしやさも あらばあれ 来む世もかくに 苦しかるべき」とあります。「あああ、あああ、この世のことはどうにでもなれぇぇ。しかし、来世もこんなに苦しいものなのか」ともう喘ぎの歌です。

これは、西行法師の「無常」でなく、「夢嬢」なのかもしれませんね^^。

このテーマの最後になりますが、「山家集」の中に、「無常の歌あまた詠みける中に」と詞書をして8首の和歌を載せています。

最初の4首は、無常を追い求めての痛切な嘆きであり、あとの4首は死と向き合う歌にしています。

その中の最初の歌だけのピックアップになりますが、
「いずくにか 眠り眠りて 仆(たふ)れ伏さんと おもふ悲しき 道芝の露」
仏の覚りに目覚めることもない自我の無明を嘆いています。絶望的な叫びなのでしょうか。

日本を、昭和を代表する文芸評論家の小林秀雄の「無常という事」、聞いたことがあると思います。
彼は、その中で西行法師に触れていません。西行法師の研究を自認しながらです。彼の中には西行法師が、決して「無常」という2文字で納まらなかったのだと思います。西行法師の和歌を探求し「皆、思想詩であり、心理詩でない。西行法師の風雅は、清淡とか簡単なものではなく、頑丈で執拗なものだった」と言い切っています。そして、「西行法師の自意識こそが最大の煩悩だった」と。
「ああ、そうだったのか」って、今頃、墓場で笑っているのかもしれません。

誰もが、今の世になっても「無常」を感じて語っていく、西行法師が、この日本に残した文化は、きっと計り知れないものだったのでしょうね。

次回は、平安女流歌人を書いて、それから司馬遷に「史記」を書いてみたいと思います^^。

ご精読、ありがとうございましたぁ^^。

珈琲貴族の仏教のお話し^^ 【その六・・・煩悩】

2008-06-11 12:00:00 | 仏教サロン
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今回は、「煩悩(ぼんのう)」を書いていきたいと思います。
この煩悩に関しては、従来の仏教としての「煩悩」のお話+珈琲貴族が作り出した斬新な道^^織り交ぜてのお話となります^^。もう、煩悩については、ここ十年くらい独りコツコツ学習してきました^^。坊主でも専門家でもないし、勉強とか研究というのも烏滸(おこ)がましいので、学習で留めておきますぅ^^。その、珈琲貴族煩悩は、しつこい汚れだけのようです^^。結果として、煩悩は浄化できない悩みのようです^^。
私だけじゃないんですよ^^。人間ならば、誰しもが~~~^^。あ~~、良かったぁ^^!!

これを読めば、一日で皆さんは、煩悩博士です^^(おいおい^^)。
そんな珈琲貴族学校の博士号なんて、いらないですよね^^。
今回は、博士号の分だけ、難しくて眠たくなるかもしれません^^。
最後の「六倫道」まで飛んでもいいですよ~~~^^。

珈琲貴族は、煩悩なんかを学習しながら、それでも、奢り、虚飾、妬み、蹴落とし、イカサマなどをどこか平気でやってきたようです。懺悔告白です^^。
でも、或ることがあり、そして最後に書いてある私自身が見つけた六倫道(六凛道)を実行するようになって、やっとこの一年前から、大きな邪悪な煩悩から解放されたようです。たくさん時間が掛かりました。でも、許されるなんて、もっと時間がかかりそうですが。(しんみり)

あっ、欲は、まだ沢山残っているようです^^。宝くじとか^^!

さてさて、ここまできちんと書かれた「煩悩」の解説って、もしかしたら、それなりの本を読まないと遭遇しないかもしれませんよ^^。それが、このページだけで解る!それって、お徳ですよね^^(おいおい^^)。

皆さんがよく口にする「煩悩」ってなんなんでしょう^^?

「煩悩」とは、衆生の心身をわずらわし悩ませる一切の妄念(もうねん)であります。妄念とは、誤った思いから生じる執念でありんす^^。

元来、古くはインド仏教の教えなんです^^。
それを中国経由日本へとエッコラサッサと運ぶ途中に、いろんな仏教が弄(いじ)り回して、本当に複雑にしてしまいましたぁ^^。

その弄り回したものを、珈琲貴族風に解説していっちゃいます。

日本で大晦日には、「除夜の鐘」と呼ばれて一年間に溜まった煩悩を一つ一つ消していくために108の鐘が打たれるのは周知の事実ですよね。

あっ、日本全国にあるお寺の鐘楼の鐘、上にぼっちがありますよね^^。
あの凸凸(ぼつぼつ)の数って、108なんですよ~~^^。その鐘を打つことは、「煩悩を討つ」の意味があるようです。

ただ、勘違いをして戴きたくないのは、「煩悩は108」と世間で言われていますが、これは明らかに間違いなんです。本当のところ煩悩は数えきれないくらいあります。仏教の世界では84000の煩悩と呼ぶこともあり、おそらく無限大でしょう。それだけ人間を悩み煩わしているということなのです。
「煩悩がなぜ108?」と言われているのには、幾つもの理由があります。

まず、発祥の地、インドでは、108が「大変多い数」という意味で使われていました。数字自体にはまったく、大きな意味はありません。煩悩は数えきれないくらい多いと言いたかったのかもしれませんね^^。それを中国と日本は、決まった数にしちゃったんですよね。
一番解りやすい108は、12カ月・24節気・72候で(12+24+72)に通じているからと言うものです。お寺の和尚さんの談話などは、これだけで済ますところがありますよね^^。
だって、説明が簡単で、なんか納得できるでしょ^^(おいおい^^)。
これは、以前私が書いた四国88箇所の88が、男と女と子供の厄年を足したもの(42+33+13)と相通じるものがあり、なにかこじつけの必然さも^^。

例えば、あの88箇所にしても、弘法大師がもう一箇所多く廻れば、89箇所になって、厄払いになるでしょうし、90箇所廻れば、苦渋にって解釈されたかもしれません^^。

前に戻って、宗教界全体が、煩悩の数は、108と決めているわけではないんですよ^^。倶舎宗では、169、唯識宗では 128、なんですよ^^。唯識(ゆいしき)宗は、法相(ほっそう)宗の方が名が通っているかもですね^^。聞いたことがあるかもしれませんね^^。奈良の薬師寺が法相宗です。

途中、停車しますが^^、法相とは、一切存在の現象の姿、あらゆる現象(相)は唯(ただ)人間の心の働きの反映であるとして、「万有は唯識の変化であり、阿頼耶識(あらやしき)以外に何も存在しない、あなたがいるからこの世は(宇宙は)存在する。あなたの考え方や行いで全てが変わる。一切の対象は心の本体である識によって現し出されたものであり、識以外に実在するものはないということで、また、それ自体存在しえないことをも含むために、この識も誤った分別をするものにすぎない」とすることが、教義の根本なんです。わかりましたかぁ~~~^^。

ここで、大きく深呼吸して一服ぅ~~^^。

阿頼耶識って、初めての人も多いと思います^^。人間には、普通六つの識があります。入学、卒業、成人、入社、結婚、葬の式~~~じゃないですよ^^。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識です^^。そして七識として末那識(まなしき)があり、その上に阿頼耶識があると言われています。末那識は、意識の意識とでも言えばいいのでしょうか^^。(なんじゃ、それ^^)。そして阿頼耶識は、根本識と呼ばれています。

法相宗が出てきましたので、また、ちょっと^^。
私の好きな好きな本の一冊に 『最後の名僧10人が語る「生きる喜び」』があります。
その中に故・橋本凝胤(ぎょういん)高僧がいます。法相宗の最高地位にいた和尚さんです。私は、大好きで尊敬をして止まない怪物和尚ですぅ^^。(大変失礼なのですが、以後、高僧でなく、和尚と書いていきます。)

凝胤和尚の凄い、凄まじいところは、その薬師寺に幾つもの国宝級の仏様がいて、幾万の多くの方が有難く縋っていようが、「仏像は偶像崇拝でしかない!」と、平安時代以降の日本仏教全否定をして、「人間が仏になりうる可能性を持っていること(仏性)と仏になること(涅槃、正覚)は天と地の違いがある。もし、仏にならんと欲し願うなら、徹底的に自分を責め付け苦しむことである。それを避けて、即身成仏とか煩悩即菩提とか、念仏申せば救われるなどといった甘えの無差別平等間にもたれかかって、どうして貧瞋癡の三惑、三毒に穢れた、どうしようもない人間どもが救われようか。そうしたええかげんな教えを説いた最澄、空海、法然、親鸞、道元、日蓮を捨てよ!」と公然と言ってしまうところです。これには、さまざまな仏教界から批難轟々でありましたが、当の本人は、当然のこととして実に飄々としていました。きっと、あとを受けた高田好胤(こういん)和尚は、大変だったでしょうね^^。

私は、凝胤和尚に大賛成なんですよ^^!!
凝胤和尚や好胤和尚を含む名僧和尚の話は、後日、その教えなどもゆっくりと描いていきたいと思っています。

だいぶ横道にそれましたが、日本の5大おとぎ話があります^^。皆さん、言えますか^^?
「桃太郎」「サルカニ合戦」「舌切雀」「花咲じじい」「かちかち山」です^^。
このおとぎ話しに共通するのは、凝胤和尚は、煩悩の中の「欲」について、最終的には「欲ばりはひどい目にあうぞ」と、「貪欲への戒め」を説いています。
さらに、「人間というもの天運に支配されているのではない。過去の自分の業によって現在が支配されている。自分の未来は、自分の業によって作られる。」とも。
これには頷いて考え込んでしまいました。

またひと息ついて、24節気72候に大きく戻っちゃいますが、24節気は中国から伝わったものですが、今では、日本の方が定着しているのかもしれませんね^^。24節気は、立春、啓蟄、春分、夏至などをいいます。24節季とは、365日を24等分した約15日ごとに特別な名前を付けたものです。農作業を意識してできた暦と言われています。
72候は、この24節気を、また「初候」、「次候」、「末候」と分けたもので、24×3=72で72候と呼ばれるようになりました。

24節気、覚えやすいように、中国ではこのような歌があるんですよ^^。
「春雨啓春清穀天 夏満芒夏暑相連
  秋処露秋寒霜降 冬雪雪冬小大寒」と
あ~~書いたのはいいけど、読めなぁい~~^^!!

それに、「気候」という言葉は、24節気の「気」と72候の「候」から出来た言葉なんです。

72候は、例えば^^、啓蟄の次候は、「桃始笑」と書いて、「桃の花が咲き始める」を意味します。処暑の初候は、「天地始粛」と書いて、「ようやく暑さが鎮まる」を意味します。このような漢字で、72の候を表しているんですよ^^。素敵ですよね^^。この72候は、中国の呼び名と違うところもあり、日本呼びは、中国からの輸入を国内で江戸時代に改良したものです。

さぁてさてさて、煩悩に戻ります^^。
この108をもう少し、踏み込みますね。
通常は、「三毒」を基にしたものが、仏教界では専らとなっています。
仏教の世界には、「三毒」という言葉が存在します。貪欲(どんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴(ぐち)です。
「貪欲」とは、貪りや贅などの欲の悩界を意味します。
「瞋恚」とは、怒りや不快や恨みの悩界を意味します。
そして「愚痴」、これは、愚痴をこぼすなどで今は使われていますが、本意は、知に暗いことから起る悩界のことです。

この三毒を基として、感覚器官に外界を掛け合わせたものが、108となります。
3つ×6つ×6つ で、108でしょ^^。

三毒        
貪欲と瞋恚と愚痴 

×感覚器官   
目: 自から他への比較/ 耳: 他から自への影響/ 鼻: 生死に関すること
舌: 食や言葉に関すること/身: 身体や性に関すること/意: 心や愛などの感情

×外界対象
香(未・誉など / 色(虚・性など / 声(現・疑など
触(実・侵など / 味(取・奢など / 気(諦・儚など

となります^^。感覚器官を六根、外界対象を六入といいます。

この基が、「三毒」でない場合もあります。
「三沁(空・程・満)」であったり、「三世(過去・現在・未来)」であったり、「三界(欲・色・無色)」や「三命(受命・遭命・随命)」や「三途(血・刀・火)」なんかもあるんですよ^^。「三世」は、三毒の次ぐらいに使われるかもしれません。ルパン三世じゃないですよ~~^^。

そして、「三界」は、仏教用語としてはよく使われる言葉です。
「欲界」は、欲望(色欲・貪欲・財欲など)にとらわれた生物が住む世界(地獄,餓鬼,畜生,修羅,人間,天)で、「色界」は、欲望を離れた清浄な物質の世界。しかし情欲と色欲はあります^^。「無色界」は、欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界になります。

本当に区々(まちまち)で、その時代などによって変わってきているようです^^。

この煩悩ですが、根の深いところは、「十纏 (じってん)」に大きな問題があると言われています。「纏(てん)」、これは「まとわり付く」になります。
この「十纏 (じってん)」は、抹消煩悩とも呼ばれ、とくに罪が重いとされているものです。

1.無漸(むざん) 内面的に恥じないこと
2.無愧(むき) 人に恥じないこと
3.嫉(しつ) ねたみ
4.慳(けん) ものおしみ
5.悪作(あくさ) 後悔
6.睡眠(すいめん) 眠りに陥らせる精神作用
7.掉挙(じょうこ) 精神的な躁状態のこと
8.惛沈(こんじん) 精神的な鬱状態のこと
9.忿(ふん) いきどおり
10.覆(ふく) 罪をおおい隠すこと

奢り、欺瞞、邪見、慢、疑、戒、因果、偏見などの大きな煩悩がすべて含まれています。
そこに九十八随眠(ずいめん)が付いてくると、98+10=108となります。これもまた、108となるわけです^^。

「ずいめぇ~ん???、随眠~~~~^^!!!」
またまた、難しい言葉が出てきました~~^^。

「随眠」、チョ~~簡単に言うと「煩悩の種子」でしょうか^^。
この「随眠」って、大きな煩悩が、地震で震度5以上のものだとすれば、震度1以下で余震を絶え間なく起こしている身体に感じない煩悩なのかもしれません。
余震のほうがやっかいな代物かもしれませんね^^。
「随眠」を根本煩悩ということもあります。

「随眠」をまず、大きく二つに分けちゃうと、「見惑(けんなく)」と「修惑(しゅわく)」に分かれます。

「見惑(けんなく)」は、見道の地位をうると消える煩悩と言えます。それに対して、「修惑(しゅわく)」は、生涯起こり続ける煩悩と言えます。
よく、出家をする人がいます。「見惑」は、出家した時点で消える煩悩なのかもしれません。しかし、「修惑」は、それからの修行によって浄化させていく煩悩なのでしょうね^^。

「見惑(けんなく)」の場合は、「四諦(したい)」が登場します^^。
「四諦(したい)」、仏教では大切な大切な言葉です^^。「Hが、したい^^!」とかじゃないんですよ^^。
「四諦」それこそ来週のテストに出ますよ~~~~~^^、そして、「八正道(はっしょうどう)」も^^。(おいおい^^なんのテストだぁ~~~~~~~~^^)。

苦諦(くたい)  人が生きるということは苦であるという真理
集諦(じったい) その苦の原因は人間の執着にあるという真理
滅諦(めったい) この苦を滅した境地が悟りであるという真理
道諦(どうたい) その悟りに到達する方法は八正道であるという真理
そして、「八正道」です。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つ。非苦非楽の中道(厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく目的にかなった適正な修行方法。)です。

どうして、「四諦」と「八正道」が大切なのかというと、「四諦」と「八正道」こそ、釈迦が人生の苦を説いた言葉、謂わば、仏教の源なのです。

「見惑(けんなく)」は、この真理を知ることと行うことで、消すことができるのかもしれません。

煩悩の最後の詰めに、忘れてはならない人がいます。
橋本凝胤和尚のことを書きましたので、あと一人、故・中村元(はじめ)先生も名前を挙げておきます。
中村元先生は、一人で「佛教語大辞典」を完成させた日本が誇る仏教学者です。「中村元選集」も素晴らしいものですが、この「佛教語大辞典」にはエピソードがあります。
20年も掛かって完成間近なこの執筆原稿を、編集者が紛失してしまいました。怒りもせず、ただ笑っていたそうです。その翌日から、再執筆をしてついに完成させました。1999.10.11日付けの各社の新聞は挙(こぞ)って、中村元先生の前日死去を大々的に報じ、「百年に一人の天才」とまで賞し、その死を悼みました。
仏教用語に、「和顔愛語(わげんあいご)」があります。なごやかな顔とやわらかい言葉遣いのことで、仏教者としてだれにでもできる布施とされている。とはいえ、それが難しいのが人の世なのですが、中村元先生は「和顔愛語」を生涯貫いた方でもありました。

今まで、私が仏教の話の中で記してきた白川静先生、中村元先生、橋本凝胤和尚の三人の書物やお三方を記した書物を一度は触れて戴きたいと思ってなりません。

この中村元先生は、煩悩を三つの漏(ろう)があるから、四つの流(る)となり、四つの取(しゅ)に至ると解説しました。これが、随眠を確固たるものとして編み出しました。もちろん、「佛教語大辞典」の中にも出てきます。ただし、この解釈は、珈琲貴族解釈なのかもしれませんが^^。

三漏とは、「欲漏」、「有漏」、「無明漏」です。
「欲漏」=妄執から生ずる汚れ、「有漏」=生存から生ずる汚れ、「無明漏」=真理を理解しないことによる汚れ、となります。
この「三漏」も108あります。

その汚れが、「四流(しる)」になります。
「欲流」=欲望が内心の善の性質を洗い流してしまうこと、「有流」=煩らわしい物の考えが内心の善の性質を洗い流してしまうこと、「見流」=思想的・観念的迷いが内心の善の性質を洗い流してしまうこと、「無明流」無知が内心の善の性質を洗い流してしまうこと、その結果が、「四取」となっていきます。この「四流」も108に分かれます。

そして、煩悩の本山に到達します。「四取」です!
「欲取」=欲望に執着すること、「見取」=悪い見解に執着すること、「戒取」=誤った戒律を修行すること、「我語取」=我見に執着すること、もちろん、この「四取」も細分化され108となります^^。

「取」は執着、この四つの執着こそが煩悩の源であると。

そして、その先には、地獄が待っています^^。「^^」マークじゃないですよね^^。

八大地獄です。
現世の「借金地獄」「通勤地獄」「片思い地獄」と同じくらい怖いですよ~~~~^^。

「等活地獄」は、殺生を犯した者が落ち、五体を粉砕され、その後涼風が吹いて元の身体にもどるが、また五体を粉砕され、それを繰り返す地獄です。
「黒縄地獄」は、殺生、盗みを犯した者が落ち、灼熱した鉄の縄で縛られ、熱斧で切り裂かれる地獄です。
「衆合地獄」は、殺生、盗み、邪淫を犯した者が落ち、両脇の山からあらゆるものが崩れ圧殺する地獄です。
「叫喚地獄」は、殺生、盗み、邪淫、飲酒を犯した者が落ち、時間をかけて釜茹で地獄です。
「大叫喚地獄」は、 叫喚の業に嘘が加わり、釜茹での10倍の苦と舌を抜かれる地獄です。
「焦熱地獄」は、大叫喚の業に邪見が加わり、釜茹での100倍の熱さで焼かれる地獄です。
「大焦熱地獄」は、 焦熱の業に聖なる人を犯すことが加わり、焦熱の10倍の苦しみ地獄です。
そして究極の「無間地獄」は、救いがたい者ですべての苦しみが間断なく続く、地獄のなかの地獄と言われています。

へんな執着に、間違った方向の執着に固守しないように、そして、地獄に落ちないように、珈琲貴族のようにならないようにしましょうねぇ~~~~^^。執着の終着駅が地獄なんて洒落にもなりませんよ~~~~~~~~~~^^。


さて、最後に~~~~お待ちかねの^^?~~~~~珈琲貴族が発見した「六倫道」の発表ですぅ^^。
もちろん、私個人の考えにしかすぎません。それに、皆さまに強制などする気もありませんから、ご安心を~~~~~~~~~。それに、売り物じゃありませんし^^。
珈琲貴族が珈琲貴族なりに、いろいろな書物を読み漁り、いろいろな説法を聞き、そして、それを頭の中で整理していったときに、「煩悩が、決して浄化できるものではないとしたら、生きていくうえで必要なものは何か!」を考え始めました^^。それは、無位からの出発でした。

仏教では、「無畏」= なにに対しても、畏れ(おそれ)がない姿。
「無為」=因縁によって造作されない生滅変化を離れた永遠の存在 とどれもが人として生きていく上に必要な心を現しています。
そして、珈琲貴族は、その「むい」に「無位」も付けちゃいましたぁ^^。

生まれる前は一切の位がないということです。「無位」です。そこから、哀しいことに産まれてからの周りの環境で瞬時にして汚れなき「無位」が「有位(うい)」となってしまいます。名前(名字)がすでに決まっているとか、裕福な家の許で産まれたとか、親がいないとかさまざまな環境が現実としてあります。環境は、人間が作った欲にほかなりません。ただ、生まれたばかりの個人は、それを享受していかなければなりません。同じ日の同じ時間に産まれ、なおかつ同じ名前など偶然の一致がいくつ重なっても同じ人生を歩むことがないのはこのためだと思いました。産まれてすぐの赤ん坊が何故泣くのかを考えてください。医学的見解とは異なりますが、「これから生きていくことの苦しさ」「有位の重さが耐え切れない」などこれから待ち受けている数えきれない困難が不安で泣いているのです。いくら裕福な家庭で産まれたとしても事故、事件、災害などは人を選んではくれません。突然起こってしまいます。これを運命だと諦めるのではなく、必然としてすこしでも災いが降りかからないようにしていくことです。前向きに善の人生を目指すことによって、よりよい生きる喜びが生まれると^^。

そこで、珈琲貴族は、六倫道(六凛道)を編み出しました^^。ちょうど一年前くらいでしょうか。
これを実行するようになって、本当に自分の今までの愚かさを再確認でき、明日が見えてきたのかなって^^。でも、まだまだ修行中です!
もちろん、私の一人合点でしょうけど^^。

「六倫道」は、自分の生まれた月日と今日の日の月日を足して六で割るのです。
これはいい加減ではなく、六陽と陰陽数から導いたものです^^。
余りの数が、今日の為すべき位置とします。

方日、径日、軌日、詮日、術日、行日で六日間を歩いていきます。

六倫道--------倫道の位置---------意味----------余りの数

方日(ほうび)―方向確認―これから進むべき道を考える日―――0
径日(けいび)―過去確認―いままで歩いて来た道を考える日――1
軌日(きび) ―現在確認―今の自分の位置立場などを確認する日―2
詮日(せんび)―効果確認―その道の先に見えるものを考える日―3
術日(じゅつび)―手段確認―その道にたどり着く方法を考える日―4
行日(ぎょうび)―未来確認―進むべき道に歩き出す日    ――5

例えば、生まれたのが1月1日で今日が6月10日だとします。もちろん絶対値計算です。
(1+1+6+10)÷6=3余り0 となります。そうすると、「方日」となります。

倫(みち)、凛(しせい)、どちらでも私には大切な文字です。
仏教には、沿っていますが、でも、くれぐれも珈琲貴族宗教ではないですよ~^^。

ご清聴感謝です^^。

さぁて、次回は「仏教 その七(付録^^)」、これさえあれば、「仏教はわかる」のハンドブックを考えています。印刷してファイルしてね^^。そのあとは、文学「新古今と西行法師」、そして、ちょっと中国に飛んで、あの司馬遷の「史記」と、「三国志の正史と演義の違い」などを描いていってみたいと思っています^^。そしてまた仏教と日本の古典文学を^^。

でも、描き手が気まぐれですから~~~~~^^。

それではまた^^