44.day of Memories アカンバまーちゃんの人生



44.day of Memories アカンバまーちゃんの人生



海上自衛隊とは名ばかりで、当時は海軍上がりが全て指導しており、当然海軍式の指導法がまかり通っていた。

一見理不尽だけどそれなりに軍隊としては筋が通っており、俺は納得して従った。

とてつもなく声のデカイ気合の入った40代から50歳ぐらいの奴が俺たちを主に指導した。

軍曹だったと思うが、大概俺たちを指導するのはこのレベルだったような気がする。

ただ時々ちょっと上の奴が指導する事もあったが、やはり学校と違い教師と生徒の親しみを込めた馴れ馴れしさなんかはなく、親しむのはもっぱら同期だけで、だから同期の桜なんて歌もあり、同期とは親しく本当に良いものだった。



3カ月間起床から就寝までみっちり仕込まれたが、昔と違って休みの日は割とのんびり過ごしたものだ。

しかし兎に角時間には厳しく1分1秒の遅れも許されず、起床からベッドを整え運動場に整列するまでが5分と言う信じられない速さで、一通りの朝の訓練を終えて部屋に戻るときれいに片付けたつもりのベッドが全て床に投げ出されてバラバラになっている事もあり、それはきちんと片付けがされていなかったと言うことで、幸い俺はそういう目には会った事は無いが、当初は毎日何人もやられたものだ。

訓練は厳しかったが俺は満足だった。

ただ毎日グランドを5,000mも走らせられることが1番辛く、もう息も絶え絶えだったものだ。

何せグランドを何周も回るわけで、教官は目を光らせ6尺棒を持って見張っているので苦しくても止まるわけにはいかない。



運動大嫌いだったツケが、今回って来たわけだ。

しかし3カ月も毎日やれば5kmぐらいは平気になっていたが、最後にフル装備で20kgだか30kgだか忘れたが重いリュックを担ぎ銃を持って20kmぐらい山を登ってのマラソンをさせられた時は、あまりの苦しさに途中で歩くのだがカーブを曲がると隠れていた軍曹が6尺棒で殴る始末で、あまりの痛さにまた走り出すわけだ。

もう山から降りこの重装備の訓練が終わるまで何度も殴られたもんだが、痛さより苦しさが多く残っていたな。

海軍だけに水泳もちょいちょいプールでやったもんだが、残念ながら俺は平泳ぎだけでクロールなどはやったこともない。



幸い平泳ぎは数時間も名護の海で泳いでいたので、ま、得意な方だった。

親しかった奴がかなりいたが今は皆名前も覚えていないのは3カ月の付き合いで、みんなバラバラの艦隊として別れてしまいそれ切り会った事もなく、顔も忘れてしまったのさえ多いのだ。

ただ関根と言う千葉の船橋出身の奴とは船橋と言う事と、ずっと剛柔流の空手をやっていた事でとても親しく今でも覚えているわけだ。

2カ月程して山と古原が横須賀に会いに来てくれて、1日仲良く遊んだ事は懐かしい。

その1年後には古原も大学を辞めたらしく、結局古原は1年留年の後で辞めたので、つまり2年生までだったわけだ。



ま、俺もセーラー服の制服で、俺としては結構気に入っていたが、この制服ですぐに海上自衛隊と分かるわけで女にはまるでモテない事が分かったもんだ。

女にモテることには自信満々で自信過剰だった自信をぺしゃんこにされた時だった。

こうして3カ月の横須賀での訓練を終えて、俺は、”うらなみ”、と言う護衛艦に配属された。

その頃の海上自衛隊では護衛艦と呼んでいたと覚えているが、つまり駆逐艦だ。

割と大きくて記憶では乗組員は200人を越えていたように思うのだ。



俺は言わば二等兵ってわけだが、1番砲で艦の1番前の大砲の係りってわけだが、それに弾を込める役ってわけだ。

結構デカくて重い大砲の弾を掴んで持ち上げ大砲に込めるのだが、つまり1で掴み、2で持ち上げ、3で込める、1、2、3の繰り返しだ。

これを戦闘中ずっとするわけだが、アメリカの軍艦ではみんな自動で、艦底、つまり艦の内部から弾が自動で砲にせり上がって来て、砲に込められるわけだ。

日本はまだ手動でやっており、1、2、3で込めているが、アメリカの艦ではドン、ドン、ドンと入っていくか、機関銃のようにダダダと打っていくわけだ。



アメリカ兵と日本兵の精度は日本兵がかなり正確で上だとは言われていたが、何せ物量とスピードが違うので、俺たちはよく冗談で同じ兵器をあてがわれたらいつでも米軍と戦って見せるけどな、なんて言って笑ったもんだ。

もっとも俺の記憶では特に愛国心なんて考えもしなかったし国を守るとも意識せず、せいぜい仕事だと割り切っていたと思うんだ。

何せ敗戦で、あまりプライドもなかったかも知れないな。

最も自信過剰はロクな事はないな。

先の大戦もきっと我慢できない事があったにせよ、自信過剰だったんじゃないかな。



こうして特に何も考えず、ただ俺はそのうち船長の免許をもらえると軽く考えてうらなみ艦隊で働く事になったのだ。

うらなみは予想以上に立派な船で、うーん、と俺はうなって感心し大満足だった。

小さな船の船長になり、アフリカやブラジルまで渡れたらいいなと考えていたが、今は外国航路の大きな船も悪くないななんて想像も湧く始末だったのだ。

こうして俺の艦隊は、横須賀に基地を持つ艦隊と決まったのだった。



2020年 7月11日



人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠の思い出 memories
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…

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