Life is the very ART

Life is the very ART

命こそ、人生こそ芸術作品だ!!

生きることを心から謳歌したいという願い、
やりたい放題生きると決めた

書を、文章を、落書きを、写真を、クルマやバイクを通じて
試行錯誤しながら考え、気づき、実践する
そんな「にんげん 伊藤 義之」のBlog

Ameba Ownd のわたしのHPと連携しているので
わかりづら~いですがページいちばん上のリンクからHPへ飛ぶことができますよ♡

 

 

世の中では・・・

 

 

とにかくやってみる、とか、

 

とにかく数をこなす、とか、

 

そういうのが重要と、よく言われます。

 

 

根性論っぽくて、

 

個人的には大キライ(笑)な部類の言葉です。

 

 

 

しかし、習熟するまではどんなものごとも、

 

試行回数がものをいうことは非常に多いです。

 

 

例えるなら・・・

 

逆上がりのやり方を本で読んだとしても、

 

実際にできるようになるまでは、

 

できるという感覚を体で経験するまでは、

 

できるようにはならない、ということですね。

 

 

 

ではなぜたくさん試行するとできるようになるかと言えば、

 

当たり前だけど、

 

思考するたびに考え、反省し、新たな方法も模索し、

 

それを繰り返すうちに洗練されていくからですね。

 

 

で、作品制作の準備。

 

これがなかなか手間がかかるわけですよ。

 

 

特に墨についてはナマモノなので、

 

作ったそばから、墨色がどんどん変わっていきます。

 

 

美しい墨色を狙おうと思うと、

 

どれぐらいの量つくるか、

 

その日の気温や湿度はどうか、

 

紙の厚みや湿気はどうか、

 

墨をつくってから、いつぐらいから書き始めるか、

 

などなど気にする項目が多岐に渡り、

 

なんとか必死で用意した墨で書き始めてみたら、

 

 

あれまぁ!!

 

 

と、ガッカリするような結果になりかねません。

 

 

この10年ぐらい墨のことに限らず、

 

ホントにあれこれやってきました。

 

ほとんどの場合は、うまくいきませんでした。

 

 

しかし頭は使うものです。

 

 

悩み、試行し、思考して・・・

 

 

ちゃんと蓄積していくものがあります。

 

 

まだまだ抜群に美しい墨色には到達しないし、

 

紙の使い方、筆の運び方、体の使い方、センス・・・

 

言いはじめればどれも終わりがあるものでもなく、

 

きりがないわけだけれども・・・

 

 

最低限はなんとかなるようにはなってきました。

 

 

手間が省け、時間も手間も少なくなり、

 

悩みがひとつ減ると、

 

他のものごとにそのリソースを割くことができます。

 

 

どんどん解放感を感じ始めます。

 

 

やっとこですよ。

 

そしてこれからですよ。

 

 

でも今日は色でません。無理。(笑)

 

甘いものでも食べてないとやってらんねーぜー。

 

こんちくしょー。

 

 

と言うわけで、これはフィナンシェ!

 

誰も作ってくれないので自作(笑)!!

 

 

「焼きたてフィナンシェミックス」

 

 

なるステキミックスがお値打ち価格で売ってたので、

 

いざというときのために(笑)買っておいたのだ!!

 

 

思った以上にちゃんとフィナンシェ!

 

ケーキの型なんて気が利いたものは、ウチにはありませんよ?

 

だからグラタン皿なのさ!!

 

でもおいしい♡

 

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人生は、よく旅に例えられる・・・

 

 

なかなか的を得た例えだと、僕も思う。

 

 

 

では、人生は旅だとして、

あなたはどんな旅をしたいだろう?

 

 

新たな発見や出会いに溢れ、

見たことのない景色、植物、動物、昆虫、人・・・

 

 

味わったことのない食べ物を食べ、

古い建物や風習に新鮮な驚きを感じる・・・

 

 

そんな旅は、きっと充実して楽しい。

 

 

道中は、雨や雪が降れば体が濡れて寒さに震えるし、

 

 

道に迷えば、その道がどこに通じているのかわからず、

不安を抱えて進むこともある。

 

 

怪我や病気にかかって、大変な思いをすることだって、

ないとは言えないだろう。

 

 

しかし、それら全て通り過ぎてきたことを振り返ると、

なかなか良い旅だったなぁ、なんて思ったりする。

 

 

良い経験ばかりでなく、

辛い経験も、そこから何かを知ることができるし、

 

 

経験したからこそ、血肉のある説得力で、

別の誰かにアドバイスできたりもする。

 

 

 

人生が旅だとするならば、

そういう旅をしたいし、してほしい。

 

 

 

 

旅の目的が・・・

 

 

何かから抜け出すためだったり、克服するためだけだと、

それは苦しく、

それゆえに終わりを、出口を安易に求めてしまう。

 

 

しかし何かを見つけたり、気付いたり、

そんな探検のようなつもりの旅は楽しく、

きっと終わってほしくないとさえ思うだろう。

 

 

 

あなたの旅は、人生はどこを向いているだろうか?

 

 

 

苦しいと感じること、

辛いと感じることにばかり目が行くなら、

その旅は失うことを恐れながらの、

苦難に満ちたものに見えるだろう。

 

 

発見し、知識や知恵が増えること、

自分の世界が広がることに意識が行くなら、

実り豊かな、素敵な旅だと感じられる。

 

 

 

全く同じ旅なのに、どこを向くかでまるで違うものになる。

 

 

 

人生をより美しくしよう。

 

 

 

あなたは何に目を向けて、人生を旅するのか・・・

 

 

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わたしは芸術の世界に身を置いていますが、

 

 

「まじめ」

 

 

と言われることが多いです。

特に作品制作において師匠から・・・

 

 

 

 

「まじめ」

 

 

この言葉、良い評価に聞こえる場合もあるでしょうが、

私のこの場合は、全くそうではなくて、

 

「遊び心が足りない」

「緩みがない」

「融通が効かない」

 

というような意味です。

 

 

 

わたしが書く作品に滲み出てきてしまうこの、

 

「まじめ」

 

わたし自身の精神性の深いところにある、

 

「何事につけきちんとしたい」

 

という刷り込みというか観念というか、

そういうものが無意識に働いて、

思考や体の動きを、そのように仕向ける・・・

 

日々書に向かい合って、

自分の内面にある、そういうものに気づきます。

 

 

 

果たしてそこで考えます。

 

 

「何事につけきちんとしたい」

 

という観念は、そんなによろしくないものか?

 

「きちんとしたい」と思うことがなければ、

何かしらにおいて中途半端なことをするなどしてしまい、

自分のみならず他者にまで余計な手間を取らせたり、

期日が決まっているようなものに間に合わせることをせず、

大切な機会を逸したりするかもしれないじゃないか・・・

 

 

ということは・・・

 

「きちんとしたい」

 

ということそのものはそれほどおかしなことでもなく、

よろしくないということはあるまい。

 

 

しかし書道の、

特に作品制作に於いては、うんざりするぐらい・・・

 

「まじめすぎる」

「きちんと書こうとしすぎている」

 

と言われ続けています。

 

 

 

ところで書の作品制作、特に私の師匠の教えにおいては、

原稿を徹底的に仕上げるように言われます。

 

アイデアが浮かんで、いきなり本番!

でうまくいくことは極めて稀である上に、

そのアイデアはまだまだ熟していないことの方が多く、

時間や手間を更にかけて吟味し、煮詰めることは必須。

 

原稿を通じて甘い部分を排除し、ブラッシュアップさせ、

九割がた完成まではそこで終わらせます。

 

 

そこからようやく原寸の作品制作になるわけですが、

まず第一の到達段階は・・・

 

「原稿に限りなく近付けること」

 

原稿は小さなサイズで作っていますが、

目を瞑っても原稿が書けるぐらいにしておけば、

たとえサイズが大きくなったとしても、

それほど原稿から外れてしまうことはありません。

 

 

しかし前述したように、原稿は「九割」。

 

筆という予測不可能な筆記具を使った芸術なので、

残り「一割」は、その予測不可能な部分がうまく力を貸してくれる・・・

 

そうなるようにこれまで培ってきたものをうまく引き出し、

美しい墨色が出るように墨を試行錯誤してつくり、

その偶然性、神からの手助けをいただけるようひたすら制作する・・・

 

作品制作に入っても、改めて原稿を見直して、

さらにその原稿を磨き上げて、改めて作品制作・・・

なんてこともしたりします。

 

 

でもわたしは・・・

 

「まじめ」

 

とお叱りをいただいてしまう。

 

 

私は「臨書」が好きですし、ある程度得意と自負しています。

 

「臨書」

 

とは、古典を模写し、

技術や空気感を体得するための日常的な練習方法ですが、

目の前に「古典」というわかりやすい見本というか正解というか、

それがあるので、安心して取り組めます。

 

 

そうやって、

日々の「臨書」という錬磨の果てに体得した(はずの)、

過去の名人たちの技術、空気感を活かして、

古典のエッセンスを我が身に染み込ませた状態の「わたし」が、

気持ちを乗せて制作するのが書における

 

「作品」

 

です。

 

 

なので、

体得した技術や空気感がありきなのは間違いないのですが、

それだけでは「臨書」と何も変わらないわけです。

 

そしてわたしは、作品を制作するときにも

どうにも「臨書」くさい。

 

 

作品には、練習とは違った「魅力」が欲しいわけです。

 

 

しかしこれが、

頭で考えはじめてしまうと、とても難しい。

 

曖昧さ、変な線や面白い滲みや掠れ、美しい墨色など、

どんなものでも「魅力」になりうる。

 

だから「正解」を求めて考えてしまうと、

どうにも身動きが取れなくなってしまい、

そうすると身動きできないので、

作品の面白みが更に表現しにくくなる・・・

 

 

 

師匠からは、

 

「あなたは芸術作品ではなく、字を書こうとしている」

 

ともよく言わます。

 

 

只の文字を芸術作品にまで高めようとすると・・・

 

眼に見える部分では、絵画的な要素や、音楽的な要素。

題材に対しては、文学的な要素や思想的な要素。

そして眼で確認しづらいものとしては、

雰囲気、オーラとでも言えばいいような、

その人の精神性が見えてくるような雰囲気。

 

そういうものを纏っていなくては、芸術にはなり得ません。

 

「考えるな感じろ」

 

をやっていくしかない。

 

感性、センス、美意識・・・

形のないものを研ぎ澄ませていくしかないのです。

技術的な鍛錬は当然行いながら。

 

 

 

言葉というのはすべからくそうですが、

 

「まじめ」

 

という言葉の表す範囲がそもそも曖昧なので、

文章で表現することが難しいですが、なにかしらの

 

「まじめ」

 

から外れたものが必要なのは間違いありません。

 

 

古典を知り、理解に努め、我が身に染み込ませる。

欠かすことのできない、重要なプロセスですが・・・

 

知る、ということを超えていかなくてはいけない

理解、というものを超えていかなくてはならない

 

鍛え上げられた直感

練り上げられた感性

 

 

そういうものが、どんな分野に於いても

 

新しいもの

今を超えていくもの

 

を表出してきたのだ、と思います。

 

 

 

底の見えない、芸術の道。

それを当然内包している、人の道。

 

あるはずもない底があることを期待するよりは、

行けるとこまで深くいってみようぜ!

 

そんな後先考えない、

頭を使わないことが大切。

 

そう感じています。

 

 

 

そして何とかそうあろうと

 

「まじめ」

 

に取り組もうとして・・・

 

あ、まじめ禁止!

と沼にハマるわけです。

 

 

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