2001年のミラノ・スカラ座。ヴェルディのフォルスタッフ、マエストリを外題役にしての勢いと推進力のある映像です。原典主義者ムーティのヴェルディ演奏は因習的な演奏の形式を排し意思のみなぎるもの。晩年のヴェルディの完璧に、そうした因習的なものが入り込む余地はないのですが、ワーグナーの影響を受け、イタリアの方式を模索したヴェルディの結論は歌を相殺せずに管弦楽の役割を拡大することにありました。一聴、オテロより旋律的な要素が後退しているように感じられても、劇的な要素はより緊密になって、より演劇的な世界が展開するのです。トスカニーニの晩年の録音はかわいた音響にあっても、色彩的で管弦楽の一打ちに、音楽が生き生きと展開して現在でも指標となっています。古来、この歌劇に精魂かたむける奏者が多く、シェイクスピアの作品にフォルスタッフという名がなくても「、「ウィンザーの陽気な女房たち」以上に生きた存在として劇中にあります。生涯、最後となり、喜劇をとりあげたこと。シェイクスピアの時代は、劇的な制約から、急激な場面展開を用いず登場人物に多くの台詞を与えました。人生の哀歓を映す印象的な言葉、ヴェルディはボーイトの台本というよき協力を得て、イタリア的な機知を与えました。長台詞も意味をもち、音楽的なところ言葉もリズムをもち、アンサンブルも多用されます。ワーグナーは重厚に流れる時間、ライトモチーフという手法を用い管弦楽に劇の注釈の役割を与えました。ヴェルディ作品での注釈は、短い時間で通り過ぎ、劇の展開を損なうことはありませんが、一つひとつに与えられた音の意味の多さに演奏は至難です。かつてのカラヤンの上演でのタディが「歌っているのではなく演じているのだ」といった批難にさらされたことがあります。たしかに外題役に多くの要素があり、歌手、演出により幾つものフォルスタッフ像が描かれてきました。歌とは関係ない存在感というのも生きたキャラクターゆえに必要な要素です。多くの映像があり、作品も映像向き。太った愛すべき酒と女好きの面白さの多くは視覚的なところにも拠っています。スカラ座の映像のマエストリは機敏で鈍くない若さのあるフォルスタッフ。ムーティの指揮も剛直で、そこには哀歓の哀の部分にはあまり踏み入っていないのですが、進行は音楽的。

 

さんざんにやり込められるフォルスタッフ。そこには、シェイクスピアの原作通り、女房たちの機知が劇を進行を与えています。一方、フォルスタッフに視点を移すと、「名誉で腹が膨れるか」とする俗人でありながらサーの称号をもつ貴族。単なる自堕落な巨漢ではありません。柊真に、フーガをもってきて、そこで「この世はすべて道化」とするときに、単なる大勢でやり込める話から脱却し、哀の部分が深く陰影を与えるところです。演出には新味をとりこみにくい作品ですが、スカラ座の培った集積は大きく、充実した時間が流れるのに体感の時間はごく短い。すぐれた映像の一つです。

 

 


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