木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

古式泳法

2024年01月26日 | 水泳(所感)
弊著「慶応三年の水練侍」は江戸時代にもバタフライに似た泳ぎはあったのではないか、という前提のもとに執筆しました。

日本の古式泳法というと、非常にゆっくりした泳ぎを想像する方が多いと思います。
たしかに日本の泳法は武具を付けて泳ぐことを前提としていることや、泳ぎ切ったあと疲れてしまっていては戦いにならないので、体力の消耗を防ぐ観点から、ゆったりした泳ぎが多いのは事実です。
また、敵から攻められることも想定しているので前方が見えるように顔を上げて泳ぐのが基本です。

しかしながら、堀を泳いで敵を攻めようとした場合など、ゆっくり泳いでいたのでは城内の敵から攻められ、すぐに死んでしまいます。
日本泳法であっても速く泳がなければならない時があるのです。

日本は島国だけあって、泳法の流派は百花繚乱、それこそ百を超える流派があったと言われています。
今に伝わっていない流派が多いのですが、十三の流派が日本水泳連盟公認となっています。
もともと日本の泳法は、スピードを競うものではないのですが、日本水泳連盟の下、年に一回、泳法大会が行われており、100m泳の記録も
計測されています。
それによると、優勝が1分06秒79(2023年・佐藤公介氏)となっています。

ちなみに、世界記録を見ると
平泳ぎ  56秒88(2019年・アダム・ピーティ氏)
クロール 46秒86(2022年・ダビト・ポポビッチ氏)

こうしてみると、現在の水泳四泳法の中でもっとも遅い平泳ぎよりも10秒も遅い記録です。
しかし、1分06秒79という記録は、25mを16.75秒で泳いでいることになります。
これは相当速いスピードです。
一般の人が全力で泳いでも、なかなか出せないスピードだと思います。

水泳は左右対称が基本ですが、最近のクロールにおけるギャロップ泳法のような左右非対称の泳ぎで最速記録が生み出されることを思うと、もしかすると古式泳法の横泳ぎの中から、未来の最速泳法が登場してもおかしくないような気がします。
今度は侍がオリンピックに出る小説を書こうかな。





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札付きの悪とは?

2024年01月07日 | 江戸の暮らし
「札付きの悪」の札付きというのは、何のことだかよく分からない。

その前に、「札付きの悪」の意味のおさらい。
岩波国語辞典によると、「札付き=札(正札)がついていること。転じて、悪い定評があること。そういう人または物」とある。
言葉の意味は分かるが、「札付き」の札が何だか分からない。

前回も参考にした「絵で見て納得!時代劇のウソ・ホント」(遊子館)笹間良彦著に詳しい解説があった。
結論から言うと、この場合の札とは付箋のようなものだ。
以下に同書からの内容を書いてみたい。

江戸時代は連座制だったので、一家の誰が罪を犯しても、罰は家族全員に及んだ。
そこで、子供が罪を犯す恐れがありそうな場合は、前もって親子の縁を切って、勘当したという書類を町人に届けた。
町役人から書類を受け取った名主は町奉行所に届けて決済を受けた。
江戸時代、町人の戸籍というのは現代と同じくらいきっちり管理されていて、町役人のところや町奉行所には人別帳という戸籍簿があった。
この人別帳から抹消(帳外)されて無宿者となれば、家族は共同責任を追及されなくなる。
この作業を久離(きゅうり)を切ると言った。

ここまでが前段で、以下が札付きの説明となる。

勘当されそうな要注意人物には、あらかじめ札を貼っておいて、犯罪を犯したらすぐに札を外して、帳外にするための手続きがとれるようにしていた。
このように勘当の予備軍としていつでも手続きをとっていたので、これを「札付き」と言った。

ということである。







↓よろしかったら、クリックお願いいたします!
人気ブログランキングへ
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸黄門のお銀の職業って?

2023年12月09日 | 江戸の暮らし
水戸黄門に出てくるかげろうお銀。
由美かおるが演じ、人気を博したキャラクターである。
お銀は、くノ一なのだが、普段は鳥追女の恰好をしている。
鳥追女?
よく分からない職業ではないだろうか?

鳥追いというのは、元来、小正月(1月15日)に行う農耕行事だ。
小学館の「ビジュアルワイド 江戸時代館」によると、

鳥追いは田畑の害鳥を追い払う行事。
小正月に棒で地面をたたいたり、唄や音曲で鳥を追い払ったりして、豊作を祈った。


とある。

では、鳥追女はどうだろう。
遊子館「絵で見て納得!時代劇のウソ・ホント」(笹間良彦)から引用する。

鳥追女は、普段は質素な姿で菅笠をかぶり、新年(正月一日から十五日まで)のみ衣服を新しくし、菅笠から編笠にかえて三味線を弾き、清元や富本、常磐津、長唄、新内などをうたいながら門付けした女太夫と称する女芸人である。

鳥追女は、江戸時代中期になって弾左衛門配下の車善七支配の山本仁太夫の許可を貰った五十人がはじまりである。
この鳥追女が流して歩けるのは江戸府内のみで、関所を越えることはできなかった。

まあ、水戸黄門さまが一緒なのだから、関所を越えられたとしてもおかしくはない。
しかし、江戸時代中期にならないと現れない鳥追女が江戸初期にいたというのは、いかに黄門さまといえども手には負えないのではないだろうか。






↓よろしかったら、クリックお願いいたします!
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フタスぺ2023 ~本日まで開催

2023年02月26日 | 小説
電子書籍半額セールの「フタスぺ2023」。

いよいよ今日までです。

若き日の十返舎一九を描いた「あすなろ道中事件帖1~3」も出品しております。

よろしくお願いいたします。


フタスぺ!2023小説フェア

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川上貞奴と各務原~各務原歴史民俗資料館

2023年02月18日 | 小説
かがみはら百科+「川上貞奴と各務原」 
各務原歴史民俗資料館(令和4年1月29日発行)

川上貞奴は、日本で最初の近代女優と言われた女性だ。
本名は、小山貞。
明治4年(1871年)両替商を営む小山久次郎の12番目の子どもとしてうまれた。
実家の没落に伴い、日本橋葦町(よしちょう)の芸者置屋の浜田屋の女将・可免(かめ)の養女となる。
人気芸者となった貞は、16歳のときに「奴」を名乗るようになる。
このときの後ろ盾は初代総理大臣の伊藤博文らであった。
23歳のとき、貞奴はオッペケペー節で一世を風靡した新派劇の創始者・川上音二郎と結婚。
芸者の世界から離れる。

音二郎の一座は、アメリカやイギリス、フランスへ公演に行く。
海外での公演で、男性が女性役を演じるのは気味悪がられたため、貞奴は「仕方なく」女優となった。
ピカソやロダンなども貞奴に夢中になったという。
帰国後、音二郎は茅ヶ崎に三千坪の松林を購入し、「萬松園(ばんしょうえん)」と名付けた新居を建てた。
音二郎は明治44年(1911年)11月に逝去。
貞奴は、その後も一座を率いたが、大正六年(1917年)に女優を引退。
引退のときの記念品として、貞奴は、
「兎にも角にも 隠れ住むべき 野菊かな」
と焼き付けた白磁の湯呑を配った。

福沢桃介は、旧姓岩崎。
福沢諭吉の次女・房(ふさ)と結婚して福沢姓となった人物である。
貞奴が15歳のときに、成田山まで参詣に行った際、野犬に襲われた。
その危機を救ってくれたのが岩崎桃介であった。
それ以来、貞奴は桃介と交際するようになったのだが、1年後に桃介が房と婚約し、ふたりの仲は破局してしまう。
貞奴が音二郎と結婚した後は、桃介は一座の後援者として裏で貞奴を支えた。
音二郎の死後、貞奴と桃介は急接近。
大正8年(1919年)には名古屋市東区二葉町に「二葉居」と名付けた新居を完成させる。

桃介はのちに「電力王」と呼ばれる実業界の実力者であったが、その元となる財力は諭吉の七光りではなかった。
明治28年(1895年)北海道炭鉱鉄道の石炭主任として働いていたころ、結核となってしまい、会社を辞め入院した。
これが不幸中の幸いとなる。
入院中、桃介は相場で小金を儲け、さらにその儲けを株式に投資して巨利を得る。
ここから、桃介の快進撃は始まる。

大正3年(1914年)名古屋電灯株式会社の社長に就任した桃介は、木曽川の水力発電事業に乗り出す。
大正13年(1924年)11月、木曽川電力開発事業の中で最難関と言われた大井発電所が完成。
桃介は昭和13年’1938年)2月15日、東京の渋谷邸で永眠。

貞奴は、昭和4年(1929年)に木曽川のほとりに別荘を建て、茅ヶ崎と同じ「萬松園」と名付ける。
東京の牛込河田町に住んでいた貞奴は、1月、5月、9月のそれぞれ28日に萬松園を訪れ、10日ほど滞在した。
その貞奴は昭和21年(1946年)12月7日に肝臓がんのため逝去。

貞奴は菩提寺である成田山貞照寺に「八霊験絵図」を寄贈した。
これは貞奴が画家の岡田如竹(おかだにょちく)に彫らせた木版である。
そこには貞奴の人生のピンチが描かれている。
第二面には、桃介の出会いとなった野犬に襲われた場面、第五面には音二郎と小舟で相模湾を漂流した場面が描かれている。

貞奴にっとては音二郎に対する愛情も、桃介に対する愛情も本物だった。
男に追従するのではなく、自分の道を貫いたといえる。
裏ではいろいろ言われたに違いないが、信じる道をまっすぐに歩いた貞奴の姿勢には圧倒される。




音二郎との結婚式



↓よろしかったら、クリックお願いいたします!
人気ブログランキングへ


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀伊国屋書店 フタスぺ2023開催中

2023年02月15日 | 小説
紀伊国屋書店のウエブサイトで今年も双葉社のフタスぺが始まっています。

2月26日までの限定で、対象のタイトルが半額となっています。

弊著の「あすなろ道中事件帖」も「悪女のゆめ」「銀色の猫」「新月の夜」の三部作が半額の対象となっております。


この小説は若き日の十返舎一九を描いたものです。


一九の幼少期は、自ら話をほとんどしなかったのでよくわかっていないのですが、早い時期に小田切土佐守直年の下に仕えています。

土佐守は、大坂町奉行を経て、町奉行に就任するのですが、大坂にいる時期に一九は材木商に入り婿して、武士の身分を捨てています。

しかし、戯作家になる夢は断ちがたく、ひとり江戸に修行に出ます。

その後、蔦屋重三郎の食客となり、戯作の絵などを描くようになるのですが、それまでの一九は無職で収入もなかったので、町奉行に出世した土佐守の援助を受けていたのではないかと思われます。

「あすなろ道中事件帖」はそのころの一九の姿を描いた小説です。

定職も持たず、金も妻子もなく、夢だけを持っていた一九は悶々とした日々を送っていたに違いないのですが、人として魅力を感じます。


時代小説は読まない、といった人にも読んでいただけるような一九の成長譚となっておりますので、この機会にぜひお読みくだされば幸いです。


双葉社 フタスペ!2023_小説フェア|紀伊國屋書店Kinoppy (k-kinoppy.jp)







↓よろしかったら、クリックお願いいたします!

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬のいた風景~南部馬

2023年02月11日 | 小説
郷土資料館や博物館に行くと、
「いつか使うかもしれない」
と思って、必ずといっていいほど資料集を買ってしまう。
しかし、ほとんどが本棚の肥やしとなっている。
これではいけない。
ランダムに抜き出し、備忘録的に面白いな、と思った点をブログに書いていきたい。

まずは、もりおか歴史文化館の「あの日あの時の盛岡4馬のいた風景」(平成26年10月26日発行)。

「南部駒」「南部馬」と呼称される南部藩名産の馬は、南部地方が「糠部郡(ぬかのぶぐん)」と呼ばれた時代から「糠部駿馬」として広く知られていた。
平安貴族にとって、良馬の獲得は権力や財力を示すものであったので大変重要視された。
藤原氏二代藤原基衡(もとひら)は京の仏師・運慶に五十疋の糠部駿馬を贈った。
時代は下って江戸時代になると、南部藩による馬は「野馬(のま」、民有の馬は「里馬(さとうま)」に分けて厳しく管理された。
このうち、牡馬を「駒」、雌馬を「駄」と呼んだ。
さらに「馬改(うまあらため)」を置いて、上中下の三等級に区分し、髪を切り「髪印」で認識できるようにした。
範有の馬は藩内九か所に設けられた「御野(おんの)」(藩営の牧場)で育てられた。

江戸時代の馬は体高が一三〇センチくらいであったが、南部駒は一四五センチと体高が高く、見た目や気性もよかったため、憧れのブランド品であった。
南部藩は「南部馬」のブランド力を維持するため、野馬はもちろん里馬も他領への流出、あるいは他領からの馬の流入についても厳しく管理した。

ブランド力を維持するために出荷規制をかけるとは、現代でもありそうな話だ。
あと、「駒」が牡馬に対する名称だとはしらなかった。

↓よろしかったら、クリックお願いいたします!
人気ブログランキングへ



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国定忠治とお旦那博奕打ち

2022年04月23日 | 小説
笹沢佐保が「天保・国定忠治録」で面白いことを書いている。

国定忠治は「いわゆる、お旦那博奕打ちである。このお旦那博奕うちは、親分になる者が多かった」

お旦那博奕打ちとは言うまでもなく、実家が金持ちだということだ。

「清水次郎長、笹川の繁蔵、加島屋長次郎、国定忠治、みなお旦那博奕打ちである」

その理由として、

「一つには子どものころから生きることに苦労して来た無宿人とは違って、どことなくおっとりしたところがある点だった。狡猾さがなく、万事に大まかである。それが親分肌ということになって、人望を集めるのであった」

また、

「第二に、なまじ育ちのいい者がその気になると、まったく向こう見ずになるということだった。小さいときから虐げられて、人の顔色を窺うというところがない。怖いものしらずであった。それが、たいへんな度胸になるのであった」

うーん、と思うところもあるものの、面白い意見だと思う。



↓よろしかったら、クリックお願いいたします!
人気ブログランキングへ
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新年のご挨拶

2022年01月03日 | 日記
新年あけましておめでとうございます。



昨年はコロナに振り回された一年ですが、今年は平和な年となるように祈るばかりです。



個人的には、昨年は思うようにならないことばかり多かった年でしたが、今年は勝負の一年だと思って、日々精進していこうと思っております。



今日は虎ノ門にある金毘羅神宮に初詣でに行ってまいりました。

毎年、この場に来ると背筋が伸びる思いがします。

改めて一日も無駄にはできない、と決意を新たにした次第です。



どうか、本年も応援のほど、よろしくお願い申し上げます。



木村忠啓



↓よろしかったら、クリックお願いいたします!
人気ブログランキングへ
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駿河遊侠伝 ~ 子母澤寛のすごさ

2021年08月18日 | 小説
変わったペンネームだと思っていたが、子母澤寛の「子母澤」は住んでいた世田谷区の地名から採ったそうだ。
その子母澤寛の「駿河遊侠伝」を読んだ。
正編、続編の2冊構成だ。
最初は読みにくいなあ、と思いながら読み進めたのだが、まるで本当に見てきたような描写にいつしか引き込まれていった。
子母澤寛は、明治25年生まれ。
小説を書くようになってからも、江戸時代を生きた人は何人も存命していた。
その人々に取材して「古老曰く」という描写で当時のことを詳しく聞いているのだから、かなりリアリティがある。
この「駿河遊侠伝」は清水の次郎長のことを描いた小説だ。
言うまでもなく、清水の次郎長はやくざだ。
だから、いろいろ悪く言う人もいる。
私自身、次郎長は明治以降は、「官」の側に行ったのだから、利権ももらえるし、悪いことをしなくてもよくなったのだ、くらいの認識だった。

「駿河遊侠伝」の2巻目で、次郎長が富士の麓の開墾を断念する場面が描かれている。
次郎長は山岡鉄舟らの勧めにより、囚人を使い、開墾作業を指揮することになった。
富士山の麓で、今も次郎長町の名が残る場所である。
この開墾は次郎長も本腰を入れいて、かなり長い間続いたが、結局、次郎長はたいした成功を収めることなく撤退する。
撤退したのは資金が続かなかったためという説もあるし、いくらやっても不毛だと見切りを付けたと書いた説もある。

「駿河遊侠伝」によると理由は違う。
次郎長は、金策のため、大金持ちである回漕問屋播磨屋鈴木与平(現在の鈴与の創始者)を尋ねる。
その場面。

「この一件で後の世に親分はふたつの名を残すことを覚悟しなくてはならないよ。清水の次郎長は、いやな思いをして借金してまで開墾をやって、やくざの若い者を堅気にしようとした、いや次郎長は、金を借りに来た、それも未だに返さない悪い男だったとね」
「へえ」
「お前さんのような男は売った名前が看板だ。さ、どっちにするか。決心一つだ。お前さんのすることがいいとか、悪いとか、播磨屋にも返事の覚悟がある。え、うわべの名前をどこまでも惜しむのなら、やらない事だ、もしまた自分はどう伝えられてもいい、大渕村に一町半町の新田に秋毎に実り、あの村の駄菓子屋のとっさんはむかし次郎長身内のばくち打ち何々の兄イだよと言われる男がたった一人できたとして、それがうれしいか、親分どっちがいいね」
二人にずいぶん長い間の沈黙が流れた。遊侠にゆすりたかりの汚ねえ名前が残っては次郎長ならずとも死んでも死にきれない。その次郎長のがくっと頭を下げた姿を
「この男もずいぶんやつれたなあ」
播磨屋は心の中でそう思った。


実に見事な描写で、思わず唸ってしまった。

少し分かりにくい表現かもしれないので、蛇足ながら意味を補足してみると、与平は金を貸してもいいと思っていたが、それは返済の見込みの立たない金である。
事業を推進すれば、次郎長は開墾をやり遂げた男というポジティブな評価と、借金を踏み倒した男というネガティブな評価が後世に残ることになる。
それでもいいのか、と与平は聞いていたのだ。

昔のやくざを語る上で、恥とか、名前などといった概念をはっきりと把握していないと、ほとんど理解できない。
上の一文は次郎長のみならず、当時のやくざと呼ばれたひとの心境を端的に表している。
それにしても、見事な描写だ。



↓よろしかったら、クリックお願いいたします!
人気ブログランキングへ


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする