ストラヴィンスキーの春の祭典。クルレンツィス指揮のムジカエテルナ、2013年の録音です。併せた曲を収録せずに35分という時間を春の祭典だけで満たしています。録音メディアが長時間の録音を可能にした現代、辻褄合わせのように他の作品を併せてきました。こうした思い切りの良さは不経済でもありますが、それを跳ね返すだけの充実した内容をもっています。作品が本来、持っていた野卑や衝撃の再現。洗練からは遠く、リズムの刻印は大胆で狂暴な響きがします。47年の改訂版を使用。大戦がはじまり、革命政府は土地も没収。ロシアを離れたストラヴィンスキーは旧作の版権をも失い、収入の道を断たれることになります。その後も、カメレオンとあだ名されるように次々と作風を変えていったストラヴィンスキー。旧作にあたる作品に幾つもの改訂の手を加え、自演の録音をも残していったのも、生活を担保するという面がありました。作品への誇りは自身の考えの徹底したものへの矜持に貫かれていました。作品の伝播者、アンセルメとの関係に齟齬が生じたのも「カルタ遊び」でのカットの要求からでした。一片、一音たりとも変えない。楽音はすべからくそうした集積から成り立っているのです。現代の音楽に連なるものとして春の祭典はリズムという音楽の骨格に目を向けた作品です。多様な和音の発達は、調性の破壊をもたらしました。20世紀の音楽家は、これに対して何らかの関わりを持つことになります。リズムは、あらゆる不協和音も載せることが出来る器であり、ときに単純で複層的なものを必要としません。原始主義とされたのは、作品の持っている根源的な力の部分にあります。その中にも色彩があり、肉体を駆使して舞踏という形で舞台上に展開させるという異常。
作品を現代に連なる響きという形で分析的に精査し再現した録音、表面を美麗になぞっただけでは作品の本質は再現されません。たとえば冒頭のファゴットは高域で、本来はあえて困難なかすれるような音が求められています。今日では野卑な作品であるはずの春の祭典をウィーン・フィルまでもが演奏する時代。演奏の技術の向上もあり、怒号も飛び交ったシャンゼリゼ劇場の初演のスキャンダルを演奏から想像することは難くなりました。
クルレンツィスはゲルギエフ、ビシュコフの師、ムーシンに学び、30歳、モスクワで同作品を演奏したことがキャリア発展の景気になったことを語ります。鮮烈な音響に、打楽器の強奏。作品が聴衆の神経を逆なでし、同時にかきたてる何かが原始主義的で、人間の根源的なもの。それは乙女を生贄とするという祭りであり、断片的な素材や、のちの音楽に連なる力と強さをも備えたもの。強い刺激に拒否反応も起こる人もいるでしょう。毒をもあわせて革命的な作品であることが体感されます。
 

 


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