ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

・・・と言えば、生涯で70回以上引越しを繰り返したベートーヴェンが有名ですょネ。

 

しかしそれを上回る93回、時には1日に3回(!)も引越したという、1999年にアメリカの雑誌 『LIFE』 が〝この1,000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人〟の中で唯一選んだ(86位)日本人がいたのですが・・・誰だと思いますか?

 

それは、この人物です。(

          

             

この渓斎英泉が描いた肖像画だけでは分からずとも、その名はおそらく誰でもご存知でありましょう、

 

 葛飾 北斎

 

今日は、この江戸時代後期に活躍した天才浮世絵師の命日・没後175周年にあたります。

 

1760(宝暦10)年に、武蔵国葛飾郡(現在の東京都葛飾区)に百姓の子として生まれた北斎は、小さい時から手先が器用だったようで、14歳で早くも版木彫りの仕事に就きます。

 

そして18歳の時に浮世絵師・勝川春章に弟子入りしますが、内緒で狩野派や洋画など他派を学んだことで師匠の逆鱗に触れ、破門に。

 

それからは生活を支えるべく本の挿絵・役者絵・美人画・相撲画、果ては団扇の絵まで描きまくり、時には内職として唐辛子などの行商までしたとか。

 

そして有名な 『富嶽三十六景』 は、彼が70歳過ぎての作品。

中でも私が最も感銘を受けるのは、〝神奈川沖浪裏〟

 

     

 

北斎本人がそれを知らずとも、縦横がしっかり黄金比率になっている名作です。

 

構図といい波しぶきの躍動感といい、写真もビデオもない時代にどうしてこれ程の表現ができたのか?・・・ただただ驚嘆するばかり。

 

これを見て触発されたドビュッシーが、交響詩 『海』 を作曲したのも頷けます。

 

この作品より30年前に描いた〝賀奈川沖本杢之図〟の波は、こうでした。


   

 

数段の進歩がみられるのが、誰の目にも明らかですょネ。

 

同居していた娘の葛飾応為 (※この名前、子供の頃 「お~い、お~い」 と呼んだことからつけた名だとか) ともども創作活動に集中するあまり片づけに手が回らず、部屋が荒れるたびに引越を繰り返したという、〝片づけられない症候群〟のハシリともいえる親子。

 

しかし生涯に3万点以上もの作品を残したといわれる北斎の創作意欲とエネルギーは、凄じいばかり。

 

70年にわたって絵筆を取り続け、嘉永2(1849)年4月18日に90歳で世を去った北斎の最期の言葉は、

 

 「天 我をして 十年の命を長らしめば・・・

    五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし」

 

だったとか。

 

今宵は画集のページを久しぶりにめくりつつ、世界中の芸術家に影響を及ぼした、我が国が誇る怪物絵師・葛飾北斎の冥福をお祈り致します。笑3

 

   

     『もっと知りたい葛飾北斎』 (東京美術・刊)    
 

 

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今日・4月17日は、おそらく我が国の歴史上最も過酷な状況下・・・即ち大東亜戦争敗戦時に総理大臣を務めた軍人・政治家、

 

 鈴木 貫太郎 海軍大将

 

の命日にあたります。

     

 

鈴木氏は、ちょうど明治に時代が変わった1868年に、現在の大阪府堺市で生まれました。

 

父親は代官を務め、体格が良く武芸に秀でた人格者だったそうですが、彼もその血を色濃く受け継いだようです。

その父が群馬県庁に招かれたため同地に引っ越した彼は群馬中学にで学び、その後上京して近藤真琴が主宰する近藤塾に入塾。

海国主義者だった近藤先生の薫陶を強く受けた彼は、息子を医者にしたかった父を粘り強く説得して、1884年に海軍兵学校入学。

日清戦争に従軍後1898年に卒業しましたが、当時の海軍は薩長閥が強く旧幕府系の彼は冷遇されていました。 

 

それに嫌気がさして、1901年からのドイツ駐在中に一旦は辞めようと思ったようですが、父親から 「お国のために御奉公せよ」 という手紙を受け取った彼は海軍に残る決心を固めます。

そんな中、ドイツから帰国直後に日露戦争が勃発。

駆逐隊司令となった彼は、その訓練の激しさ故に部下から〝鬼貫〟などと怖れられましたが、その甲斐あってロシア海軍の旗艦スワロフに魚雷を命中させるなど日本海海戦勝利に大きく貢献。

 

その後1923年に海軍大将、翌年には連合艦隊司令長官に就任。

 

そして1929年、昭和天皇からその人格・見識を高く評価された鈴木大将は、請われて侍従長となりました。

 

それ故に1936年に勃発した二・二六事件では青年将校らに自宅で襲撃され、3発の銃弾を受け昏倒。 

 

しかし、たか夫人がとどめを刺そうとした将校を制止し、その場を運よく逃れた鈴木氏は病院に搬送。

 

一度は心停止したものの、たか夫人の 「あなた、起きなさいっ!」 という一言で息を吹き返したとか。

 

やはり亭主の命運は、奥方が握っているんですねェ。😅

 

     

 

そして1944年に枢密院議長に就任した鈴木氏は、翌年7月に天皇陛下から組閣の大命を仰せつかります。

 

「自分は軍人であり政治手腕はありません。」
 

そう固辞する鈴木大将に、昭和天皇は

 

「鈴木の心境はよく分かる。 

 しかしこの重大な時にあたって、もう他に人はいない。 

 頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい。」

 

と懇願され総理大臣就任を受諾した彼は、原爆投下・ボツダム宣言受諾・終戦という激動期の日本の舵取りを任されたのです。

 

そして玉音放送が流された8月15日に内閣総辞職。

 

しかし翌日には終戦に怒った国粋主義者らに私邸を襲われ、自宅は全焼したものの間一髪暗殺は免れました。

※終戦時の鈴木総理と、彼とは旧知の仲であった阿南陸相(↓)コンビだったからこそ、混乱なく終戦を迎えられた・・・と、私は思っています。
 

1946年に公職追放となった鈴木元総理は、まるで燃え尽きたかのようにその2年後の今日・1948年4月17日・・・82歳でこの世を去りました。

 

3歳の時には馬に蹴られかけたり、7歳頃には魚釣りの最中に川で溺れかかったり、海軍時代には錨と共に沈みかけたり砲台から海に転落したり、更に戦時中は夜の海に投げ出されたり・・・そして2度も暗殺されかかりながらその都度生き長らえた鈴木氏は、もしかしたら生まれながらにして神仏に選ばれし人物だったのかもしれません。

 

阿南陸相は玉音放送録音後に壮絶なる割腹死を遂げられましたが、一方の鈴木総理は自死しませんでした。

その理由をご本人が自伝の中で明確に語っておられますので、お知りになりたい方は、是非お読みください。

 

     
      『鈴木貫太郎自伝』 (日本図書センター・刊)

 

私自身、鈴木氏を尊敬していますが、その器の大きさを物語るエピソードをひとつご紹介しましょう。

 

戦局が悪化の一途を辿る中、敵国アメリカのルーズベルト大統領逝去の報に接した際、

 

「今日アメリカが我が国に対し優勢な戦いを展開しているのは、亡き大統領の優れた指導があったからです。 私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。

 

しかしルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。 我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います。」

 

という声明をアメリカに発信。 

 

同じくアメリカと戦っていたドイツのヒトラーが口汚くルーズベルトを罵ったことと、実に対照的・・・まさに武士道精神そのものです。

 

〝強運も実力の内〟・・・歴史上唯一、天皇陛下に懇願されて総理大臣になった傑人のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3
 

 

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先日、マイカーで首都高速を走っていた時のこと。

2車線の左側を運転中、前を走っていた軽自動車に追いついたところ、その左後輪のタイヤが不自然に撓(たわ)んでいたのです。

   

(↑)はその当該車両ではありませんが、その撓みがタイヤの空気圧が下がったからなのか、それともホイールのネジが緩んだからのかはパッと見では分からなかったものの、とにかく今まで見たことがないタイヤのグラグラ状態に、私はビックリ。😨

 

あれだけタイヤが撓めば異音や振動がドライバーに伝わると思うのですが、前の車は何事もないかの如く制限時速ピッタリの60㎞で走行を継続。

私は最悪の脱輪事故に巻き込まれないよう、またドライバーに異常を伝えるべく右側に車線変更して軽自動車の真横に並び、助手席の窓を下すと同時に軽くクラクションをプップッと鳴らしました。

それに気づいた軽自動車のドライバー(中年男性)がこちらを見たので、私は左手を上下してウィンドウを下げるよう促したのですが・・・彼は私に煽られている(絡まれる)と誤解したのか、徐々にスピードダウンして後方に下がってしまったのです。

予想外の動きに私は戸惑ったのですが、彼と同じようにスピードダウンしてしまうと道路を塞ぐ形になり、また後方で追突事故を誘発する恐れもあったので、仕方なくそのまま時速60㎞で走行を継続。

バックミラーでどんどん離れていく軽自動車を眺めつつ、ため息をつきながら私は自宅へと車を進めました。

軽自動車がその後どうなったのかは知る由もありませんが、ドライバーに車の異常をうまく伝える方法が他になかっただろうか、と考えること暫し。

車線変更せず後方からパッシングすればよかったのか?

でもそれだとますます煽り運転と勘違いされて逆にスピードアップしてトラブルの危険が増したかも。

あるいは軽自動車の前に出てハザードをつけ、徐々にスピードダウン・停車させて異常を知らせる?

でもさすがに路肩のない首都高速で強制停止させるのは追突など他のトラブルを引き起こすリスクがあるし・・・。

さて、もし皆さんが私と同じ状況になったら、どうします?

何か名案があったら、ぜひ教えていただきたく。

すぐに追い越して知らんぷり・・・ってのは、なしで。😫


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4月15日というと、タイタニック号の沈没が有名ですが・・・その2年前、今から114年前の今日、ある意味タイタニック号よりも世界中に衝撃を与えた沈没事故が起きていました。


それは日本海軍の潜水艇だったのですが、悲劇でありながらも世界中の人々から称賛を浴びたのは、艇長以下乗組員たちの散り際の見事さでした。

 

その艇長の名は、

 

 佐久間 勉 大尉

 

     

 

佐久間大尉は1879(明治12)年に福井県で生まれました。

 

1901年に海軍兵学校を卒業すると2年後海軍少尉に任官し、日露戦争に従軍。

 

第一・第四潜水艇長、駆逐艦 『春風』 の初代艦長などを経て、1908年に第六潜水艇長に着任しました。

 

日本海軍はそれまでアメリカ製の潜水艦を輸入していましたが、メーカーから新型潜水艇の図面を入手し、日本人だけの手で作られ1906年4月に竣工した初の国産ホーランド型潜水艇2隻のうち1隻が、第六潜水艇でした。
    

   

             第六潜水艇


当時の潜水艇は、兵器としては未だ実験の段階にあって信頼性に問題があったため、母艦艦長と潜水艇隊司令指揮のもと、艇隊単位で行動するのが普通。


しかし当該第六潜水艇は初の国産潜水艇ということで性能に多くの問題点があったため、第一潜水停滞から離れ単独で潜水訓練を行いつつ問題点の解明と改良を続けていました。


そして運命の1910(明治43)年4月15日・・・同艇は山口県新湊沖で潜航訓練中に浮上することが出来ず、沈没。


30歳の佐久間艇長以下20歳代の乗組員総員14名が殉職したのです。


当時は潜水艦の黎明期で世界的に沈没事故が多発しており、この直前イタリアで起きた同様の事故の際には乗組員たちが脱出用ハッチに折り重なったり、我先に脱出しようと乗組員同士で乱闘したまま死亡していることが確認されるなど、艦内はさながら阿鼻叫喚の地獄絵図。

 

とは言えそれは、生存本能が働けば致し方ないとも言えます。

 

しかし第六潜水艇を引き上げてハッチを開けてみると、佐々木艇長以下殆どの乗組員は持ち場を離れず、最期まで任務を完遂しようとしていたことが判明。

 

それだけでも称賛に値しますが、更に世界を驚かせたのは佐久間艇長の胸ポケットからズブ濡れで発見された2冊の手帳に記された遺書の中身でした。


    

 

『佐久間艇長遺言 小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申シ訳無シ、サレド艇員一同、死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ、沈着ニ事ヲ処セリ・・・ 』

 

という文章で始まる手記(遺書)は、あの日航ジャンボ機事故で亡くなった会社員が揺れる機内で書き残した遺書(↓)の如く、乱れた文字で埋め尽くされています。
 

しかし艇内の酸素が無くなりガスが充満しつつあった極限状態の中、艇長は潜水艇の開発に少しでも役立てようと39ページに及び詳細に艇内の様子や事故原因・応急処置の状況を書き残しており、さらに

 

『謹ンデ陛下ニ申ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之アルノミ』

 

と、天皇陛下に部下の遺族に対する経済的支援を依願しているのです。


何という部下思いの将校でありましょうか。

沈みゆく船から乗客をほったらかしにして我先にと逃げ出した隣国の船長とは、大違いです。


この遺書に感激した諸外国からは弔電が相次ぎ届き、アメリカ合衆国議会議事堂には遺書のコピーが陳列されました。

またT・ルーズベルト大統領は国立図書館前にこの遺言を刻んだ銅板を設置し、真珠湾攻撃が行われた後ですら、撤去しなかったといいます。

 

日本国内でも、修身の教科書に 『沈勇』 と題して取り上げられていたのですが・・・しかし現在の日本国民で、佐々木艇長を知る人はどれ程いるでしょうか?

 

以前行われた岩国での追悼式で、駐日英国大使館付海軍武官がスピーチで発した、

 

「我が英国軍人に尊敬されている佐久間艇長の精神を、戦後の日本人は忘れている」

 

という言葉を、私たち日本人・・・特に政治家や文科省の官僚は噛みしめるべきでしょう。

 

あらためて武人・佐久間勉大尉と乗員のご冥福をお祈りすると共に、多くの日本人に彼の生き様と最期を知っていただきたいと存じます。

 

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自然災害時の被災者や、山や海での遭難者の救助時に活躍したり、最近では逃走する交通違反者や犯人を追跡する際に威力を発揮しているのが

 ヘリコプター

4月15日は、この航空機の記念日だそうな。

根拠は、今日がこの乗り物を初めて科学的に研究したレオナルド・ダ・ヴィンチ(↓)の誕生日だから。

 

 

彼の残したこのスケッチは、有名ですネ。(↓)

   

※『ANA』が全日空時代にこのデッサンを基にしたトレードマークを使用していましたが、それは同社の前身が『日本ヘリコプター輸送』だったから。

更に18~19世紀にも模型や蒸気機関を搭載した実験機が制作され、かのトーマス・エジソンも開発に乗り出しましたが、爆発事故を起こして撤退したとか。

また飛行機に現在のローターを取り付けたオートジャィロも開発されましたが、実際に地上から浮上できるようになったのは、20世紀に入ってから。

1907年にフランス人3人が相次いで少しながらホバリングに成功し、また1917年にはオーストリア=ハンバリー帝国でも4つのローターを取り付けたヘリコプターも成功。

 

そして初めてホパリングだけでなく前進飛行もできる世界初の実用ヘリコプターとして1936年6月飛行に成功したのが、

 

 フォッケウルフ Fw 61

    Focke-Wulf Fw 61

 

開発したのは、ドイツのエンジニア、ハインリヒ・フォッケとゲオルク・ウルフの2人。

 

   

 

2基のローターが、何やらオスプレイに似た形・・・というか、オスプレイがこのスタイルをヒントにしたのかも。

この飛行機にも似たヘリコプターは航続距離230km、時速120kmを記録したといいますから、立派なもの。

 

※機首にもプロペラか装着されていますが、これは空冷星型エンジン冷却用に取り付けたもので、前進推力には利用されていません。

その後エンジンの改良などで性能は向上、冒頭のように人命救助などに力を発揮しているヘリコプターですが、残念ながらその開発には武器としての目的があったことは否めません。

最高時速300km近くで、輸送力もあり、しかも滑走路要らずとなれば、それも致し方ないでしょうが・・・。

映画でも戦闘シーンによく登場しますが、個人的に最も印象に残っているのは、『地獄の黙示録』(1979年)でワーグナーの〝ワルキューレの騎行〟をBGMにして登場したヘリ軍団。(↓)

 

 

迫力十分のシーンでしたが、現在軍用で投入されている攻撃ヘリは、格段にゴツくなっています。

例えば最新鋭の〝アパッチ・ガーディアン(AH-64E)〟は、最高速度時速300km超、積載加重約5トン、航続飛行時間3時間超。

これでチェーンガンやロケット弾も装備し無人機の遠隔操作も可能、しかも滑走路要らずなのですから、兵器として優秀なのは素人でも分かります。

      

同機の性能をもっと知りたい方には、こちらの動画をご覧いただきたく・・・。

 

 

ただ、問題なのはその価格。

この最新鋭機の前のタイプ・AH-64Dは自衛隊にも配備されているのですが、1機50億円以上という超高値。😲

今後も尖閣防衛等を睨み配備は続くのでしょうが・・・国防には本当にカネがかかりますネ。

 

 

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・・・と言っても、某スポーツ飲料の話ではありません。😅


今から75年前の今日・1949(昭和24)年4月14日にプロ野球の試合で起きた


 三原ポカリ事件

 

のお話です。

主人公は今年2月に拙ブログで記事にした、三原脩監督。(↓)

 

戦後直後の1947年に8球団中5位と低迷した巨人軍は、その前年に復員した三原脩さんを説得しシーズン途中の6月から助監督として招聘、9月には総監督に。

翌年2位となった巨人は、更に優勝を狙うべく翌シーズン前に南海のエース・別所毅彦投手を強引に入団させる、いわゆる〝別所引き抜き事件〟を引き起こします。

(巨人は、昔から強引なことをやってるんですネ。)😫

 

エースを奪われる形となった南海は巨人に対して強烈な敵愾心に燃え、1949年4月12日から始まった両チームの3連戦は最初から異様な雰囲気で始まったとか。

 

第1戦は、巨人・川上哲治選手が9回裏に逆転満塁サヨナラホームランを放ち6-5で巨人の劇的な勝利。

第2戦は南海が一矢報い1勝1敗で迎えた第3戦で、事件は起こりました。

巨人1点リードで迎えた9回表・南海の攻撃。

無死1塁で岡村選手の放った打球はファーストゴロ。 


川上選手が捕って2塁に送球、ダブルプレーで試合終了・・・かと思いきや、1塁ランナーの筒井敬三選手がショートの白石選手に抱きつく形で絡んだためゲッツーならず。

このプレーで白石・筒井両選手が口論となり、両軍ベンチから選手が飛び出す騒ぎに発展。

守備妨害をアピールするも受け入れられず、ベンチに帰ろうとした三原監督の目に、まだいがみ合っている白石・筒井選手が目に入りました。

 

すると憤懣やるかたない三原監督は、筒井選手の顔を殴打! 

                      ポカリの瞬間 (三原家・蔵)


対戦チームの選手を殴るという前代未聞の暴挙(?)をしでかした三原監督は、連盟から無期限出場停止という重い処分を受けることに。

しかしファンらによる必死の嘆願運動が実り、結局謹慎は100日で解除。 

 

7月23日に現場に復帰すると、この年見事に巨人を優勝に導きました。

※ただし現場復帰の10日後、シベリアからライバル・水原茂選手が帰還・・・後楽園球場で帰国の挨拶をした水原選手に三原監督が花束を贈呈したのですが、その後水原選手を起用しなかったことからチーム内で三原排斥運動が起きた事は、過去記事でご紹介した通り。


後年〝三原マジック〟と言われた如く、今では当たり前となっている偵察メンバーやワンポイントリリーフなどの斬新かつ変幻自在な采配でチームに勝利をもたらした知将でありましたが、同時に人間味溢れる愛すべきキャラクターの持ち主であったことが、大々的な嘆願運動に結び付いたのでは・・・と私は思います。
 

ベンチの中で何があろうとも顔色一つ変えない冷静沈着な監督もいますが、私は三原さんのような熱血漢に惹かれます。

皆さんは、いかがですか?



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今日は、幕末の志士にして明治維新以降は政治家・官吏として活躍、立法・行政・司法の三権分立を推進し〝近代日本司法制度の父〟と称される

 

  江藤 新平

の命日・没後150周年にあたります。

 

     

 

新平は1834(天保5)年、佐賀藩士・江藤胤光の長男として佐賀城下八戸村で生まれました。

12歳の時に藩校弘道館に入学した彼は人並みはずれた頭脳を持っていたものの、実家が貧しかったために学費が払えず、進学もままならなかったとか。

1850年に枝吉神陽が結成した義祭同盟に参加して尊王思想などを学ぶと、1853年のペリー来航などに刺激され、同年・23歳の時に意見書『図海策』を書き、開国論を唱えるように。

そして29歳の時に藩の方針に業を煮やし脱藩、京都に入り尊攘勢力に接近するも失望して帰藩。

本来なら脱藩行為は死罪でしたが、彼の見識・才能を高く評価した鍋島直正の裁断により永蟄居(無期謹慎)に減刑され、一命を取り留めます。

そんな彼の運命を好転させたのは、大政奉還でした。

それによって幕府が消滅すると謹慎を解かれ、郡目付として復帰。

そして新政府が誕生すると京都に派遣され、江戸城が無血開城されると城内の文書類を接収し当時の法令を読み解くと、1872年明治新政府において初代司法卿に就任。

フランス民法を高く評価していた彼は四民平等を説き、〝民権〟という概念がなかった当時に、民の権利を守り誰でも公平な裁判ができるよう法体系を整備。

それまで〝お上〟と言われていた役人すらも訴えられる画期的なものであり、その他学制制度や警察制度整備、娼妓解放令などを進めました。

しかしその改革が急進的だったこと、また頭脳明晰であったものの彼の性格がよく言えば高潔・生真面目、悪く言えば頑固だったため、相手を理屈で追い込むことで多くの政敵を作ることに。

山城屋事件で山縣有朋を、そして尾去沢銅山事件では井上馨を追及して辞職に追い込んだことで恨みを買い、また行政権=司法権であるプロイセン(ドイツ)法を主張する保守派の大久保利通(↓)らと対立。

 

 

そして彼の人生を暗転させたのは、〝明治六年政変〟でした。(↓)

 

 

征韓論争に敗れた彼は、西郷隆盛同様に下野。

そして1874(明治7)年1月に内務卿・大久保利通が佐賀県権令・岩村通俊を更迭し佐賀県下の士族反乱対策を準備したことに反発し、故郷・佐賀に戻った彼は請われて佐賀征韓党及び憂国党の首領になると、2月16日に憂国党が武装蜂起し佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発。
 

※この一連の経緯は、大久保が江藤を追い落とすための策略だったとも言われています。

 

しかし政府軍の圧倒的な火力の前に、佐賀軍は敗走。
 
江藤は征韓党を解散して逃亡したものの、高知県安芸郡で捕らえられます。

それは彼の手配写真が出回っていたためでしたが、この写真手配制度は江藤自身がその2年前に確立したもので、皮肉にも制定した江藤本人が被適用者第1号となりました。😣

そして三権分立・司法制度を確立した彼は、その十分な裁判制度で保障された被疑者の弁明も認められることなく死罪が確定。

事前に大久保の指示によって士族の身分を剥奪された彼は4月13日斬首刑に処せられ、その首は千人塚で晒されました。

大久保の恨みは、それ程までに深かったのでしょう。

賊軍とされた彼は西郷隆盛同様靖国神社には祀られていませんが、1889年の大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布によって賊名を解かれたのが、せめてもの慰めになったでしょうか。

あらためて〝維新の十傑〟のひとりに数えられた彼の冥福を祈りたいと思います。


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今日は、昨日の記事〝ガッツポーズ〟の元祖・ガッツ石松さんに敬意を表し、これまた以前拙ブログでご紹介した『1日1話 読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書』(↓)から彼のエッセーを一部編集にてご紹介致します。

 


      ◆    ◆    ◆    ◆

俺だって本当は高校に行きたかったけど、そんな余裕がある家庭じゃなかったからね。

じゃあ、何も持たない自分が這い上がるにはどうすればいいか。

体一つで戦えるボクシングしかないと思った。

とりあえず近所の人の紹介で東京の会社に就職しました。

入社してすぐ、会社のみんなで元フライ&バンタム級世界チャンピオン・ファイティング原田さんの試合中継を見ていた。

その時、俺は社長さんに 「俺もボクサーになりたいから、ボクシングジムに通わせてください」 と申し出た。

すると社長さんは、「おまえみたいな人間が、あんな偉い人間になれるわけがない」 と言ったね。

 

     

まだ15歳だよ、ショックだったな。

ああ、東京も田舎も一緒だ。 俺みたいなやつにチャンスはないんだ、と思ってすぐに会社を辞めて田舎に帰った。

村の人たちに見つかると 「あそこの息子、もう仕事を辞めて帰ってきた」 と噂されるから、真夜中にひっそりと帰って昼間は誰にも見られないようにふるさとを歩いたんだ。

山、川、田んぼ、畑・・・ふるさとの自然に抱かれているうち、「よし、俺はやっぱり東京へ行く」 という思いが湧いてきた。

もう1回上京する日、おふくろはいつも通り朝早く土方仕事へ出て行った。

帰って来た数日間も、忙しくてろくに話も出来なかったから、駅に向かう途中仕事場に立ち寄ってみたんだね。

「もう1回東京に行ってくるぞ」

と言うと、おふくろは泥だらけの手で前掛けのポケットをごそごそやって1枚の千円札をくれたんだ。

俺がいつも悪さばかりしていたから、「サツ(札)はサツでも、警察のサツは使えねえぞ」と言ってね。

そして、ハラハラと涙をこぼしたかと思うと、

 

「偉い人間になんかならなくていい。 立派な人間になれ。」

と言った。 

うちのおふくろさんは学歴はないけど、やっぱり苦労を重ねて生きてきた人だから言葉に力があったよね。

ずっと心に沁みて、それは今でも忘れない。


      ◆    ◆    ◆    ◆

当時の日当は240円だったそうですから、千円はおふくろさんにとっても大金。

ガッツさんはこの千円札を何倍にもして返してやろうと決意し、頑張って頑張ってチャンピオンになって、稼いだお金でご両親のために新しい家を建てたんだそうです。

その千円札は使うことが出来ず、アイロンをかけて綺麗に伸ばし今でも大事に保管しているとのこと。(↓)

     

ガッツさん、おふくろさんの願い通り立派な人間になりましたネ。😊


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スポーツマンなら・・・いやスポーツをしなくても贔屓のチームが勝ったり、あるいは合格発表で自分の番号があった時などには、皆さん1度はしたことがあるのではないでしょうか? 今日は、その  


  ガッツポーズの日

なのだそうです。

今からちょうど50年前の今日・1974(昭和49)年4月11日、現在は俳優として、また〝OK牧場〟などの天然ボケ(?)キャラでお馴染みの
ガッツ石松さんが、当時の日本ポクシング界の聖地・日大講堂において、WBC世界ライト級タイトルマッチでチャンピオンのロドリコ・ゴンザレス(メキシコ)に挑戦。


圧倒的不利の予想を覆し見事8回KOで勝利を収め、初めてチャンピオンベルトを手にしたのですが・・・その際に彼が両手を上げて喜びを全身で表現したのを、スポーツ報知の柏秀樹記者が〝ガッツポーズ〟と名づけ記事にしたことで世に広まった・・・このことから記念日とされた由。   
 
      ガッツ石松

 お時間のある方は、この試合の模様を動画でご覧ください。 2分過ぎにそのシーンをご覧いただけます。

 


しかし実はこの言葉・・・それ以前に存在していたそうな。


ボウリングが流行していた1972年 週刊 『ガッツボウル』 (同年12月14日号)に〝自分だけのガッツポーズつくろう〟 という特集があり、 「ガッツポーズって知ってるかい? ストライクを出したとき スペアを取ったとき 難しいスプリットをカバーしたとき その自信と喜びを表現するスタイルがガッツポーズ・・・。」 という記事が掲載されていたのです。
 

確かにストライクを出した時には、私も自然とガッツボーズが出ていたような気が・・・。

ボクシングじゃなくて、ボウリングが最初だった・・・まぁ、今となってはどうでもいいことですけどネ。
  

※ちなみにこのガッツポーズは完全なる和製英語で、欧米人には通用しません。 

標準的な英語では“victory pose ” “Fist pump ” と言うそうな。

 

さて、このガッツポーズ・・・今では様々なスポーツ・シーンで数多く見かけるようになりました。
 

オリンピックやプロ野球などは言うに及ばず、最近では甲子園の高校球児や、果ては土俵上でコレをやってしまう横綱もいました。


しかし一昔前まで、高校野球では厳禁。 
 

プロ野球でも、あの世界のホームラン王・王貞治選手でさえ現役時代は全くと言っていいほどしませんでした。 

 「派手に喜ぶのは、打たれたピッチャーに失礼だから」 という、いかにも人格者の王選手らしい気配り。

 

唯一、世界記録756本を打った時だけ、恥ずかしそうに両手を上げたのが記憶にある程度ですが、あれとてガッツボーズというより、バンザイみたいでしたけど。
 

     


王選手ではないですが、私も高校球児はもちろんプロ野球選手でも、ダイヤモンド(ベース)一周する時に拳を突き上げるのは慎むべきだと思います。

 

自分が昔ピッチャーだった経験からしても、あれは対戦相手にとって結構屈辱的ですから。
 

アメリカのメジャーリーグでは、ホームラン打っていい気になって派手なジェスチャーをすると、次の打席で〝狙われる〟のが常識。


まして礼を重んじる柔道などの武道や神技たる大相撲でのガッツポーズなんて、見たくもありません。
 

国際競技でも、例えば卓球では試合中に相手の目を見てガッツボーズをした際には、マナー違反として審判からイエローカードが出されるそうですし・・・。

何事も、程々が肝要ですネ。

 

 

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