今からちょうど70年前の今日、
人民広場事件
が起きました。 名称からして支那の事件だと思われる方もいらっしゃるでしょうが、場所は日本。
では人民広場って、どこ?
実は、皇居前広場だったのです。
敗戦翌年の1946(昭和21)年、戦後初の中央メーデーが皇居前広場で開催され、以後4年間毎年開催されていました。
それ以外にもその4年間で各種集会が40回も行われ、共産党を中心とする左翼勢力の間では、皇居前広場を〝人民広場〟と呼ぶように。
ホント左翼って人民とか市民って言葉が好きですネ。
しかし日本を占領・統治し民主化・非軍事化を進めていた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は彼等左翼勢力、とりわけ共産党の台頭を危惧。
1950(昭和25)年5月3日、同党の非合法化を検討している旨の声明を発表。
当然のことながら、共産党は激しく反発。
翌月4日に参院選を控えていたこともあり、同党は民主民族戦線東京準備会を指導して、同年5月30日に皇居前広場(人民広場)で大規模な人民決起大会を開催しました。
その最中、私服警官の潜入を追及したことをキッカケに警備をしていた占領軍と小競り合いとなり、民主青年団東京都委員長ら8人の労働者・学生が逮捕されたのです。
共産党は翌々日の6月1日に参院選の選挙妨害だとGHQを批判。
しかしアメリカにすれば、この事件は日本人が米兵を攻撃し負傷させたのは占領史上初めてのことであり、しかもその年の5月30日は同国にとって戦没将兵を追悼する〝メモリアル・デー〟(毎年5月の最終月曜日)でしたから、最悪のタイミング。
アメリカ国内でもこの事件は大きく報道されたため、マッカーサーはGHQの威信をかけて厳正な処理を行うよう指示。
事件翌日の31日に逮捕された8名は軍事裁判にかけられ、6月3日に重労働10年などの有罪判決が下されました。
また警視庁は6月2日、GHQからの要求により当分の間東京都内の一切の集会・デモを禁止。
更に同月6日には日本共産党中央委員会委員24名の公職追放と、機関紙『アカハタ』の発行禁止命令を出し、レットバージを本格化させました。
とは言え、現在も公安調査対象団体たる共産党は、公党であり続けています。
この時強権を発動して共産党を非合法化していれば、この2年後に『血のメーデー事件』も起きなかったでしょうし、未だに日本の足を引っ張り続ける同党を潰せていたはず・・・そう残念がる人は、私だけではないでしょう。
※『血のメーデー事件』に関する過去記事は、こちら。(↓)
ちなみにその後皇居前広場では、大規模な政治集会は行われていません。
それだけが、救いです。