明治時代に入ると、富国強兵を目指した日本は西洋文化を礼賛・崇拝する反面、廃仏毀釈運動により自国の文化財を破壊しました。
そんな世情の中、逆にその日本文化を高く評価し世界に紹介したアメリカ人が・・・今日は、その日本文化・美術の恩人と言える
アーネスト・フランシスコ・フェノロサ
Ernest Francisco Fenollosa
の命日にあたります。
フェノロサは1853年にマサチューセッツ州セイラムに生まれました。
父親はスペインのマラガ生まれの音楽家で、彼はその芸術家の血を受け継いだのでしょうか・・・ハーバード大学で哲学や政治経済を学び首席で卒業した秀才で、美術とは無縁の青年時代を送りながら徐々に絵画に興味を持ち始め、24歳の時にボストン美術館に新設された絵画学校に入学します。
その彼が来日するキッカケとなったのは、入学翌年に父親が自殺したことでした。
既に13歳の時に母親を病死で失っていただけに大きなショックを受け、また世間の冷たい目に晒された彼の耳に入ってきたのは、母校ハーバード大学に出されていた東京帝国大学の求人情報。
これは当時多方面で海外の人材を求めた日本の〝お雇い外国人〟政策の一環でしたが、新天地を求めた彼はこれに飛びつき1878年に来日。
同年9月から東京帝大で哲学・政治学・経済学を教えたのですが、その教え子の中に坪内逍遥らがいましたが、その中に後々彼の助手となって共に日本文化探求の旅に出た岡倉天心がいました。
岡倉天心(左)とフェノロサ
かねてより美術に関心があったフェノロサは、1882(明治15)年に開催された第1回内国絵画共進会で審査官を務めたことを契機として、日本美術と本格的に関わるように。
同年、日本では評価が低かった狩野芳崖の作品に注目し親交を深めた彼は、芳崖を援助すると同時に狩野派絵画に心酔し、狩野栄悳に師事。
同時に日本画と洋画の特色を比較し、講演を通して日本画の優秀性を説きました。
また1884年には文部省職員になっていた岡倉天心を伴って奈良・京都の古社寺宝物調査を行い、法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像(※後に国宝指定)を開扉したことは広く知られています。
永年アンタッチャブルだった扉を開けることができたのは、彼が仏教とはしがらみのない外国人だったからこその快挙と言えましょうか。
その後1890年に帰国するとボストン美術館の東洋部長に就任。
日本美術を紹介し続けた彼が心臓発作により突然55歳でこの世を去ったのは、1908年9月21日・・・イギリスに渡り大英美術館で調査中のことでした。
生前仏教に帰依し、火葬された遺骨が分骨されて大津の法明院に埋葬されている彼は、日本人以上に日本文化・美術を愛したことは間違いないでしょう。
また文化財を国宝に指定して保護する 『古社寺保存法』(文化財保護法の前身) 制定の道を開き、東京藝術大学の前身である東京美術学校設立にも尽力した彼の功績は、高く評価されて然るべき。
ただ浮世絵など多くの美術品を海外に持ち出したのは、ただ日本の芸術を海外に紹介したかっただけではありませんでした。
その辺の裏事情に関して知りたい方には、この書籍をのご一読をおススメします。
『フェノロサ 「日本美術の恩人」 の影の部分』
(保坂 清・著 河出書房新社・刊)
フェノロサと岡倉天心がそれぞれの思惑を実現しようとお互いを利用したことや、フェノロサが日本の美術品を大量に購入し、それを高値で外国に売却し大きな利益を得ると同時にそれを再就職のネタにしていたことを知ると、手放しで彼を称賛する気にならなくなります。
果たして彼は日本にとって恩人なのか、それとも自分の経歴に箔をつけ利益を得るために日本を利用した狡猾な利己主義者だったのか?
その判断は、皆さんにお任せします。