滑 空 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

人類で初めて空を〝飛んだ〟のは、自ら設計・制作したグライダーで滑空したドイツのリリエンタール。

彼は1891年から墜落事故が原因で亡くなる1896年まで、2,000回も飛行実験を行いました。(↓)

 

彼の名前を知る方は多いと思いますが、では日本で最初に空を飛んだ人は誰? と聞かれると、答えられる方は少ないかも。 

 

その人物の名は

 相原 四郎 海軍大尉

彼が日本で初めてグライダーの滑空に成功したのは、今からちょうど110年前の今日・1909(明治42)年12月9日のことでした。

       

相原大尉は、1879(明治12)年に現在の愛媛県松山市の農家で生まれました。

松山中学在学時に父親を亡くした彼は、1898年に海軍兵学校に入校。 同期には米内光政などがいました。

1903年1月に少尉に任官されると、日露戦争後は水雷学校に入って無線通信を専攻。

1909年9月に大尉に昇進する直前、近所に住んでいたフランス海軍兵学校を首席で卒業した
大使館附武官ル・プリウールと昵懇になったことが、彼を日本で初めて空を飛んだ男にしました。

 

        


というのは、このプリウールが航空に関心がありグライダーを製作していたから。

相原大尉はそのグライダー製作に参画し、同年8月に青山学院の校庭で飛行実験を行うも、失敗。

 

そこで相原大尉は、かねてからの知り合いで8月末に彼と共に臨時軍用気球研究会の委員に任命された、田中舘 愛橘(たなかだて あいきつ)・東京帝国大学理科大学(現・東大理学部)教授を紹介。

 

          

 

3人は、最終目標を発動機付飛行機開発とするグライダー製作に着手し、プリウールが設計した機体の模型を基に田中舘教授が理論的修正を加えた上で風洞実験を繰り返し、相原大尉は海軍の工場で部品を製作。

 

そして同年12月5日、一高の校庭で無人および子供を乗せての飛行に成功するも、相原大尉やブリウールが搭乗した飛行には失敗。

(厳密に言えば、日本人で初めて滑空したのはその子供だった?)

この失敗から昇降舵の位置を前に変えた全長7.4mの布・竹製のグライダーを一高の校庭より広い上野不忍池に持ち込んで、実験開始。

プリウールが2回目に100mを飛んで成功した後、相原大尉が日本人初の飛行に成功!

    


ただ20m上昇したところで曳航綱の1本が切れて墜落・・・幸運にも池に落ちたため無事でしたが、もしかしたらこの事故が後に彼を襲う不幸の予兆だったのかも。

この初飛行に成功後、彼は海外派遣将校に任命されドイツへ。

当地でドイツ語の習得や気象学の研究、飛行船の操縦研究を行いましたが、1911年1月4日に搭乗していた飛行船が墜落。

この時に受けた衝撃が原因で彼は急性腹膜炎を引き起こし、墜落から4日後に31歳の若さで亡くなってしまいました。

1907年に結婚した妻を日本に残したまま・・・。


相原大尉の死は軍の意向により伏せられたようですが、それ故に彼の名があまり後世に語り継がれていないのかもしれません。

リリエンタール同様、墜落が原因で亡くなった〝日本航空界のパイオニア〟相原四郎大尉の名を、是非記憶していただきたく・・・。

 

 

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