想像の世界(355)イエス・キリストの山上の垂訓の最初の言葉なのだが…



想像の世界(355)イエス・キリストの山上の垂訓の最初の言葉なのだが…



心の貧しい人たちは幸いである。

天国は彼らのものである。

悲しんでいる人たちは幸いである。

彼らは慰められるであろう。

柔和な人たちは幸いである。

彼らは地を受け継ぐであろう。

義に飢えて乾いている人たちは幸いである。

彼らは飽き足りるようになるであろう。

憐れみ深い人たちは幸いである。

彼らは哀れみを受けるであろう。

心の清い人たちは幸いである。

彼らは神を見るであろう。

平和をつくり出す人たちは幸いである。

彼らは子と呼ばれるであろう。

義のために迫害されてきた人たちは幸いである。

天国は彼らのものである。



イエス・キリストの山上の垂訓の最初の言葉なのだが、ガリラヤの全地を歩いて御国の福音を宣べ伝え、こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群集が来てイエスに従った。

イエスがこの群集を見て山に登り話をしたわけだが、その時の話が最初の山上の垂訓と言うわけだ。

勿論、話はもっと続くわけだが、僕は聖書を何度か読んだが、いつも思うのはイエスの考えたこと、教えた事は、大体山上の垂訓に書かれた言葉が全てで、それも内容の筋が通るように後の弟子たちが何百年かけて作り上げていったのが、聖書ではないかなと思うわけだ。

言わば”2020年”かけて作っていったとも言えるわけだが、勿論最初のころから数百年で完成した書物だろうと思うのだ。



世界一売れて世界一読まれた書物とも言われ、多分それに続くのが”コーラン”ではないかなーと思うのだ。

旧約聖書になっているユダヤ教は、それは長い長い歴史があり、次に釈迦の言葉があり、新約聖書、そしてモホメッドのコーランがあり、以上の4つで宗教の基本は全部出来上がっており、それぞれ文章をまとめる天才がいたんだろう。

コーランの事は知らないが、仏教は教養のための哲学とも言え、2500年前に基本は出来たらしいが、仏典はおびただしくあり、99%後の世の人が考えていたのではないかな。

釈迦やイエスが全部考えたものではないと思うし、何せ1700年前のコーランや、2020年前の聖書や、2500年前の仏典なんて、それぞれマホメットも、イエスも、釈迦も書いている暇はないのじゃないかな。

こうして聖書は、今もボロボロに台風で雨に打たれて、今も僕の元にあるのだ。



何年に1度、山上の垂訓を読み返してみるのだけど、本当に良く出来たもので、1番いい教養書じゃないかなーとも思うのだ。

ただ、それで生きている牧師などは大変だなーとも思う。

”義のために迫害されてきた人たちは幸いである。”

”天国は彼らのものである。”

天国があると信じて義の為に戦い死んでいく若者が、世界中ではおびただしくいる。

僕など死んだら、”The end”、で、最後は何もないと思っている人間だが、いくら天国があると教えても、さてそれはどこにあるのかな。

宇宙の果ての果て、もう無限の広がりを持った広大な宇宙で天国はないと僕は思っていて、一番の楽園は緑なす地球のみと思っているのだ。

その地球もわずか100年でおかしな星になってしまったからね。

だから宮古島だけでも楽園にしたいんだけどなー。



2020年1月11日



人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠の思い出 memories
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…

https://kamosan.ti-da.net/e10459057.html



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